外交・安全保障グループ 公式ブログ

キヤノングローバル戦略研究所外交・安全保障グループの研究員が、リレー形式で世界の動きを紹介します。

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2026年9月14日(月)

デュポン・サークル便り(9月14日)

[ デュポン・サークル便り ]


ワシントンは、ようやく本格的に秋に突入するのかと思ったら、先週は再び暑さが戻ってきました。湿度も高く、まるで梅雨のようなお天気に、みんなゲンナリです。

9月14日付の本稿ではありますが、これを書いている今日は9月11日。アメリカにとってはニューヨークとワシントンを襲った9・11連続テロ事件の25周年に当たります。先週は前半に共和党の党大会もありましたが、そちらは次回に譲るとして、今回は9・11について書かせていただければと思います。

「この日が来ると、〇年前のこの日、自分がどこにいたか鮮明に覚えている」ほどの重みを持つ日があると言いますが、私にとっては、2001年9月11日がその一つ。当時私は、在米日本大使館勤務が終わって、戦略国際研究所(CSIS)で一研究員として仕事を始めたばかり。新入りなのに「大使館にいたから、ロジとかできるよね。通訳もできるみたいだし」という、ただそれだけの理由で突然与えられた「理事長(所長の上ですから究極の上司)の訪日に同行、訪日が円滑に終えられるように差配する」という「トンデモナイ」大仕事の下準備のため私は東京に先乗り出張、翌日にヨーロッパ経由で理事長より一足先に到着予定だった当時の直属の上司のカート・キャンベル元国務副長官の到着を待っていました。

9・11が起きたのは、東京ではもう夜。私は、友人と夕食を食べて、ちょうど都内のホテルに戻ってきたところでした。自分の部屋に戻ったか戻らないかというときに突然、部屋の電話がなり、誰かと思って電話に出ると、電話口の向こうは父。今まで聞いたことがない声のトーンで「今すぐ、テレビつけろ」と繰り返す父の言葉に押されるようにテレビをつけた私の目に飛び込んできたのは、ニューヨークのツインタワーに飛行機が突っ込む瞬間を映した映像でした。何が起きたか理解できないまま、テレビをじーっと見ていた私の目に次に飛び込んできたのは、黒い煙を上げるペンタゴンの映像。ニューヨークやワシントンに多くの友人がいたのはもちろん、何人かペンタゴンに勤務していた友人のいる私の頭の中は真っ白に。とはいえ、当時、無事を確認する手段は電話しかありません。当然、こんな非常時に国際電話なんかつながらないのです。祈るような気持ちでいろんな友達に電話をかけ続け、ようやく一人と電話がつながった時は、胸が一杯になって号泣したあの夜のことは忘れられません。

その後、アメリカ領空が1週間近く封鎖され、理事長の訪日も中止。上司のキャンベルはヨーロッパ経由での到着だったため、予定どおり東京に到着したものの、なんといっても、CSISに来る前の仕事は国防次官補代理です。自分がペンタゴンにいた当時に一緒に仕事をした仲間で命を落とした人、消息がつかめない人、怪我した人、たくさんいたのでしょう、日本到着直後にホテルのロビーで会った彼は憔悴しきっていて、目は真っ赤。ですが、ここから私は、彼のタフさを見ることになりました。彼は、「明日から、外務省と防衛省の人に会いに行くぞ。お前も通訳兼ノートテーカーで一緒に来るんだ」と、何かを振り切るようにものすごい熱量で活動開始。私は、彼に引きずりまわされる形で防衛省や外務省の当時の偉い方との会合に行きました。すべての会合で彼が繰り返し言っていたのは、「日本は絶対に湾岸戦争直後のような対応をしたらダメだ」と「詳細はあとでいい、とにかく何か『日本はアメリカを支持する』ことがわかりやすく示せるような決断を見せた方がいい」の二つ。そのあと、これまでに見たことがないスピード感で、海上自衛隊が中東に向けて出港する第7艦隊の船を途中まで護衛する映像が流れ、「テロ特措法」が成立することになります。あの時キャンベルが繰り返していたこの二つのメッセージは、のちに故アーミテージ元国務副長官の「ショウ・ザ・フラッグ」という言葉で有名になりました。同じメッセージはアメリカ政府からも間違いなく日本に伝わっていたはずで、キャンベルのような人も当時「何かしなければいけない」と思っていた関係者の皆さんの背中を押すことに一役買っていたのかな、と思う時が今でもあります。

アメリカの領空が民間機に再び開かれてようやくワシントンに戻ってきた私。その後、アメリカがアフガニスタンやイラクへの関与を深めていく中、ある陸軍の友人は、「オレは軍人だ。デスクワークをしてる場合じゃない」と自ら中東行きを志願。別の海兵隊の友人は、9・11当時は飛行機がペンタゴンに突っ込むほんの数分前まで、飛行機が突っ込んだ区域にあった会議室で会議に出ていました。会議が予定より早く終わったことで命拾いした彼は、その後、「自分は歩兵だし、きっと中東に何度も行くことになる」と直感、当時始まったばかりだった視力矯正のためのレーザー治療をしています。彼は予想どおり、それから何度も、イラクに派遣されることになりました。実はこの友人の体験談を、私の息子は今年の夏、「アメリカの歴史」の授業のための宿題の一環でインタビューしてレポートにまとめています。この事件がもはや「歴史」の1ページになっていることを実感し、感慨を覚えました。

当時のアメリカは、前年の2000年大統領選挙の結果があまりに僅差だったため、投票結果の集計の確定に2か月近くを要し、なんとなくアメリカが政治的に分断されている雰囲気で2001年を迎えていました。ブッシュ(子)政権発足後、9か月で起きたこの事件を契機に、「政治的信条も、人種も性別もない。みんなアメリカ人」という機運が高まりました。だからこそ、これまで、毎年9月11日の式典はニューヨークでもペンタゴンでも、乗客の必死の抵抗で連邦議会議事堂(一部には、狙いはホワイトハウスだったという説もあります)に突っ込むことを回避、ペンシルベニア郊外に墜落したユナイテッド航空93便が墜落した場所に作られた国立公園でも、追悼式典は政治色を一切排し、犠牲者とその遺族のためだけに捧げられてきました。

それなのに・・・・ペンタゴンで演説したヘグセス戦争長官もトランプ大統領も、あろうことか、9・11の悲劇を使い、現在出口が見えないトンネルに入った状態になっているイランとの戦争を正当化しようとしたのです。ヘグセス長官の前に演説したコンドリーザ・ライス元国家安全保障担当大統領補佐官・元国務長官が演説では、9・11当日の自分や周りの対応、事件直後にワシントン大聖堂にブッシュ大統領(当時)に同行して出席したとき・・などなどの気持ちを振り返ることに徹し、最後を当時政府にいた自分のような人間が、あのような事件を回避するためにもっと何かできていたことがあったかもしれない、という気持ちを込めて「この日が来る度に、痛切な後悔(remorse)の気持ちに苛まれます」と締めくくったのとはあまりにも対照的でした。当然ながら、大統領と戦争長官の二人の演説にはさっそく批判が出ています。ペンタゴンに飛行機が突っ込んだ直後、ワイシャツを血だらけにしながら、髪を振り乱してがれきの下から部下を助けて安全な場所に運ぶ手助けをしている姿が映像に流れたことで、それまでの「嫌な奴」イメージが一変したラムズフェルド国防長官。正直、「タフガイ」のイメージで売っているヘグセス戦争長官ですが、あの時のラムズフェルド長官と同じように動くことができるのだろうか、と私もつい思ってしまったことは否定しません。

実はトランプ大統領、「追悼式典は遺族のためのもの。政治家の演説はプログラムに入れないのが慣例」という理由で演説枠を作らなかったニューヨークでの式典出席を取りやめ、代わりに演説できるペンタゴンに行った、というのが通説。9月10日に受けたインタビューでも「特例を設けてくれたらニューヨークで演説したかった」と未練たらたら。ですが、ペンタゴンでのあの演説を聞いてしまった今、「演説させろ」とダダをこねたトランプ大統領に「慣例だから演説はなしで」と筋を通したニューヨークの式典関係者の皆さんの気概がひときわ素晴らしく見えます。逆に、自分の上司たちが式典の本来の意義を台無しにするところを見ていることしかできなかったケイン統合参謀本部議長の気持ちは察するに余りあります。

また印象的だったのは、ムスリム系だから式典出席は控えた方がいいんじゃないか、という周囲の言葉を押し切って「自分はニューヨーカー、自分の愛するこの市の市長だ。ニューヨーカーのための式典には市長として出席する」とニューヨークの追悼式典に出席したマムダニ市長と、そんな彼を前日まで批判し倒していたにも関わらず、式典で顔を合わせたときには言葉を交わし、マムダニ市長と握手を交わしていたジュリアーニ元市長の姿でした。彼らを見て「このアメリカは私が『ここで生きていこう』と決めたアメリカ。こういうアメリカはまだ残っている」と改めて思い直しました。

最後に、今の政権では強烈すぎるキャラで話題になることが多いラトニック商務長官の、9・11にまつわるエピソードをご紹介したいと思います。事件発生当時、彼はカンター・フィッツフェラルド社の最高経営責任者。当時、すでに大企業だった彼の会社は9・11で倒壊したツインタワーにオフィスを構えていました。9・11が発生した当日、彼は、その日、5歳の息子さんを幼稚園まで送ってから出勤したことで、出勤時間が普段より遅れたため、命拾いをします。ですが、自分は助かったものの、事件発生時にすでに出勤していた、自分の弟を含む650人近くの社員を一瞬にして失うという悲劇に襲われます。

普通の経営者なら立ち上がれないところですが、彼はその後、再起。それだけではなく、

(1)    遺族に総額4500万ドルのボーナス支給
(2)    カンター・フィッツジェラルド社の9・11後5年間の利益の25%を遺族支援のために拠出(総額は1億8000万ドルあまりに)
(3)    遺族の医療保険10年分の手当
(4)    遺族のために設立した「カンター・フィッツジェラルド支援基金」設立のために自分の資産から百万ドル拠出


などの経済的支援をしただけではなく、「亡くなった社員の子供でカンター・フィッツジェラルド社に就職を希望する人は必ず採用する」と約束。現在、約束どおり、同社では遺族のお子さんが60名余り、働いているそうです。トランプ政権入りしてから「強烈なキャラ」の話しか聞こえてこなかったラトニック商務長官ですが、こんな「いい人」の一面もあったんですね。


辰巳 由紀  キヤノングローバル戦略研究所主任研究員