中東情勢の混迷を受け、原油価格は高止まりし、物価上昇(インフレ)が続いている。暮らしへの影響が広がる中、望ましい物価環境はどうあるべきなのか。17、18日に開かれる日銀の金融政策決定会合を前に、物価研究の第一人者、渡辺努・東京大名誉教授に、インフレの背景と課題、目指すべき姿を聞いた。
【聞き手・鴨田玲奈(毎日新聞)】
――インフレが続く現状をどう見ますか。
30年ほど続いた物価下落(デフレ)の状態から、変化が始まったのが2022年春ごろです。ロシアのウクライナ侵攻に端を発して、日本がモノを輸入する時の値段が上がり、インフレの第1波が起きました。
24年8月には宮崎県沖を震源とする地震を受けて「南海トラフ地震臨時情報」(巨大地震注意)が発表され、コメなどの買い占めが起き、第2波が起きました。
そして今年2月末に米国とイスラエルがイランを攻撃し、ホルムズ海峡が封鎖され、原油価格が上昇し、第3波が始まりました。日本は原油の多くを中東から輸入しているため、ガソリンや石油を原料とする食品のパッケージなどの価格にも影響が及んでいます。物流コストも上昇し、さまざまな商品の価格が押し上げられています。
――なぜモノやサービスの価格は上がったり下がったりするのでしょうか。
消費者の「モノを買いたい」という気持ちが強くなると、多くの人が買いあさるため、価格が上がります。ただ今の日本では、消費者の懐具合があまり豊かではなく、需要が大きく増えるとは考えにくいです。
もう一つは供給の問題です。生産する側に何か問題があって供給が間に合わず、モノが足りなくなれば値段は上がります。今の日本のインフレは、供給が原因で起きていると整理していいと思います。
ただ、需要や供給よりもっと大事なのがインフレ予想です。生活者は物価が上がると予想すれば「早く家を買っておこう」などと行動します。企業も同じように、将来の物価を予想して設備投資などのタイミングを判断します。多くの人が「これから物価が上がる」と予想すると、値上がりする前に買おうとする人が増え、需要が高まります。その結果、住宅などの価格が実際に上がるということが起きるのです。
――日銀は13年1月、物価安定の目標を消費者物価(除く生鮮食品)の前年比上昇率2%と定めています。
2%というのは、非常に緩やかなインフレで、経済活動をスムーズにする潤滑油のような役割を果たすと考えられています。ただ、25年の上昇率は3.1%と目標を上回っており、日銀はインフレがやや行き過ぎているという認識を持っています。
最近は、特に企業のインフレ予想が高まり過ぎていることが特徴です。例えば、将来資材の価格が上がると予想すれば「今のうちに工場を建て替えよう」などと考える企業が増えます。そういった投資が活発になると、人手も資材も需要が高まり、実際インフレにつながってしまいます。日銀は利上げによって、こうしたインフレ予想を落ち着かせようとしています。
――今のインフレをどう評価しますか。
日本はデフレが長く続き、企業は良い商品を作っても価格を上げられず、新商品を生み出す意欲が弱まっていました。賃金も上がりにくく、労働者側も努力しても賃金が上がらないという状況に置かれ、日本経済の活力低下の一因となっていました。
しかし、22年春以降のインフレによって、状況は変わりつつあります。企業は、良い商品を作れば高い値段で販売できると考えるようになり、設備投資も活発になっています。賃金も若い世代を中心に上昇しています。デフレで失われた日本経済の活力を取り戻すという意味では、現在のインフレは良い動きだと考えています。
――物価は今後も上がるのでしょうか。
来年3月ごろまでは、米イスラエルとイランの戦闘の影響が続き、インフレが続くと見ています。ただ、戦闘は収束に向かうとみられ、現在の原油価格も一時期ほど高くはありません。戦闘による物価上昇は来春まで続きますが、その後は徐々に落ち着き、日銀が目指す2%程度に収束していくのではないかと見ています。
――日銀は現在、物価の上振れリスクを警戒しています。
日銀は企業のインフレ予想が行き過ぎていると感じており、物価の上振れに対する懸念は私も持っています。将来物価がかなり上がると考える経営者が増えているため、そうした考えを変えていくことが日銀の大きな務めだと思います。そのためには、利上げによりインフレを断固として抑えるという姿勢を明示することで、物価上昇率2%を実現する日銀の決意を人々に伝える必要があります。
――日銀は17、18日の金融政策決定会合で、利上げをする公算が大きいです。
今会合の利上げは正しい政策判断だと思います。インフレが加速していることと円が安いことが理由です。利上げによって日本の金利が上がれば、円の魅力が高まり円高になります。物価上昇率2%の時の適切な政策金利の水準はだいたい2%がいいと言われています。今の金利は1%ですから、3カ月に1度、0.25%程度ずつ上げていくとしたら、利上げの大きな流れは1年ぐらい続くのではないかと思います。
――7月末に実施された日米協調の円買い為替介入を受け、日銀はこれまで以上に利上げを迫られると考えますか。
米国は、自身の財政状況の悪化から米国債が売られて価格が下がる(金利が上がる)ことを強く警戒しています。日本で財政への懸念から日本国債が売られれば、「日本で起きるなら米国でも」と連鎖する可能性があります。こうした事態を防ぐため、米国は円安を抑えることを重視しています。米国の財政が悪い状況は今後も続くと考えられるため、日本に利上げを求める動きは続くと思います。9月に利上げをしても円安が続けば、さらなる利上げを求めてくるかもしれません。ただ、日本の金利の上げ下げに米国が干渉するのはお門違いです。海外も納得するような理屈の通った政策を日銀が独自の判断で選択することを期待しています。
――インフレを経済成長につなげるため、国や企業にはどんな対応が求められるでしょうか。
物価が上がる中で本来起きるべきなのは、物価だけでなく、賃金も一緒に上がっていくことです。企業は賃金を引き上げ、労働者も労働組合などを通じて、賃上げを求めていくことが重要です。ただ、現状では物価の上昇に賃金が追いついていません。今後の春闘では、労働組合がより高い賃上げを求めることが重要です。ただ、それだけでは不十分な部分も残るでしょう。賃金が上がりにくい非正規雇用や中小企業の賃上げを政府が後押しする必要があります。多くの人が賃金と物価の好循環を実感できる環境を作ることが課題です。
――高市政権の経済政策をどう評価していますか。何が必要だと思いますか。
高市政権は、企業の投資や成長の促進に力点を置いています。一方で、今年の最低賃金の上昇率がそれほど高い水準にならなかったように、賃上げへの関心は十分ではないように感じます。来年実施予定の消費税減税も物価を抑える政策です。今必要なのは、物価を抑え込むことではなく、賃金を引き上げ、物価が上がっても多くの人の生活が成り立つ環境をつくることです。成長戦略も重要ですが、それだけに偏れば、大企業に恩恵が集中し、低賃金の人たちが取り残される可能性があります。
デフレが終わり賃金が上がり始めた今、労働者のパフォーマンスに応じて賃金に差が出ること自体は、努力する意欲にもつながるため、格差そのものが悪いとは思いません。一方で、努力だけでは埋められない格差もあります。例えば下請け企業の従業員など自らの努力だけでは賃金を上げることが難しい人たちについては、国が支える必要があります。インフレの時代には、こうした新たな格差への対応がこれまで以上に重要になります。
――日本経済は今後どのような姿をめざしていくべきだと考えますか。
日本は長いデフレの中で、物価も賃金も上がりにくい状況が続き、欧米との差が積み重なってきました。特に、賃金が海外と比べて低いことは大きな問題です。だからこそ、今必要なのは「安い日本」をどう変えていくかということです。物価が上がるだけでなく、賃金も上がり、欧米の水準に近づいていくことが重要です。
まだ賃金の上昇を十分に実感できていない人もいると思います。ただ、物価と賃金が上がる方向への動きは始まったばかりです。今はまだ恩恵が全員に行き渡ってませんが、もう少し続けば、状況は変わっていくのではないかと思います。歯止めのないインフレによって経済が壊滅するのではないかとの見方もありますが、実際にはそうではありません。日本経済は、デフレから脱却し、緩やかな物価上昇へと向かう正しい方向に進んでいます。そのことに、ぜひ希望を持っていただきたいと思います。