第8・9回は日本の農業政策の歴史と思想について説明します。
現在の食料・農業政策には、戦前からの古い歴史があります。特に、現在の高米価政策、農協制度、農地制度という農政のアンシャン・レジームは、過去の歴史を受け継ぎ、これに規定されています。ここでは、戦前から戦後にかけてこれらの政策がどのようにして形成されたのかを説明します。
戦前、日本農業には、地主による小作人搾取と農業経営規模が極めて零細であるという二つの大きな問題がありました。明治期、アメリカのような大規模な農業を目指すべきだとする大農主義も主張されましたが、小農主義が圧倒的に優勢でした。その小農主義は小農を保護すべきだというものではなく、地主支配を擁護する主張でした。一般的には地主は大農的だという理解がありますが、それは間違いです。農地を持っている点では大農といえる地主もいましたが、地主制は小農主義でした。小作人問題と零細な農業構造という問題はリンクしていました。その理由を説明します。
学会や政界で主流だった小農主義に敢然として異を唱え、大農でも小農でもない中農を要請すべきだと主張したのが、若き日の農政学者、後に民俗学者になる柳田國男でした。かれは零細な兼業農家が多くなるのは、国の病だと言います。農業界では、地主制を擁護する小農主義が大勢を占めていたため、農業の構造改革を唱える柳田の主張は主流の思想にはなりませんでしたが、小作人解放を唱える農政官僚に受け継がれ、彼らの発案と主導によって農地改革は企画・遂行されました。農地改革はGHQの発案ではありません。歴史の教科書は間違っています。農地改革で農村が保守化したことを見たマッカーサーが農村を共産主義からの防波堤にするため、嫌がる農林省に作らせたのが、今の農地法です。農地法は戦後の保守長期政権の影の功労者です。
柳田國男が農家の貧困克服のため、小農による自力や進歩協同相助の組織として期待したのが産業組合(農業協同組合)でした。しかし、農協の発展は柳田の思想とは逆のものとなりました。
柳田の構造改革思想がやっと政府の政策案として実現したのが、1961年の農業基本法でした。しかし、農業基本法は現実の農業政策としては実現されませんでした。というより、逆の方向に農政は動いてしまいました。これによって、常に自由貿易協定に反対する今日の農政ができあがりました。小農主義は今でも生きています。
明治期には国家による保護や介入を否定した津田仙(津田塾大学の創始者津田梅子の父)などの痛快な主張もありました。グンゼが生まれるきっかけを作った前田正名の地域活性化運動、柳田と同様な主張を展開した第55代内閣総理大臣石橋湛山、忘れられた柳田の農政思想を発掘した東畑精一、柳田の後輩にあたる石黒忠篤の農本主義、小倉武一の構造改革、農林省の局長からいきなり大臣になって農地改革と遂行した和田博雄などの農政思想も解説します。
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