1927年の金融恐慌で破綻した村井銀行は典型的な「機関銀行」の一つと考えられてきた。
本論文では、村井銀行の成長と破綻の過程を、数量的に検討した。村井銀行に関する資料は限られているが、経営破綻直後における日本銀行の調査、村井銀行の『営業報告書』各期、および新たに発掘された「村井家事業要覧」が有用な情報を提供する。これらのデータを整理することを通じて、村井銀行が第一次大戦期に急速に預金銀行化を達成する一方、その結果同行の不良債権への耐性が低下したこと、一九二〇年代に預金が伸び悩み貸出が固定化する中で多くの新規支店を開設して預金吸収に努力するとともに、日銀からの借入金にも依存したこと、多数の店舗が展開する中で本店をハブ、京都支店・神戸支店を副次的なハブとする銀行内の資金循環が形成され、大部分の資金が本店に集められたこと、村井関係事業への融資の大部分が回収不能となるとともに震災被害がさらに不良債権を増加させたが、これら以外の原因による不良債権の金額も大きく、総じて村井銀行による不適切な債権管理が経営破綻をもたらしたこと、などが明らかになった。同行は一九一八年の株式会社への改組以降、銀行業での経験を積んだ人材を常務取締役に登用して経営陣を強化したが、貸出の急膨張後のことであり、この経営改革が遅きに失したことがその背景にある。