1.東京都は医療崩壊と同等の状態にあった
東京都は、新型コロナウイルス(COVID19)の感染者増加を抑えるために設定した「東京アラート」を6月11日に解除し、19日からは休業要請の全面解除に踏み切った。人々の往来が通常ベースに戻りつつある中、東京都の新規感染者数が7月1日に再び100人を超えた。小池都知事は、医療提供体制に余裕があるとの理由を掲げて、当面休業要請などを行わない方針のようである。
コロナ禍に対応できる医療提供体制が整っているかの判断基準、換言すれば医療崩壊の定義には色々ありうるが、共通する要件として次の2つが重要である。第1の要件は、入院が必要な中等症以上のCOVID19感染患者のための病床が確保できず発熱患者が救急車でたらい回しにされる状態である。第2の要件は、COVID19感染患者以外の一般医療が大きく損なわれる状態である。わが国では、重症者のための病床不足は東京都で一時的(4月初旬)に発生したに止まったものの、医療機関の混乱を防ぐ目的で保健所がPCR検査を意図的に抑制したことで、市中感染の進行を把握できずに一般の医療機関でクラスターが発生、国民の診療自粛、COVID感染患者を受け入れていない医療機関でも一般医療の縮小、収益悪化という事態に陥った。
東京都は、New York市と比べて感染者数と死亡者数が少なかったものの、上記要件を満たすことから、医療崩壊と同等の状態にあったと判定される。表1のとおり、東京都はNew York市に比べてCOVID19感染患者が35分の1、病床数が3倍であるにもかかわらず実質的に医療崩壊したのである。一方、7月初旬現在、米国の新規感染者数が増え続ける中、New York市の医療提供体制は平時を取り戻しつつあるようである。そこで、New York市の医療提供体制のResilience (復元力)が高い理由を考察することで、わが国におけるCOVID19第2波対策のヒントを見つけることとしたい。
表1 コロナ禍の東京都とNew Yorkの比較
※クリックでオリジナル画像表示2.復元力が強固なNew York市のIHN
2019年11月5日に開催したCIGSシンポジウム「世界の新潮流 全体最適を目指す Population HealthとNew Technology」の講演録にも記したとおり、多くの先進諸国では医療技術の進歩と共にIntegrated Healthcare Network(略称IHN)と呼ばれる仕組みが医療制度の中核を担うようになっている。New York市には、表2に示す6つのIHNがある。そのうちNYC Health+Hospitalsは公立病院を核にしたIHNであり、残りの5つは民間非営利病院を核にしたIHNである。
民間非営利病院IHNも弱者救済のセーフティネット機能を担っていることから、連邦法人税(21%)とNew York州法人税(6.5%)の免税優遇を受けている。ただし、法人税免税はIHNにとって経済的メリットとは言えない。後述するように、非課税優遇の適用を維持するためには、免税された税額以上を地域社会に還元する必要があるからである。米国の公的医療保険制度の一つとしてMedicaidがある。Medicaidは、貧困層救済の医療プログラムであることもあり、Medicaidが医療機関に支払う診療報酬は原価割れ水準である。つまり、Medicaid適用患者を受け入れることは医療機関の赤字要因である。そこで、通常の診療報酬とMedicaid診療報酬の差額は、民間非営利病院IHNの地域還元金額にカウントされている。
表2 New York市のIntegrated Healthcare Network
※クリックでオリジナル画像表示表3は、New York市のIHNの患者サービス収入の保険者構成を示している。公立病院IHNであるNYC Health+Hospitalsだけは、Medicare(高齢者と障害者のための公的医療保険)、Medicaidに加えてMetroPlus加入者に医療を提供している。MetroPlusは、低所得者と市職員を対象に負担力に応じた割安医療保険を提供するものである。同じ医療でも診療報酬水準は、Medicaid ≺ MetroPlus ≦ Medicare ≺ 民間医療保険であり、民間医療保険加入者の割合が高いほど医療機関の採算は良くなる。なお、IHNの年次報告書では、民間保険会社が提供しているMedicareとMedicaidの代行保険も民間医療保険の構成比に含めて情報開示していることが多い。医療機関から見て、この代行保険加入者に対する医療提供の採算性は、通常の民間医療保険加入者の場合より低い。
表3 New York市のIHNの患者サービス収入の保険者構成
※クリックでオリジナル画像表示表4は、NYC Health+Hospitalsの財務データの特徴を表している。NYC Health+Hospitalsは、全米に約400あると推定されるIHNの中で、公立病院IHNとしては最大のセーフティネット医療事業体であり、後述するNorthwell Healthと並び最も多くのCOVID19感染患者を受け入れた医療機関として注目されている。その医療提供体制は、病院11 (4,647床)、回復期・長期介護施設 5に診療所ネットワークが加わった形であり、拠点数は70を超える。7月現在、COVID19のPCR検査取次所を200カ所設置し、1日あたり検査能力 5万件の体制を築いている。年間患者数は約140万人で、そのうち約50万人が無保険者である。患者の多くが低所得者と無保険者であるため、年間の慈善医療費用負担が608百万ドル(2018年6月期)にのぼり構造的な赤字状態にある。しかし、NYC Health+Hospitalsは、New York市民にとって絶対不可欠な存在である。
表4 NYC Health+Hospitalsの財務データ (百万㌦)
※クリックでオリジナル画像表示IHNは、セーフティネットの責務を果たすために、平時は病床に余裕を持たせる運営をしてきた。ちなみに、病床稼働率は、NYC Health+Hospitalsが79.7%(2818年6月期)、Northwell Healthが85%(2018年12月期)、New York and Presbyterian Hospitalが82.3%(2019年上期)である。ところが、今回のコロナ禍ではCOVID19感染者数の増え方があまりに急であったがために、大きな病床不足に陥った。そのため、秋に予想される第2波が到来した時の病床不足が心配されている。しかし、第1波の際の学習効果もあり、6つの各IHNが設置しているコロナ専門病院を強化し、第1波の時にセントラルパークなどに増設した臨時病床を活用すれば、危機をコントロールできる可能性がある。
コロナ専門病院とは、中等症以上のCOVID19感染者を受け入れることに特化した病院のことである。その役割は、患者を特定施設に集約することでCOVID19によって一般医療の機能が浸食されることを軽減することにある。そして、異なる機能を持った医療施設群の集合体であるIHNが組織全体でコロナ専門病院機能を担う効果として、次の3つがある。第1に、IHNは、平時からプライマリケアから急性期ケアに至る患者情報を共有しているので、COVID19感染患者の症状レベルに応じた適切な治療の意思決定を一元管理できる。第2に、必要な医療物資と費用(必要財源)を正確に把握できる。これは、事後的に政府から給付される補助金の公平な配分に役立つ。第3に、コロナ禍での有効性が確認された医療イノベーションの普及を加速させることに寄与する。ちなみに、図1は、New York州で最大の雇用主でもあるNorthewell Healthの事業拠点配置図である。23の病院を含む約800の施設群が一体となってCOVID19感染患者のための医療に挑んでいる。
図1 Northewell Healthの事業拠点配置図
※クリックでオリジナル画像表示残された最大の問題は、COVID19感染者を受け入れた医療機関が巨額の赤字に陥っていることである。ここで民間非営利病院IHNの財務に大きな特徴が2つあることを知る必要がある。第1の特徴は、前述のとおり、非営利優遇の見返りに法人税の免税額以上の地域還元を行っていることである。その金額は、Northwell Healthが1,300百万ドル(表5)、New York and Presbyterian Hospitalが1,148百万ドル(表6)であり、NYC Health+Hospitalsの慈善医療費用608百万ドルをも上回る。第2の特徴は、民間非営利病院IHNは多額の金融資産を有し株式、債券で運用しており、最終損益は医療事業損益よりも運用損益の結果に大きく左右されることである。ちなみに、Northwell Healthの2020年第1四半期(1月~3月)は、医療事業部門の赤字141百万ドルに対して資産運用損が560百万ドルであった。
表5 Northwell Healthの財務データ (百万㌦)
※クリックでオリジナル画像表示表6 New York and Presbyterian Hospitalの財務データ (百万㌦)
※クリックでオリジナル画像表示3.補助金の日米比較からの示唆
トランプ大統領は、3月27日に The Coronavirus Aid, Relief, and Economic Security Act(略称:CARES ACT)を成立させて総額2兆ドルのコロナウイルス緊急経済対策を実行中である。このうちCOVID19感染者の医療に尽力した医療機関に対する補助金は1,400億ドル(15兆円)である(表7)。米国のCOVID19感染者数は2020年6月末で2,603,743人であるから、感染者一人あたり補助金は53,769ドル(580万円)という計算になる。一方、安倍政権が第2次緊急経済対策で決めた「感染拡大防止策と医療提供体制の整備及び治療薬の開発」のための財政支出額は2兆5千億円である。わが国の2020年6月末時点の感染者数は18,723人であるから、感染者一人あたり補助金は1億3,400万円となる。この感染者一人あたり補助金格差の原因は一体何なのか?筆者は、平時の医療提供体制の格差が要因の一つと考えている。
表7 COVID19医療体制強化の補助金の日米比較
※クリックでオリジナル画像表示小池都知事は、コロナ専門病院の設置に以前言及したことはあったが、現在は新規感染者数や重症者数のレベルに応じて都内医療機関に個々に協力依頼をして必要病床を確保する方針のようである。これは、4月初旬にCOVID19感染が疑われる発熱患者が救急車でたらい回しに会った時と変わらない仕組みで第2波に臨むことを意味する。東京都は、4月末時点でコロナ病床3,300(うち重症者病床400)を確保できていたにもかかわらず2,000病床しかないと思い込み「医療現場が逼迫」という誤情報を発し続ける失態を演じた。これは、危機管理に必要な情報を一元管理するプラットフォーム機能を持つ医療事業体が存在しないために起こる過ちである。そもそも必要病床数を確保できているのならば、なぜ発熱患者の救急車たらい回しが起きているのか。患者受け入れの判断を個々の医療機関に委ねているからにほかならない。小池都知事は、7月初旬現在、医療提供体制は整っていると繰り返し強調しているが、仮に秋に予想されている第2波が第1波の数倍のCOVID19感染者になった場合、現状のままで東京都の医療体制が持ちこたえられるとは思われない。
東京都と比べて感染者が35倍、病床数が3分の1のNew York市の医療提供体制は、核となっている6つのIHNが倒産すことなく、コロナ禍前の状態に戻りつつある。第2波、第3波とCOVID19との闘いが長期戦になればなるほどIHNの意思決定メカニズムがその力を発揮するはずである。IHNの意思決定の基本原則は、地域住民の医療ニーズ全体に自らの診療科と各種施設のポートフォリオ全体を一致させることにある。米国のみならず多くの先進諸国でIHNと類似の仕組みが導入された背景には、医療技術の進歩がある。医療技術の進歩が医療経営にもたらした最大のインパクトは、患者が早く退院するようになり、手術が日帰りでも可能になった結果、医療機関としては入院以外の診療に注力しなければ成長できなくなったことである。日本以外の先進諸国の病院(病床)数が減少したのは、政府が医療費節約のために圧力をかけたのではなく、医療技術進歩の必然の結果なのである。幸いなことにCOVID19感染者のうち入院が必要な中等症以上になる患者の割合は、New York市の第1波の実績で4人に1人である。New York市の場合、新規感染者数の推移を睨みながら6つのIHNが連携して病床数を増やすことでCOVID19との長期戦の新常態に移行できると予想される。
4.コロナ禍で医療イノベーションが加速し始めた
コロナ禍を契機に世界中で情報技術、AI、ロボットを活用する医療イノベーションが加速している。とりわけ、医療サービスへのアクセス、患者と医師の関係に変革をもたらすデジタルヘルスの社会実装が加速している。前述した2019年11月のCIGSシンポジウムの講演録では、米国でIHN経営のモデルと評されているセンタラヘルスケアの役員だったダッドレイ氏が、「eVisitは仮想受診です。スマホやパソコンの画面に医師が映っており、リアルタイムもしくは録画で受診できる仕組みです。これは大ヒットすると予想したのですが、衝撃的なほど使われないのです。患者は、どうしても主治医に直接会って診療を受けたいようなのです。」とコメント、便利かつ安価なデジタルヘルスが2019年時点で人々に受け入れられていないことを説明してくれた。この不可解な現象がコロナ禍で一変したのである。日本以外の先進諸国の多くでは、デジタルヘルスのインフラが既に完成しており、主たる医療機関のWEBサイトにはDigital Health、eHospital、Virtual Careの説明が掲載されている。これにAIによるCOVID19感染者の重症化予測、ロボットによるPCR検査などが加わり、医療提供体制の構造変化が本格的に始まったのである。
一方、わが国でもCOVID19感染リスク回避を理由にオンライン診療の規制緩和が実施されたことが話題になっている。しかし、医療関係者や政治家は、診療情報の共有とアクセスの点でわが国がOECD諸国の中で最低評価を受けている事実を肝に銘じなければならない。大学附属病院や国公立病院でデジタルヘルスのインフラである患者情報プラットフォーム機能を広域医療圏で果たしているところは一つも存在しない。安倍政権は、「未来投資戦略2017」でPersonal Health Record(国民一人ひとりが自分の電子診療録を管理し医療チーム内で活用できる仕組み)を2020年までに本格稼働させると公約した。しかし、2020年時点でPHRの欠片すら見えない。
その根本的原因は、Integrated Healthcare Networkを全国に配置することができていないことにある。医療情報を基盤とする医療イノベーションを社会実装するためには、国民から信頼されるプラットフォーム事業体の存在が不可欠である。国民が自分の医療情報を納得して預けるのは主治医が勤務する医療機関に限られる。その医療機関がプラットフォーム事業体となるには大規模で非営利が条件となる。非営利でなければ開業医など他の医療機関が患者情報共有に参加しないからである。そして、デジタルヘルスなどイノベーションの経済的メリットの大半を最初に享受するのは保険者である。したがって、医療情報プラットフォーム構築の投資コストを原則保険者が負担する仕組みが必須となる。このロジックを反映させた改革を実行しない限り、わが国の医療制度はますます他国の後塵を拝することになる。
以 上