コラム  グローバルエコノミー  2026.09.08

ノミナルアンカー

貨幣は食べたり着たりできず、それ自体に実用的な価値があるわけではない。だからこそ、その価値は不安定になりやすい。社会はこれまで、貨幣価値を安定させるためにさまざまな仕組みを考えてきた。

代表例が金本位制である。価値が比較的安定している金と貨幣の交換比率を固定することで、貨幣の価値も安定させる。このように貨幣価値をつなぎ止める仕組みは「ノミナルアンカー」と呼ばれている。第二次世界大戦後のブレトンウッズ体制も同じ発想で、ドルと金、さらにドルと円など他通貨との交換比率を固定した。

しかし、ブレトンウッズ体制が崩壊し、変動相場制に移行すると、こうしたアンカーは失われた。1970年代の高インフレは、その後に新たなノミナルアンカーを模索する契機となった。

現在、多くの国でその役割を担っているのがインフレターゲティングである。中央銀行が、例えば2%というインフレ率の目標を掲げ、その実現を約束する。インフレ率が目標を上回れば金融を引き締め、下回れば緩和することで、物価上昇率を目標付近に戻そうとする。この仕組みは、金本位制のもとで金と貨幣の交換比率を維持するために中央銀行が行っていた調整とよく似ている。

日本も現在はこの仕組みを採用しているが、導入されたのは2013年と比較的最近である。では、それ以前の日本にはノミナルアンカーがなかったのだろうか。もし本当にそうであれば、貨幣価値が不安定化し、高インフレが起きても不思議ではない。しかし、実際にはそのようなことは起きなかった。

その理由を考える手がかりが、筆者たちが家計を対象に行ってきたアンケート調査にある。2013年以前には、相当数の家計が「この先のインフレ率はゼロ」と答えていた。つまり、人々のインフレ予想がゼロ%に強くアンカーされていたのである。

当時の日本でノミナルアンカーの役割を果たしていたのは、これだったと考えられる。中央銀行がゼロ%インフレを約束していたわけではない。それでも家計は自発的に、将来のインフレ率はゼロに近いと信じ、その前提で行動していた。

例えば、海外からインフレをもたらすショックが生じても、家計がそれによって貨幣価値が恒久的に低下すると予想しなければ、貨幣を急いで手放そうとはしない。インフレ予想がゼロにアンカーされている限り、ショックが持続的なインフレへとつながることはない。

興味深いのは、このゼロ%アンカーが、2013年にインフレターゲティングが導入された後も長く残ったことである。アンケート調査によれば、「先行きのインフレ率はゼロ」と答える家計の割合が大きく低下したのは2022年春だった。この時期に、ようやくゼロ%へのアンカーが外れたとみることができる。

ただし、その後、人々のインフレ予想が2%にアンカーされたわけではない。ゼロ%からのデアンカーには成功したが、2%へのリアンカーはまだ完了していない。

その意味で、現在の日本は、明確なノミナルアンカーを欠いている可能性がある。近年、物価や為替レートが不安定な動きをみせている背景には、そうした状況も関係しているのかもしれない。