メディア掲載 グローバルエコノミー 2026.10.02
首藤若菜(立教大学) 渡辺努(東京大学名誉教授)対談
岩波書店「世界 10月号」(2026年9月8日)に掲載
─物価高の一方で、多くの人々が所得アップを見通せない状況があるように思います。はじめに、物価を専門とされる渡辺さんから、近年の物価動向、また日本経済にどのような変化が起きつつあるのか、お話しいただけますか。
渡辺 日本では2022年から物価が上がり始め、人々の生活実感も大きく変わりました。では、その前はどうだったかといえば、1990年代の半ば頃から長らくデフレが続いた。デフレとはふつうインフレの反対、つまり物価が下落する現象を指しますが、日本においては、価格が毎年据え置かれる現象を意味してきました。
デフレが30年も続いたため、人びとの頭には、物価は変わらないものだという意識が強く刷り込まれました。私のような世代だと1970年代に物価が上がったことを経験として知っていますが、特に若い人たちにとっては、物価は変わらないのが「ふつう」で、2022年以降が異常、と感じられるのかもしれません。
ただ、実は異常だったのはこの30年間で、日本以外ではほぼすべての国で物価が上がりつづけていました。それがやっと他の国なみにインフレになったのが22年以降の変化といえます。ですから、私のような研究者や、政府・日銀関係者の人たちも、最近のこのインフレは決して悪いことばかりではない、デフレ時代から脱却しつつあるという意味ではむしろよいことだと考えているわけです。
─最近であればイラン戦争による資源価格の高騰など、各地で戦火がひろがり、非常事が続いています。そうした戦争による経済への影響についてはどうお考えですか。
渡辺 戦争や、その戦争を引き起こす国際政治の不安定性と、いま日本で起きているインフレは非常に密に関係しています。ウクライナにロシアが侵攻したのが2022年の2月下旬でしたが、インフレが始まったのはこの年の4月です。ウクライナ侵攻が直接のきっかけになって日本はインフレに入っていきました。今年の2月末以降のイラン戦争の影響も、おそらく今後半年間ぐらいで消費者物価にあらわれてくるのではないかと思います。
より長期的な視点に立つと、1980年代の半ば頃から2000年代初期は、グローバル化が世界で加速した時期です。大づかみにいえば、長く続いた冷戦下での国際間の緊張が低減し、世界が相対的に平和だった。そのなかで、いわゆる先進諸国は開発途上国に行って生産拠点を築き、その結果、賃金が安い国々で生産できるようになった。世界的にみれば賃金が上がりにくくなり、物価も同様に上がりにくくなる─これがグローバル化の影響です。
日本では賃金の下押し圧力から労働者を守るために、賃金の据え置きを選択し、その結果、物価も上がらなければ賃金も上がらないという前述のデフレをもたらしました。
その後、イギリスのEU離脱やトランプ大統領の登場、さらには新型コロナウイルスのパンデミックといった政治の荒波が次々と起きるようになると、そうした海外進出の動きにブレーキがかかり、脱グローバル化が進む。今度はモノをつくるのにどうしてもコストがかかり、賃金や物価が高くなる現象が起きてきます。
首藤 世界的な物価高は、経済安全保障が重要視されてきた帰結ともいえますね。中国をはじめ、国外での製造拠点を国内に移すという動きが生まれてくる。
長い時間軸で見ると、グローバル化が進む時代と、抑えられる時代とが繰り返されてきたということでしょうか。
渡辺 そうですね。第一次大戦前はグローバル化が多少進んで、その後2つの大戦やその間のスペイン風邪のパンデミック、世界恐慌で失速するという大きな流れがあります。
首藤 だからいまは脱グローバル化の傾向にあるかもしれないけれども、大局的にみれば、ふたたびグローバル化の潮流が強まる可能性もあるだろうと思います。
私が専門にしている労使関係の議論でも、グローバル化の時代の賃上げの難しさは、ヨーロッパをはじめ世界的な課題でした。ただ、それにしても日本の賃金の上がらなさは異様だったと考えています。
お話にあったように2022年から物価上昇局面に入っていますが、国際的にみると日本の上昇率はまだ低い。にもかかわらず、実質賃金がなかなかプラスにならない。日本の場合、人々は物価高そのものに苦しめられているというより、賃金が上昇しないことによって苦しい。そちらがより深刻な問題だと考えています。ヨーロッパはより激しいインフレであっても、それを超えるような賃上げが実現しています。
渡辺 おっしゃるように、日本は年間でのインフレ率が2~3%程度で、他国と比べても低い部類に入ります。日本では戦後のインフレの記憶からインフレ=悪とのイメージをもつ人もいますが、現状では、これが異常だとか、過度に怖いものだと捉える必要はないと思います。
それに、インフレが起きていることによって日本経済が大きく前に進む動きが生まれています。たとえば株価はこの2年で約2倍に上がっています。日本の企業が価格を上げられるようになったのを見ている海外の投資家が、日本企業が元気になってきたと考え、日本株を買っているからです。もちろんまだまだ過渡的な状況で、いわゆる中小企業では価格を上げにくい、また賃金が上がらないといった課題がありますが、大きな方向としては日本経済が元気になるステップが始まっているとみています。
首藤 私もインフレが始まって、経済的にはプラスの面が大きいと思っています。ただ、プラスの面を大きくしていくにはやはり、賃金が物価と一緒に上がっていくことが重要です。足元では、今年に入ってから物価変動を考慮した実質賃金はプラスになっていますが、この間のガソリン補助金などでなんとか物価を抑えているためにプラスになっている部分もあり、本当にいまの物価上昇に賃上げが追いついているかというと、完全にそうとはいえない。
ではなぜ物価の上昇に賃上げが追いつかないのか。やはり30年続いてきたデフレの影響が大きいと思います。新著で指摘したのは、日本において賃金が、生産性向上の果実を分配するための仕組みではなく、構造的な歪みを吸収する緩衝材として機能してきたということです。価格を上げられないことを前提に、負担は企業内部で吸収され─つまり投資を抑え、賃金を上げず、非正規雇用を増やすといった対応が繰り返されてきました。
もちろん、価格の「安さ」の裏には、低賃金で働く人たちや過重労働がありました。しかし、雇用を守る、低空飛行でも現状を維持するという消極的な選択の結果として、デフレがこれほど長く続いたのではないか、と思うのです。
このプロセスを踏まえると、いまインフレになって、価格を上げる必要が出てきても、毎年価格交渉を行うこと自体に慣れていない中小企業がたくさんあるのは当然です。交渉のノウハウからまず勉強する必要が生じ、最初のうちは努力がいると思います。フェーズが変わってきたんだと認識して、これからは、交渉し、価格を上げ、賃金も上げていくことに慣れていってもらうしかないと思っています。
渡辺 別の見方をすると、私たちは消費者であると同時に労働者でもあるわけです。デフレの時期は「消費者としての権利」の意識が強く、企業も値段を上げられなかった。おかげで消費者としては非常に満足していたのですが、この4年でインフレが進み、値段が変わらない中で生活できる、という消費者としての権利が侵害され、そこに非常に強い不満を持つ人々が出てきていると思います。
今年の衆議院選挙も、去年の参議院選挙も、選挙で争点にされるのは常に、賃金ではなく物価でした。典型的には消費税減税です。消費税減税は、物価を人為的に下げるわけですから、「消費者としての権利」からいけば、望むような方向に進んでいると感じられるのでしょう。
しかし「労働者としての権利」をも考えるなら、やはり賃金を上げるべきです。ところが多くの日本人は、消費者としての権利意識は強いのに、労働者としての権利意識は非常に弱い。それが結局は労働組合の活動を弱めているし、賃金上昇が物価に追いつけない理由の根本はそこなんだと思います。
ヨーロッパの人たちは、自分は労働者なんだという意識と消費者としての意識と、両方を強くもっています。そうすると労働者として、地位にふさわしい待遇をという要求が出てきて、それが社会の動きとなって自分の賃金も上がってくる。日本では、消費者としてだけでなく、労働者としての権利意識を見直していく必要があると思います。
首藤 意識の問題に加えて、構造的な問題もあるのではないでしょうか。労使関係からみると、日本の特殊性としてよく指摘されるように、産業別ではなく企業別組合が主流です。個々の企業内で交渉する構造の中では、自社の賃上げをすると、会社が傾いてしまうのではないかという不安が常にあって、結局、強くは踏み込めない。たしかに、1社だけ賃上げをすると、その1社だけ価格競争力を失うなどして、結果的に雇用が続かなくなる可能性があり、企業を超えて全体で賃金を上げていくような仕組みをもつことが重要だと思います。賃金か雇用かという問いではなく、全体の賃上げと価格転嫁を実現することです。
首藤 選挙や国会では物価対策が最優先、というストーリーになりがちです。しかし、消費税減税にせよ、ガソリン等への補助金にせよ、本来はあくまで時限的な発想の制度です。負担をさらに先送りすることにつながる措置ばかり優先していていいのか。それよりも賃金をどう上げるか、価格転嫁をもっと進めていこう、という議論が必要なのではないでしょうか。
物価は最低賃金とも深く関わっています。私は中央最低賃金審議会の委員を務めていますが、たとえば今年は物価水準は高いままでも前年比の上昇率が鈍化しているため、「それなら最賃の引上げ率も抑えてよいのでは」という話になってしまう。このように現状では、まず価格ありきで、そこから賃金を決めるようになっています。こうした状況で物価を抑えることにばかり力を入れると、賃金がさらに上がらなくなってしまう。これはいまの高市政権だけの話ではなく、与党、野党を問わず政治家がきちんと、賃金を上げていくことが重要なんだというメッセージを出していく必要があると思います。
渡辺 政治家の中にも消費税減税に反対している人たちは多くいます。にもかかわらずなぜ減税へと踏み切るのか。その理由を考えると、物価を下げる、もしくは上げないようにすることと、賃金を上げることとを比べると、前者のほうが政治家から見てやさしいからではないかと私は思います。もちろん、物価を下げるのだって決してやさしいことではありません。でも、たとえば消費税減税なら、いったんやると決めれば、どこの店に行っても何%か値段が下がっている状況をつくることはできるわけですよね。逆に賃金を政治家が上げようとすると、これをすれば必ず賃上げが起こるという王道がない。どうしたって手探りにならざるをえないでしょう。物価を下げるほうが比較的やさしいというのはそういうことです。
もしかしたら国民も賃上げのほうがいいと思っているかもしれませんが、その賃上げに至る道筋が見えない。ではもっと道筋のはっきりしているほうで、というわけで物価を抑えるほうへと声が偏っているのだと思います。
首藤 政治に関していえば、結局、安易なほうに逃げているようにみえます。野党にしても、連合が支援し、労働者を重視する側にあったにもかかわらず、消費税減税を唱えていたのは、賃金を上げるのが簡単ではないからでしょう。
現状のように市場から現場の賃金を規定するのではなく、適切な人員配置をして必要な賃上げ分をした結果、どれくらいの価格が必要なのか、という計算になっていかなければならないと思います。労働の現場から市場を規定する力を強めてゆく、ということです。
賃金を上げるためには当然原資が必要です。その原資を捻出するには、もちろん生産性の向上もありますが、それだけでぜんぶ補うのは難しい。価格から原資をひっぱってきて、それを賃上げに使っていくルートを確立していけるかどうかが試されています。
渡辺 まったくそのとおりです。ちょっと古い話で恐縮ですが、6月に亡くなったアメリカ連邦準備制度理事会の元議長グリーンスパンが2000年頃に、日本のデフレ状況を整理してアメリカ国民に訴えたことがありました。日本のようにデフレで価格を据え置くということが起きてくるとなにがまずいのかを伝えようとしたのです。
価格が据え置きになると、個々の企業の経営者は、人件費や材料費などからコストをカットすることでかつかつでもいいから、なんとかして収益を得ていこうと努力するでしょう。もしすべてのアメリカ企業がそうやってコストカットを最優先するようになってしまったら、アメリカの得意とする、新しいものに果敢に挑んでいくようなダイナミズムが失われてしまうではありませんか、と。当時のアメリカでは、中央銀行の議長がそう訴えた上で、そのようにならない手だてを打っていきました。
日本では多くの企業がコストカットでしのぐことを場当たり的に続けてきた。裏返せば、アメリカの企業のようにリスクを負って新しいことにチャレンジして、それでしっかり儲けていく企業が出づらい環境をつくっていったわけで、それが日本の停滞を生んできたとの見方もできます。
デフレには、物価が上がらないという意味ではもちろんよい面がありますが、グリーンスパンが懸念していたように、コストそのものはどちらにしても発生するわけですので、その分を価格転嫁して賃金も上げていけるインフレのほうが望ましい状況だと思います。この点が、多くの方になかなか理解していただけず、消費税減税したほうがいいのではないか─といった議論になってしまう。
首藤 やっぱり社会全体で価格も賃金も上げていきましょう、というふうに合意ができないとなかなか変わらないですよね。政府もできるだけ価格を抑えようというのではなく、適正な価格と適正な賃金を実現してゆく方向にドライブをかけてほしいなと思います。
─消費税減税の影響についてはどのようにお考えですか。
渡辺 財源が示されていないことを反対の理由に挙げる方が多いですが、私は財源がそこまで深刻な問題になるとは思っていません。インフレを背景に政府の法人税収や所得税収は上がってきていますし、それを使えば消費税減税の原資にはなると思います。
ではなにが深刻かというと、消費税減税の1つの帰結として、全体としては日本の物価をさらに押し上げることになるでしょう。消費税減税とは、政府がもっているお金を消費者や一部売り手など、国民にわたすという作業です。一%への変更であれば1年間で約5兆円をわたすことになる。すると国民の側は懐が多少豊かになるわけで、モノの需要が高まっていきます。高まった需要が物価を上げていくわけです。
もう少し正確に言うと、消費税減税が行われる2年間で、さすがに減税分を超えて物価が上がるとは思いませんが、消費者の実感として、税率が落ちているほどには値段が下がっていない、と感じられる事態は起きてくるでしょう。そして2年経った後は、さらなる物価上昇が目に見えた形で現れると考えられます。
首藤 私が懸念するのは、2年後に消費税が戻った場合、物価がさらに上がったら、賃上げが追いつけるのかということです。どうやって消費税を戻すのかということも示されていないのですが、どのようなシナリオがあり得ますか。
渡辺 これまでに消費税率の引き上げの局面は何度もありましたが、その時の春闘ではやはりある程度、税率の引き上げ分を賃上げに織り込んでいこうとしていました。ですので、おそらく2年で減税が終わり、増税ですとなった時にもなんとかして組み込もうとするでしょう。
むしろ難しいのは来年の春闘です。目先は下がっているわけなので、逆のロジックから言えば、賃上げは小ぶりでよいということになります。そういう圧力が加わるのは非常に危険だなと思います。
首藤 私もおなじように考えています。せっかく賃上げの勢いがついてきたところが、物価を抑えることで弱まってしまう懸念と、税率が戻った時に賃上げが追いつけないところが出てしまう懸念と、両方あります。
─賃上げの道が容易でない、とのお話がありました。その道筋をどのように考えればよいでしょうか。
渡辺 いま起きているのは人手不足ですが、人手不足は労働に対する需要が、労働者が供給する労働力に比べて大きい需要過多になると生じます。逆に供給過多になると失業が増えるわけですよね。失業の問題はケインズの時代から研究されていてだいぶクリアになっており、要するに経済学者は、基本はやはり実質賃金を下げなくてはならない、そうすれば失業はおさまるんだ、と考えます。
いまの日本で起きている人手不足はその逆で、実質賃金が低すぎるわけです。実質賃金の低さが是正され、「こんなに実質賃金が高いのなら、もっと働きたい」という形で労働の供給が増え、企業の側からすれば「ここまで高くなると、雇うのを控えないと」と需要を抑えるところまでいけば、人手不足は解消に向かいます。労働の需要と供給がマッチする状況を均衡と言いますが、将来的にはそこに向かって実質賃金が調整されていくことになると考えています。
ただしそれは、あくまで平均的に見た場合の話です。需要と供給の均衡を目指すというロジックは決して完璧ではなく、賃上げの格差はどうしても出てきてしまうでしょう。賃金が上がる人々と上がらない人々との格差が生じ、平均値をとると実質賃金が確かに上がりました─そうした展開が今後数年間で起きてきます。
格差は日本でも問題になってきましたが、アメリカに比べるとまだまだ天と地ほどの差がありました。アメリカの格差ははるかに激しく、トランプ大統領の誕生もそうした格差による分断が背景にある。今後日本で生じる格差も、これまでの比ではなくなると思われますので、それに備えるのが重要な課題となるのではないでしょうか。
首藤 人手不足が深刻な状況なので、マクロ的にみると実質賃金は確かに改善されていくと思います。ただ、おっしゃるように低賃金構造の部分は残されると私も思っています。職種や地域によって、なかなか価格を上げられない業種があるわけですよね。
たとえば地方に行くと、モノが売れなくなる、サービスが供給できなくなるといった強い懸念から価格を上げられず、賃金を上げられない、だから人手が見つからない─そうした負の連鎖が続くことになってしまいます。製品やサービスの供給がストップすることによって、その地域で人が暮らせなくなる、といったことも起こり得ます。医療や介護が特にそうかもしれませんが、そういった社会的なインフラを維持することを考えると、なんらかの政策的な措置で低賃金構造を変えていくことが求められていると思います。
─公務員給与が高すぎるといったバッシングが過去にはありましたが、賃上げが進まない業種に関しては、そういった声の影響もあるのでしょうか。
首藤 あると思います。特に地方では、たとえば県庁の労働条件に準ずる形で賃金を決める、という中小企業の方々の声をよく聞きます。そう考えると、公務員をバッシングして給料を下げるということが、実は自分たちの賃金を引き下げることにもつながっていた可能性があります。
─賃上げのため経済界に求められる役割とは?
首藤 経団連も賃上げの必要は盛んに言っていて、大手企業においては社会的責務として賃上げに取り組んでいるところもあると思いますが、中小企業を含め、業界団体全体や産業全体の持続可能性を考えた時に、他社の賃上げ分まで価格転嫁がちゃんとできるような仕組みになっているかというと、そこがまだ弱いかなと思います。たとえば出版社でいえば、自社の社員の賃上げのみではなく、編集に関わるフリーランスの方やライターさんやカメラマンさんに対しても適正価格ができているかというところまでちゃんとみていますか、ということですね。
それから、価格転嫁が賃上げの原資であるのは確かなのですが、もちろん、価格が上がれば自動的に賃金が上がるわけではありません。中小企業に行くと、価格転嫁はある程度できたけれども、そこで得た利益を設備投資や環境対策にまわして、必ずしも賃上げには結びつけられていないところもあります。ですので、価格と賃上げを結びつける働きかけが重要だと思っています。
─日銀にはどのような舵取りが期待されますか。
渡辺 どこの国でも、物価には中央銀行が責任をもつことになっています。日本でいえば日銀ですね。日銀は2013年から、消費者物価で見て前年比2%の上昇率をインフレ目標に設定してきました。現状は3%になっていますので、日銀は責任をもって2%にもっていくことになります。
日銀にはなんとか頑張ってそれを達成してほしいところですが、株式市場や為替市場の評価、海外の投資家は日本のインフレ率はもっと加速していくのではないかとみています。理由は明らかで、1つには高市首相がこれだけ投資を活発にしていこうと、「官民」としつつ国がお金を出す姿勢をみせているわけです。それらの投資は基本的にはインフレを強めるので、そんな中で日銀が多少頑張ったところで……というのが海外の投資家の見立てです。つまり日銀が信頼されず、円が売られる傾向に歯止めがかからない、厄介な状況があります。
─いま、世界的にAI関連の需要増が注目されていますが、かつて製造業がもたらしたほどの裾野のひろがりはもてないのではないでしょうか。
渡辺 AI開発のために、アメリカではいわゆるデータセンターの建設ラッシュが起きています。そのデータセンターをつくるには半導体が必要で、半導体をつくるには当然そのための機械設備が必要ですので、そこにも需要がついていっています。
日本は残念ながら半導体そのものを製造する能力を、東芝以降失っています。近年では韓国や台湾が世界の半導体製造を一手に担っていると言ってもいいぐらいの技術水準ですので、アメリカから大量の注文が来て、経済的にも好況に入っていきます。
ではそれがアメリカや韓国、台湾といった国全体を潤しているかと言えば、やっぱりそうではないのです。たとえば韓国ですと、サムスンとSKの2社がもっぱら半導体を造っていて、その企業は当然利益を得ていますが、人々の暮らし全体を下支えすることにはつながっていません。
日本の場合は、半導体は造れなくとも、現時点ではアメリカのデータセンターのために、電気設備や機械設備を受注することはできるでしょう。そういうところから、AI開発の恩恵はすでにそれなりに来ています。しかしそれもやはり、本当に少数の企業だけです。
質問に戻ると、AIの技術が画期的なものであることは間違いないし、社会を大きく変えていく、大きなお金が動くとは思いますが、そのお金の行く先は非常に限られます。格差は、これまでの技術革新がもたらしたものとは比較にならないぐらい大きくなるでしょう。
さらには、AIに置き換えられてしまう仕事もあります。そうすると最初に起こるのは、仕事がなくなるというよりもむしろ、賃金がどんどん安くなってしまうことです。それもまた格差の拡大を促しかねない。
首藤 この数十年、製造業の縮小やサービス経済化が進むなかで、労働分配率は世界的に低下傾向にあります。それと並行するかのように、労働組合の組織率も低下し、組合の力も弱まってきました。
そこでさらにAIが産業の主役になると、これから賃上げをがんばってやりましょうと言ったからといって、労働分配率がV字回復するとは考えづらい。そして、経済回復から置き去りにされた人たちが多くなれば、労働者としての権利を主張する余裕を失うだけでなく、十分な購買力ももてず、経済もまわらなくなります。こうした点はやはり政策的な対応が必要になるはずです。
渡辺 労働分配率の低下は今後さらに加速するでしょう。
先述のとおり、資本主義の負の側面である経済格差も今後増大してゆくでしょうから、早めに備えたほうがいい。
いまのところ、2つの対策が考えられます。1つは、そもそものAIの普及、あるいはその背景にある技術革新のスローダウンを求めることです。あまりにも変化が早いと、AIによって仕事を失う人が大量に出てくるおそれがあります。であれば、規制によって技術革新を止めるなどして、一世代ぐらいかけてゆっくり変化するようにすれば、なんとか人間も対応できる。それが1つの方法だと思います。
ただ、多くの人が支持する話ではないと思いますし、いまは中国が技術革新に非常に熱心なので、欧米諸国が百歩譲って賛成したとしても、中国だけはやり続けると。すると中国のAI技術が全世界を席捲することになり、それもまた問題となってくるでしょう。
もう一つの対策として、AIの普及に伴う格差が広がったら、所得の再分配を考えるしかないと思います。給付付き税額控除はそれに近いことをやろうとしているわけですよね。究極の姿は、一定の所得をすべての人に配るベーシックインカムです。そこまでいくかどうかは別にしても、所得の再分配という意味では、一定、社会主義の方向に軸を移すのが、AIの社会の中では必要になるのではないかと思います。
(聞き手=「世界」編集部)