米連邦準備制度理事会(FRB)のケビン・ウォーシュ新議長が、インフレ(物価上昇)指標の見直しなどの改革に取り組み始めた。改革はなぜ必要で、どのような検討が今後進められるのか。経済学者の渡辺努氏が解説する。
FRBのウォーシュ新議長は、5月の就任直後から金融政策運営の改革に着手した。
改革の柱は三つある。政策目標を本来の姿へ立ち返らせること、市場との対話のあり方を見直すこと、そして金融政策の判断基盤そのものを刷新することである。その方向性は、今後の日本銀行の政策運営を考えるうえでも重要な示唆を含んでいる。
まず議長が掲げたのは、連邦準備制度(Fed)の使命への原点回帰である。Fedの法定目標は「物価の安定」と「雇用の最大化」の二つに限られる。しかし近年は、金融市場の混乱や気候変動など、法定目標以外の課題にも目配りする場面が増えていた。中央銀行は本来の使命に集中すべきだとの考えを明確に打ち出している。
同時に見直しの対象となるのが、市場とのコミュニケーションである。Fedはこれまで、連邦公開市場委員会(FOMC)参加者が見通す将来の政策金利を公表するほか、声明や講演を通じて今後の政策運営を示唆する「フォワードガイダンス」を積極的に活用してきた。リーマン・ショック後、政策金利がゼロ近辺まで低下し、追加利下げが難しくなった局面では、将来の金融緩和継続を約束することで追加的な効果を上げることができた。
もっとも、その副作用も小さくなかった。市場参加者は経済指標そのものよりも、Fedが次に何をするかの推測に多くの労力を割くようになり、政策当局者の発言一つで金融市場が大きく動く状況が常態化した。市場が中央銀行の「意図」を読むことに終始すれば、経済の実態が金融市場の価格に反映されにくくなる。
ウォーシュ議長が目指すのは、こうした構図からの脱却である。その鍵となるのが、政府統計だけに依存しない政策運営だ。従来、中央銀行は物価や雇用など政府統計を主な判断材料としてきた。しかし、これらは公表まで時間がかかるうえ、後日改定されることも少なくない。ウォーシュ議長の言葉を借りれば「一世代前」の手法に依存している。
デジタル化が進んだ現在では、民間企業が保有するクレジットカードの購買履歴データや家賃データ、賃金・求人データなど、経済活動をリアルタイムで把握できるオルタナティブデータが急速に充実している。
Fedがこうしたデータを政策判断に取り入れ、市場参加者も同じ情報を共有するようになれば、市場はFedの発言から政策を推測する必要が薄れる。経済データを見れば政策判断を予測できるからだ。
フォワードガイダンスを全面的に廃止するかどうかは別として、政策運営の軸を「中央銀行の発言」から「経済データ」へ移そうという発想は合理的だ。日銀を含む各国の中央銀行はこれまでもオルタナティブデータの活用を促進してきたが、もう一段の加速が予想される。
政策手段についても、ウォーシュ議長は転換を志向している。パンデミック期には、大量の国債等を購入してバランスシートを拡大し、金融緩和を進めた。しかし議長は、こうした非伝統的政策への依存を減らし、政策金利の操作を中心とした運営へと回帰する考えを示している。
だが、ウォーシュ改革の本質はそこにはない。最大の特徴は、政策判断の基礎となるインフレ指標そのものを刷新しようとしている点にある。
興味深いのは、今回の改革の多くが、Fed本来の姿への回帰という性格を持つのに対し、インフレ指標の見直しだけは未踏の領域への挑戦だという点である。改革の本丸は、ここにあると言ってよい。
その背景には、近年の高インフレからの教訓がある。ウクライナ戦争の勃発後、米欧の中央銀行は原油等エネルギー価格の急騰にどう対応すべきか難しい判断を迫られた。イラン戦争でも、各国の中央銀行は再び難しい判断を迫られた。
原油等のエネルギー価格の上昇という一次的ショックは、一度限りの価格上昇であれば金融政策で抑え込む必要はない。しかし、それを契機に、家計や企業が「物価はこれからも上がり続ける」と考えるようになると、幅広い財・サービス価格や賃金へと波及し、持続的なインフレを招く。中央銀行が最も警戒するのは、このような「二次的波及」である。
問題は、その二次的波及がどのように生じるかである。図は、日本の約2万世帯を対象として、各家計のガソリン購入頻度別に、イラン戦争前後におけるインフレ予想の変化(の平均値)を比較した結果である。ガソリンを頻繁に購入する家計ほど、インフレ予想の上昇幅が大きいことが確認できる。ガソリン価格の上昇を日常生活の中で実際に「経験」した人は、「今後も物価は上昇する」と考えやすくなるのである。

戦争勃発後の3月末におけるインフレ予想と勃発前の2月末におけるインフレ予想の差
出所:渡辺努・庄司俊章「インテージ・インフレーション・トラッカー」、2026年4月24日
ここで重要なのは、人々のインフレ予想は統計ではなく「経験」によって形成されるという点である。原油価格の上昇という一次的ショックが、人々の「経験」を通じてインフレ予想を変え、それが二次的波及の引き金となる。このメカニズムは近年、多くの研究によって裏付けられつつある。
そう考えると、現在広く用いられている物価指標には限界がある。政策判断では、一時的な変動要因を除くため、消費者物価指数(CPI)から生鮮食品やエネルギーを除いたコア指標が用いられることが多い。しかし、この方法では、一次的ショックを除外するだけでなく、そのショックが人々の予想を変え、他の財・サービス価格へと波及する過程まで捨象してしまう。
中央銀行が本当に知りたいのは、二次的波及が始まっているかどうかである。日銀が近年繰り返し用いてきた「基調的物価」という概念も、まさにそれを捉えようとするものである。しかし、概念自体は広く共有されている一方、それを客観的に測る決定版の指標は、日米を問わずいまだ存在しない。
この課題を克服する手段として期待されるのが、前述したオルタナティブデータである。リアルタイムに収集される膨大な民間データを用いれば、人々のインフレ予想の変化と二次的波及を従来より迅速かつ高い精度で把握できる可能性がある。
ウォーシュ改革の意義は、中央銀行が経済をどのようなデータで認識し、何を見て判断するかという点を根本から見直そうとしていることにある。その挑戦が成功すれば、Fedだけでなく日銀を含む世界の中央銀行の政策運営にも、大きな影響を及ぼすことになるだろう。