外交・安全保障グループ 公式ブログ

キヤノングローバル戦略研究所外交・安全保障グループの研究員が、リレー形式で世界の動きを紹介します。

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2025年5月12日(月)

デュポン・サークル便り(5月12日)

[ デュポン・サークル便り ]


アメリカ出身の初のローマ教皇が誕生して、アメリカは大変な盛り上がりよう。でもたしか、アメリカはプロテスタントが主流のはずなのに・・・まぁいいのか・・・昨11日は母の日ということで、どのスーパーも先週は「母の日ギフト」コーナーが激混みでした。日本の皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

本来であれば、週明けに内政にフォーカスした「デュポン・サークル便り」をお届けする予定だったのですが、この1,2日で「一時代の終わり」を告げるような出来事が相次いで起きたため、内政について書く前に臨時号です・・・

その出来事の一つは、日本でも大きく報じられましたが、ジョセフ・ナイ教授の逝去。先月亡くなった盟友のリチャード・アーミテージ元国務副長官の後を追うように、5月6日に静かに息を引き取られたナイ教授、第1報は、長く学長を務めたハーバード大学ジョン・F・ケネディ行政大学院からの発表によりもたらされました。

ジョセフ・ナイ教授と言えば、日本ではクリントン政権時代に国防次官補、つまり当時国防次官補代理(霞が関的には審議官級)だったカート・キャンベル前国務副長官の上司として、在沖米軍再編や日米同盟の再定義に向けた努力の先頭に立ち、政府の職を辞された後は「アーミテージ・ナイ報告書」シリーズの共同座長と広く知られている方ではないでしょうか。が、日本とそれ以外の場所で評価に若干の差があるアーミテージ元国務副長官と違い、ナイ教授は国際政治理論の大家の一人であり、超大物学者。国際政治や国際関係論をちょっとでもかじったことがある人なら、かならず、ナイ教授の著書に触れているといっても過言ではないでしょう。なんてったって、1964年にハーバード大学から博士号を取得したあと、そのまま、ハーバード大学に就職、そのあと、政権入りするために休職していた間をのぞいては、ずーーーーーっとハーバード大学で教鞭をとり続けたという、学者としては本当にごく一部の人限られた人にしか許されないキャリアパスをたどった人です。  

ナイ教授の凄さは、1970年代に既に、当時の同僚だったロバート・コヘイン博士と共に、国際理論上の「ネオ・リベラリストの祖」としての地位を確立した後も、「ソフト・パワー」など、現在、我々が当たり前のように使っているコンセプトを、国際政治学の中で理論立てて体系化しようとするなど、常に知的好奇心が旺盛だったことにあります。そして、そのような考えをお持ちの方であるが故に、学生や駆け出しの研究者に対しても、依頼があればきちんと面談の相手になっていたこと。また、あまり知られていませんが、国際政治学や安全保障学の分野での女性研究者の地位の向上を常にサポートしていた方でもあります。  

実は、かくいう私も、ナイ教授と直接、1対1でお話をするという非常に幸運な経験を、まだ駆け出しのころにいたしました。緊張しながらリチャード・アーミテージ元国防長官に就職相談をしに行ったエピソードについては、既にお伝えしましたが、ナイ教授との出会いもちょうど同じころ。在米大専門調査員としての任期満了が近づく中、専門調査員も本来は1年に一度、出張していいのだということを知り、思い切って自分が勤務していた期間のアメリカのアジア外交について、「著作を読んで勉強した専門家にインタビューする」という出張計画を立てました。この計画でかなり力を入れて「会いたい人リスト」も作ったのですが、そのリストに私が何の迷いもなく入れたのがナイ教授だったのです。  

実は、私のリストは、東はナイ教授に加えてハーバード大のエズラ・ボーゲル教授、MITのリチャード・サミュエルズ教授、西はスタンフォード大学のダニエル・オキモト教授やマイケル・オクセンバーグ教授など、当時の国際政治、とくにアジア研究の大家ばかり。周りには強気すぎるリストに見えたようで、「こんな忙しい人たち、ほんとに会えるの?」と、とても心配されました。あまりに周りに心配されるので不安になりながらも、くじけることなくせっせと面会申し込みの手紙をファックスした私の努力が報われたのか、面会を申し込んだほとんどの教授が面談の時間を取ってくれました。  

ところが、意気揚々と出張に出かけた私を待っていたのは、行く先々でご挨拶に立ち寄った総領事館で「大使館の人間がアポを申し込んだから受けてもらえたんだろう。だから日本政府の立場を聞かれるかもしれないから、発言には注意してください」というご指導でした。「???」という私の反応が顔に出ていたのか、次に降ってきたのは「そもそも、辰巳さんはどうやって〇〇先生にアポを取れたんですか」という質問。「いえ、あの、学生時代から〇〇先生の論文や本をいつも読んで勉強していた、今回、出張できる機会を得たので、先生が✖✖で書かれていたトピックについてこの機会にぜひ、直接お会いして伺いたいので面会してください」という手紙をファックスしたら、返事来ましたと正直に答えたら、領事館の方にとても驚かれました。  

後でわかったことなのですが、私が正面突破で面会を快諾してもらった先生方の中には、総領事館から申し込んでもかなり面会がセットしにくい方が多くいらしたようなのです。特に、私が出張していた同じ時期に、日本から会議に出席するために日本の国際政治学会の重鎮の先生が来訪されており、その方のために総領事館が面会を申し込んで断られたのに、なぜか私が面会できている、という状況が生まれていたようでした。ナイ教授もその一人だったのです。  

そんな事情を面会前日に聞かされたため、当日、彼の前に緊張して座った私にナイ教授は、「君の面会申し込みの手紙は、目的がはっきりと分かる、とても良いカバーレターだったね。質問内容を具体的に書いてくれたから助かったよ」とにっこり。私が聞きたかったことに全て、答えてくれました。あまりに理路整然とし過ぎて、ノートを取るのが大変で、面談後に見直したら、そのまま、どこかに論文として出しても全然大丈夫なのではないか、と思える内容でした。実は、ナイ教授には、論文を書く時に下書きが必要ない、という伝説があるのですが、あれは本当かもしれません・・・・  

私の質問に答えてくれた後は、ナイ教授から逆に「僕からも質問があるのだけど」と言われ、大使館で働く前は何をしていたの?なぜアメリカに留学しようと思ったの?なぜ、行先はワシントンだったの?留学前にアメリカに住んでいたことは?英語はどこで勉強したの?などいろいろと質問され、まるで学生が自分の指導教官になる教授に初めて面会した時のような雰囲気。当初の緊張はあっという間に吹っ飛び、あっという間に時間が過ぎていきました。最後の方に「君は面白いバックグラウンドだね。きっとアメリカに残ることを希望していると思うけど、僕はいずれ君には日本に戻ってほしいな。日本を変えてほしい」といわれたのを覚えています。あの後、ナイ教授とは何度かお会いする機会がありましたが、何年間が開いていても、私のことは覚えていてくれ、感動しました。  

結局、ナイ教授の期待には応えられず、私はアメリカにそのまま残ってしまいました。ですが、あの時、ナイ教授がご自分の行動を通して教えてくれた「自分を頼って面会を申し込んでくる若い人には、必ず時間を作る」という人生訓は、今も大切にし、100%守れているかどうかは自信がありませんが、できる限り守るように努めています。  

そんな大切な「学び」を得たナイ教授の訃報に接しただけでも十分ショックだったのに、さらにCSIS所長を長年務められたジョン・ハムレ氏が引退を表明したと聞いて、ダブルショック。駆け出しのころに、3年近く務めたCSISは「シンクタンク研究者」としての私の基礎を作ってくれた大事な場所。当時、既に所長だったハムレ氏は、私のような若い研究員も「ドクター・ハムレ」と親しみを込めて呼んでいたほど。「外交や安全保障政策は超党派で取り組むべき」という強い信念のもと、CSISが政治的に中立であることへの思い入れが人一倍強かったハムレ所長の引退は、まさにワシントンのシンクタンク業界の一つの時代の終わりを告げるものです。  

いろいろショックな出来事が続いたゴールデンウィークでした・・・・ (了)


辰巳 由紀  キヤノングローバル戦略研究所主任研究員