地球温暖化が喧伝されている。コンピューターのシミュレーションを使った農作物への悪影響についての予言もある。だが、そんな単純な問題なのか。「江戸東京野菜」の代表的存在として知られる練馬大根を長年生産してきた篤農家を訪れ、取り巻く環境変化を聞いた。
東京都練馬区にある平和台駅(東京メトロ有楽町線・副都心線)の近くにある篤農家の渡戸さんを訪ねた。トラクターから降りてきた渡戸さんは89歳になるとのこと。まだまだ現役の農家だ。
渡戸さんは練馬大根を今でも作り続けている、数軒しかない農家の代表的な存在だ。練馬大根と言えば、徳川綱吉がその沢庵漬けで脚気を治したという伝説がある(練馬区ホームページより)。
明治から昭和前半にかけて、練馬大根は隆盛を極め、生産された沢庵は20kmほど離れた東京の京橋や千住に牛車や三輪自動車で出荷された。沢庵はご飯を大量に食べていた庶民にとって欠かせないものであったのみならず、軍隊や工場にも大規模に納品された。
今回渡戸さんを訪ねたのは、激変してきた気象環境の中にあって、どうやって200年以上にわたり同じ練馬大根を作り続けることができたのか、それを知りたかったからだ。江戸東京野菜の第一人者であり、都内の篤農家と親交の深い大竹道茂先生のご紹介で念願の面会が叶った。
今、地球温暖化問題が喧しく言われ、コンピューターのシミュレーションでは農業への被害が出るとされている。本当にそのようなことが起きるとすれば、過去にも起きているはずだ。
日本の平均気温は1880年代に比べて約1℃高くなっている(拙著『地球温暖化のファクトフルネス』参照)。そしてそれ以上に、この農地は都市化による影響で、かなり暑くなったとみられる。
昭和10年代の畑の様子は下記の写真から窺い知ることができる。
もう少し時代を下ると、佐藤克彦氏の書籍『江戸東京野菜』(マガジンランド)の98ページに練馬区の風景写真がある。それを見ると、昭和30年代までは水田や畑が広がり、農家がそこに点在するだけだった。だが昭和40年代以降は宅地化が進んだ。
渡戸さんの畑はそれほど広大ではなく、都内でよく見る宅地の中にある畑である。かつてはあたり一面畑だったとのことだが、今ではその面影はない。周辺の道路は全て舗装されていて、まわりに他の畑は見当たらない。すっかり住宅が建て込んで、4~5階建てのマンションもある。これだと、アスファルトやコンクリートに蓄えられる熱による都市熱は大きい。
建物は周辺の風を変えることによっても気温を変化させる。夏の最高気温は、建物が風を遮って気温が高くなる「陽だまり効果」によって高くなることがある。冬の最低気温に関しては、建物が風を遮り、放射冷却によって気温が低くなる効果もある一方で、建物があることで境界層が攪乱されて気温が高くなる効果もある。
東京・大手町での観測では、1880年代に比べると今の冬の最低気温は5℃から7℃も高くなっている。この練馬区の畑でも、都市化によって冬の最低気温はかなり上昇したはずだ。
渡戸さんの話によると、気温は確かに上昇しており、練馬大根の栽培の時期は1カ月近く遅くなったという。昔は8月15日ごろから種まきをして、11月初めには収穫をしていた。11月3日ごろになるといつも霜が降りたという。霜が降りると作物が傷むので、霜が降りる前には収穫をしなければならなかった。
現在は種まきは9月5日ごろに行い、収穫は11月末である。霜はほとんど一年中降りなくなったため、栽培ははるかにラクになったという。
昔は年によっては霜が降りるのが早く、それで大根がダメになることがあった。サツマイモの葉が変色すると霜が降りるのが近いと分かったそうで、そうなると一斉にイモも大根も大急ぎで収穫した。
凍結を防ぐのも、昔は大変だった。練馬大根は収穫後洗ってから、2週間ほど天日干しで乾燥させた後に沢庵漬けにする。その間、雨を避けるのはもちろんだが、昔は夜間に凍結するのを避けるのが大変だった。はざ掛け(棒などに吊るすこと)をして昼間は天日干しした大根を、夜間は地面に下ろし、上からムシロをかけて保温したとのことだ。1.5ヘクタールの畑に対して、これを人力で毎日2週間やるのだから結構な労力だった。今は凍結するということ自体がなくなった、という。
逆に暖かくなったことで悪影響はなかったか聞いてみたが、「特にない。暖かくなってどんな作物でも栽培できるようになってしまったので、忙しくなった」とのことだった。練馬大根は秋まきで冬に収穫するだけなので、夏はトマトなどを植えている。こちらは暑ければよく育つが、暑すぎて作物に悪いということはないそうだ。
都市化が進んだ結果、困ったことはあった。建物が増えたためビル風のような局所的な突風が発生し、あらぬ方向に作物が倒されることだ。建物の影響で気流が乱れて複雑になり、風向が読みにくくなった。昔は、たとえ台風が来ても、広大な畑をまっすぐ風が通り抜けるだけだったので、対策はしやすかったという。
変わったのは気象条件だけではない。技術の方も進歩した。寒冷紗(かんれいしゃ)と呼ばれる不織布のネットで作物を覆うと保温・防虫・病気予防・暴風除けなどが出来る。昔はこんな便利なものはなかった。マルチと呼ばれるビニールシートで地面を覆うと、保温や雑草除けになる。
農薬も昔は良いものがなかった。今では土壌に必ず農薬を注入して病気への感染を防ぐ。農薬をまいておかないと、大根の表面の色つやが悪くなる。引き抜くと一目で分かるそうだ。
昔は農薬ではなく、「天地返し」といって土壌の上下をひっくり返すことでしのいだという。練馬大根と同様に細長く育つゴボウを植えて、それを引き抜いた後、上下の土を入れ替える。全て人力なので、これも大変な作業だったという。
種採りは毎年している。出来の良かった作物からタネを採って、翌年にまく。これを繰り返しているので、伝統野菜といっても、実際には、全く同じ品種やタネというわけではなく、時間とともに移り変わっている。「昔に比べて葉の色は少し濃くなった」との実感があるそうだ。
なお、昭和8年から30年前半ごろまで、伝染病であるバイラス病が大流行して、この一帯の大根は壊滅的な打撃を受けたが、その中にあってなお実りのよい大根を選抜して種採りをしたので、「その過程でバイラス病に強い作物になっただろうね」、とのことだった。
このようにして、気温上昇と技術進歩を味方につけて、脈々と受け継がれてきた練馬大根。だが、栽培者は減った。生産量は、練馬区民が74万人まで増えたのに対して1万5000本程度になってしまった。
練馬の土壌は、火山灰に由来する黒ボク土の下に赤土がある。土が柔らかくて深いため、根菜はとてもよく育つ。練馬大根は長さ1mにもなる。かつては細長い大根は沢庵のよい材料になった。だが今ではこの細長い形が仇となる。段ボール箱で出荷するときにサイズが合わないのだ。
また練馬大根は真ん中が太くなっていて、先端と根本は細くなっている。このため、引き抜くのにコツがいる。これを逆手にとって、近年では大根引っこ抜き大会が毎年開かれるようになったぐらいだ。
今、青果店で普通に見る青首大根の長さは段ボールに収まるぐらいにちょうどいい。太さも根本から先まで一定していて、ぎっしり箱に詰めることが出来る。さまざまな品種を交配したF1品種(一代交配種)なので、病虫害への耐性も強く、また、品質が一定しているという。何種類ものタネが販売されていて、通年の栽培ができるようになった。練馬のような特に恵まれた土壌でなくても、よく育つタネも販売されている。
練馬大根は青首大根に、市場獲得の競争においては負けたのだ(まあ、練馬大根は別にそんな勝負にこだわってはいないと思うが)。
そして練馬大根の最大の敵は、都市化だった。前述したように、練馬は、かつては一面田畑であり、とくに昭和の初めは一面が大根畑だった。だが現在はすっかり宅地になり、農地は激減した。
それ以前にも、第二次世界大戦のときには食糧不足対策として米や麦を生産するようにとの命令で、練馬大根の作付面積は減った。
また、食事が洋風化するなど、食生活の変化もあった。バイラス病などの病気の蔓延をきっかけとして、大根のかわりにキャベツを育てるようになった。初めはキャベツは全く新しい野菜で、玉菜(たまな)や甘藍(かんらん)と呼ばれ、最後にキャベツと呼ばれるようになった。世田谷の篤農家、大平信彌氏の指導を受けてこの地でも栽培が始まったそうで、今ではキャベツはこの地の主力の野菜になっている。
気候変動ではなく、このような人間社会の変化によって、練馬大根は徐々に主役の座を降りて行ったのである。
練馬大根の歴史は、綱吉伝説から数えれば300年、渡戸家の歴史だけでも200年、渡戸さんの人生だけでも90年になる。
この間、地球温暖化で気温が上がり、それ以上に、都市化によって大きく気温が上がった。霜が降りたり、作物が凍結したりすることはほぼ起きなくなった。他方で農薬やビニールシートなどの技術進歩の恩恵を受けた。タネは採り続けられて、新しい環境と技術に合わせて進化してきた。
だが現代の市場には合わず、F1品種の青首大根の出現、また市街化や食生活の洋食化などの社会の変化によって、東京の食事の主役の座を譲り、今や数軒の農家で受け継がれるだけになった。
昨今、地球温暖化問題ということが言われており、コンピューターのシミュレーションでは農作物への悪影響が予言されている。だがこのような自然、技術、人々の綾なす複雑な未来はとうていシミュレーションなどしきれない。
渡戸さんの大根作りの人生は絶え間ないイノベーションの連続だった。
農業はイノベーションに満ちている。気温上昇などは味方に付けてしまう。だが社会変化には抗えないことがある。
【参考資料】