キヤノングローバル戦略研究所外交・安全保障グループの研究員が、リレー形式で世界の動きを紹介します。
2024年9月12日(木)
[ 2024年外交・安保カレンダー ]
この原稿を書いている今日はアメリカ時間の9月11日。アル・カーイダのテロリストにハイジャックされた航空機が、ニューヨークのツイン・タワーとワシントンのペンタゴン(国防総省)に突っ込み、ツインタワーは崩落、ペンタゴンも建物の一部が大破した日です。その1時間後には、同じようにテロリストにハイジャックされた航空機が、乗客の抵抗にあったため目的を果たせず、ペンシルベニア郊外に墜落。それぞれの場所で、乗客はもちろん、当時勤務していた人や救助活動のために出動した人など数多くの犠牲者を出しました。アメリカ史上最悪のテロ事件として記憶されるあの「9・11」からはや23年。今朝はペンタゴン、ニューヨーク、ペンシルベニアでそれぞれ、厳かに慰霊式が行われました。
ですが、そんな中、メディアの話題を独占したのは、前夜9月10日にペンシルベニア州フィラデルフィアで行われた大統領候補TV討論会でした。トランプ前大統領とハリス副大統領初の一騎打ちとなったこの討論会、実は、11月の投票日までにもう一度開催されるか否かが不明なため、唯一の大統領候補討論会となる可能性が以前から指摘されていました。つまり、トランプ陣営、ハリス陣営ともに、テレビを通じて直接対決する姿を有権者に見せるのは、昨晩が最初で最後かもしれなかったわけです。
唯一のチャンスとなるかもしれない今回の討論会で優位に立つか否かは今後の選挙戦の流れを大きく左右する可能性があります。そのため、今回は両陣営にとって極めて重要になると言われていました。特に、民主党側は前回の討論会で最悪のパフォーマンスをしたことが引き金となりバイデン大統領は選挙戦からの撤退を決めています。ハリス副大統領にとってはまさに「崖っぷち」、絶対に負けられない討論会だとも言われていました。それもあってハリス副大統領候補は先週からペンシルベニア州入り。ピッツバーグで地元の有権者との対話集会などをこなす傍ら、討論会に向けた準備に専念していました。これとは対照的に、トランプ前大統領は、討論会の準備など選挙集会の片手間にやる程度。「トランプらしい」という声がある一方で、「大丈夫なの?」という声も一部にはありました。
そんな討論会、蓋を開けてみると・・・なんと、事前の予想を大きく裏切ってハリス副大統領が最初から最後までトランプ前大統領を圧倒しました。「攻撃は最大の防御」という言葉のとおり、まずは討論会会場への入場直後、ハリス副大統領は自分からトランプ前大統領に歩み寄り、笑顔で手を差し出して握手を求めました。目の前に立って手を差し出されては無視するわけにもいかず、ハリス副大統領に押される形で握手に応じざるを得なくなったトランプ前大統領。この時点で既に、予想外のハリス副大統領の動きに戸惑っている様子がありありでした。
さらに実際に討論会が始まると、事前に側近や他の共和党関係者からアドバイスされた通り、トランプ前大統領が政策中心の話をできたのは、最初の10~15分だけ。その後は選挙集会の規模や、現在も係争中の刑事裁判などに関するハリス副大統領の「挑発」にことごとく反応し、「オハイオでは移民が住民の犬を食べている」などの仰天の不規則発言を連発。ようやく政策論でハリス副大統領を攻め始めたのは討論開始から1時間近くたってからのことで、「時既に遅し」でした。トランプ前大統領から不規則発言を引き出して彼の醜態をテレビに晒す、というハリス副大統領の作戦に完全に引っかかったようです。
この作戦の効果をさらに高めたのは、トランプ前大統領が発言している間のハリス副大統領のちょっとした「しぐさ」でした。トランプ前大統領が政策について発言する際こそハリス候補は下を向いてメモをとるなどしていたものの、一旦トランプ氏の不規則発言が始まると、トランプ前大統領を凝視し、時には苦笑いを浮かべ、時には「マジで?!」とでも言いたそうに眼を大きく見開いていました。「どんな意味不明な発言をするのか聞いてみましょう」とでも言わんばかりに顎の下に手を置いて、ため息をつきながら、トランプ前大統領をじっと見つめ、「またこの人、変なこと言ってる」といった「余裕の雰囲気」を漂わせていたのです。
実は、今回の討論会後、ちょっと気になったので、2016年大統領候補討論会でトランプと対決したヒラリー・クリントン元国務長官はどんな「しぐさ」だったか知りたくなり、当時のビデオを見直してみました。8年前クリントン候補は、トランプ氏の発言に対して頻繁に顔をしかめ、いら立っている様子が明らかな表情やしぐさが目立っていました。これに比べれば、今回トランプ候補の言動に全く動じることなく「変なおじさん・・」といった態度を前面に出したハリス副大統領の対応とは歴然の差があったのです。
結局、トランプ前大統領はハリス副大統領を全く攻められないまま、1時間45分近く続いた討論会は終了しました。二人のパフォーマンスの差は、討論会終了直後の世論調査で「どちらの候補が討論会では勝ったか」という問に対し、60%以上の回答者が「ハリス」と答えたことからも明らかでした。共和党系の政治コンサルタントも「ハリスのパフォーマンスは非の打ちどころがない(flawless)」と認めざるを得ませんでした。
ですが、ハリス陣営も油断は禁物。今回の討論会は「ハリス圧勝」といった印象のまま幕を閉じましたが、討論会という一つのイベントで「勝った」ことと、無党派層の心を動かして実際の投票に結び付けることができたかは別問題。その証拠に、事後の世論調査でも、討論会の前後で両候補の政策問題に対する見方が劇的に変わったことを示すデータはなかったばかりか、経済問題ではハリス副大統領の政策に対する支持がむしろ微減している、という結果さえ出ていたのです。
ハリス陣営もそこは十分に自覚している模様。討論会後に支持者の前に満面の笑みと共に、元気一杯の姿を見せたハリス副大統領ですが、支持者への挨拶の中では「気を緩めてはいけない」と強調。「私たちは挑戦者です。これからも頑張らなければ・・・」などと訴えていました。
しかし、今回の討論会で再び生まれた「追い風」をハリス候補が利用しない手はありません。討論会終了後ほどなく、ハリス陣営は「もう一度、討論会をしましょう」とトランプ陣営に呼びかける声明を発表。今はトランプ陣営から回答を待っている状態です。トランプ陣営側にしてみれば、ハリス側の申し入れに同意して2回目の討論会に参加しても、トランプ前大統領のパフォーマンスが向上する保証はありません。事前にいくら準備し予行演習をしても、本番でハリス副大統領の挑発に再び引っかかってしまうリスクが十分あるからです。トランプ陣営の回答にはもう少し時間を要するかもしれませんね。
しかも、これに追い打ちをかけるように、討論会終了後、「地球上でもっとも有名な歌手」とも言われるテイラー・スウィフトさんがハリス副大統領支持を自身の「X」で正式に表明。しかも、そのメッセージは、愛猫を抱いたスウィフトさんの写真と共に、「愛と希望と共に。テイラー・スウィフト、子無し女」と、明らかにバンス副大統領候補の失言をあてこすったフレーズで終わっています。彼女が自分の立場を明確にしたことで、全米に何百万といる「スウィフティ」と呼ばれる彼女の熱烈ファン層がハリス副大統領支持でまとまることはほぼ確実でしょうし、彼女たちの投票行動がその親の世代に影響を与える可能性も少なくありません。接戦が予想される中で、トランプ陣営にとっては、また一つ頭痛の種が増えた形となりました。
今回の討論会でもう一つ面白かったことがあります。今回は主要メディア全社がABCの映像をそのまま生中継したのですが、なんだかんだ言って「民主党寄り」と言われるCNNなどのメディアではCMの時間になると真っ先にトランプ前大統領の選挙コマーシャルが流れ、その逆に「親共和党」といわれるFOXニュースでも、CMの時間に真っ先に流れていたのはハリス副大統領の選挙コマーシャルでした。「公平性」を心掛けた各社の差配だと思いますが、こんな選挙コマーシャルの「クロスオーバー(相互乗り入れ)」が見られるのも、アメリカの選挙ならでは、ですよね。
辰巳 由紀 キヤノングローバル戦略研究所主任研究員