サハラにはかつて、現在よりはるかに広い範囲に草原や樹木、湖沼が存在した。アフリカ湿潤期の終わりには、そうした環境が失われ、広大な地域が乾燥した。降水や植生だけでなく、砂塵の放出、地表の日射反射、炭素の貯蔵にも及ぶ大規模な転換である。それでも、その後の地球全体の気候が自己増幅的な温暖化に移行したことを示す記録はない。
本稿は、この歴史的事実をティッピングポイントの議論に位置づける。ティッピングポイントとは、ある限界を越えると、それまで維持されていた状態から大きく転換する境目をいう。緑のサハラの消失は、その仕組みを考える重要な事例である。ただし、サハラ全域が同時に一つの境目を越えたわけではない。海底堆積物には急激な乾燥化を示す記録がある一方、湖の堆積物などには長期間にわたる段階的な変化も残されている。
完新世の全球平均気温の長期的な変化についても、復元方法による相違がある。中期以降の緩やかな寒冷化を示す研究と、緩やかな温暖化を示す研究が併存する。しかし、これらの相違を考慮しても、サハラの転換を境に、全球の温暖化が大幅かつ持続的に自己増幅する状態へ移ったという経過にはならない。この判断は、本稿で比較する古気候記録から導く推論であり、サハラの効果だけを取り出して測定した結果ではない。
地域の環境を変える正のフィードバックが存在することと、地球全体が不安定化することは別の命題である。植生が減って乾燥化が進む作用があっても、地表の反射率の変化、海洋による熱や炭素の吸収、宇宙への放熱などを含めた応答は、同じ向きにそろうとは限らない。サハラの事例が示すのは、大規模な地域の環境転換と、全球の気候が比較的限られた変動の範囲にとどまることが両立し得る、という点である。
この事例だけで、将来のアマゾン森林の衰退や他のティッピング要素の影響を否定することはできない。過去と現在では外部条件も変化の速さも異なる。それでも、地域の転換から全球の連鎖的な不安定化を論じるには、両者を結びつける仕組みと規模の裏づけが必要である。緑のサハラの消失は、その区別を実際の地球史に即して考えるための有力な材料となる。
【キーワード】アフリカ湿潤期、サハラ、ティッピングポイント、完新世、気候の安定性、植生と気候の相互作用