昨年11月上旬、高市早苗首相の国会における存立危機事態に関する答弁等を中国指導層が問題視したことを機に日中関係が悪化している。
その後、中国政府は日本政府関係者との接触をすべて拒絶しているほか、中国の大学、シンクタンク等も日本政府関係者の接触を拒絶している。
日本人アーティストの中国国内でのコンサート、主要な経済団体の訪中、経済・文化交流に関する各種イベント等もすべて中止、中央・地方政府主催の公式会議における日本企業の出席・発言もほぼ拒絶されている。
いったん解禁された日本の水産物輸入も再び禁止された。
こうした日中関係悪化の深刻な影響は日本国内のメディア報道で頻繁に伝えられているため、筆者も理解していた。
日本政府関係者や中国専門家の間でも、今回の問題は中国政府が核心的利益と位置付ける台湾の問題に関わるため、尖閣問題の時よりも中国政府の対応は厳しく、問題は深刻だという理解が共有されている。
そうした理解を念頭に今年1月後半、定例の中国出張で北京、成都、上海を訪問した。
筆者の理解では、日本政府、経済団体、アーティスト等がこれほど厳しい対応を受けているのであれば、中国現地駐在の日本人はもっと厳しいリスクに直面している。
具体的には、街中を歩いていても、いつ見知らぬ中国人に襲われるか分からないため街中を安心して歩けない、家族を含めて外出を極力抑制する、人目につくところで日本人同士では集まらないように注意する、といった状況だろうと想像していた。
海上保安庁の巡視船に中国漁船が衝突した尖閣問題が起きた後の中国では、どこに行ってもそうした話を聞かされたからである。
また、日本企業の中国ビジネスも不買運動による売上高の減少など、大きなダメージを受けているだろうと想像していた。
ところが、北京到着直後からその理解が間違っていることを多くの日本企業関係者から聞かされた。それは成都でも上海でも同じだった。
中国に進出している日本企業のある幹部は次のように話してくれた。
「日本企業のビジネスへの影響はほとんどない。不買運動もなく、対日輸出規制も民生品は対象外のため、実害はほとんどない見通しである」
「北京や上海で日本人が街中を歩いていて身の危険を感じることもない。タクシーの運転手等見知らぬ人に絡まれることも皆無である。これは尖閣問題の時と全く違う」
誰に聞いてもこういう答えが返ってきた。北京到着直後は耳を疑った。
中国駐在の日本企業関係者の中には10年、20年もの長期にわたって、ずっと中国に駐在し続けている人や、数年間ずつ何度も駐在を繰り返している人が少なくない。
そうした人々の中には、尖閣問題の時にも中国に駐在していたため、本人や家族が外出するのが怖かったという経験をした人が少なくない。
その人たちが今も北京や上海に駐在しているため、当時との比較を自分自身の経験として語ってくれた。
日本企業の中国ビジネスについては、2009年以降、筆者自身が定期的に四半期ごとに中国に出張して、中国経済情勢や日本企業への影響に関する出張報告を作成していたため、尖閣問題発生当時の記録が残っている。
尖閣問題発生の2012年9月から4か月以上が経過した2013年1月後半の中国出張報告の記述の一部を抜粋して引用すれば、以下のとおりである。
「自動車販売が前年の8割程度まで回復し、その他の産業では一部の例外を除き、ほぼ尖閣問題発生前の状況にまで戻っていた。中国人の一般庶民の間には反日感情が根強く尾を引いている」
「このため、日系企業は政府調達の対象からはずされることが多いほか、従来贈答品として重宝された日系デパート・スーパーの商品券の売れ行きも大幅に減少したままである」
「地域的には上海以南と北京以北では大きな差があり、北京を中心に北方では政治の影響が強く、悪影響が残っている」
今回の筆者の中国出張は、高市発言の約2か月後のタイミングであるため、尖閣問題発生後の状況と同じであれば、上記の出張報告(尖閣問題発生の4か月後)よりはるかに厳しい状況にあったはずである。
しかし、上述の通り、現状の日本企業の中国ビジネスへの影響はほとんどない。例外的に影響があるという話を聞いたのは以下の2点である。
一つは、大手日系家電メーカーのeコマースで宣伝していたインフルエンサーの中国人が全員契約を打ち切った。
これは福島第一原子力発電所の原発処理水放出の時も同じだったので、その日本企業は特に驚かなかったが、売り上げにはマイナスの影響が生じた。
もう一つは、成都の大手日系スーパーの販売が、高市発言後、2週間だけ1割ほど売り上げが減少した。ただし、それ以降の影響は皆無となっている。
以上はBtoC関連ビジネスの話である。大手商社、金融機関等BtoBのビジネスの話を聞くと、影響は皆無との回答ばかりだった。
また、尖閣問題の時は数年にわたって深刻な影響を受けた自動車メーカーも今回の影響はほとんどない模様。
スシロー、はま寿司といった回転寿司チェーン店は新たな店舗を開業すると10時間以上の待ち行列ができるほか、サイゼリヤも低価格の飲食の人気が高い。
ユニクロ、デサント、MUJI等の衣料、民生品も好調を維持しているなど、中国現地では日本企業の業績にほとんど影響が見られていないとの見方は現地日本企業の共通認識である。
以上のように、街中で日本人が感じるリスクも日本企業の中国ビジネスが受けるダメージも、尖閣問題当時とは比較にならないほど軽微である。
筆者の周囲には中国専門家が多いが、筆者同様、こうした中国市場における日本企業の影響がないことを知らなかった人が大半である。
また、筆者と同じ時期に中国に出張して同じように驚いたという話も耳にした。
中国専門家ですらこうした状況であるため、中国国内事情に詳しくない企業経営者の大半も同じような認識である。
日本企業の中国現地駐在の人たちから、本社の役員が中国出張を予定していたが、このタイミングで中国に入るのはリスクが大きいと判断して中国出張を取りやめた事例もあるという話も聞かされた。
このように、中国において日本人と日本企業が置かれている現状に関する日本国内の認識が中国現地の実態と大きく乖離している主な原因は、その事実を伝えていないメディア報道にある。
中国現地で出張中に意見交換した大手日系新聞の記者に対して、どうしてこうした事実を報道しないのかと質問してみた。
その答えは、「何も変わっていないというのはニュースではないので、伝えていません」というものだった。確かにそう言われれば、その通りではある。
しかし、このような厳しい日中関係が続く中、多くの日本人が、中国現地の日本人と日本企業のビジネスは大変なリスクやダメージに直面しているだろうと誤った認識を共有している状況は通常の事態ではない。
こうした状況を前提とすれば、高市発言後も何も変わっていない、街中のリスクやビジネスへのダメージは生じていないというのは価値のある情報である。
今からでも遅くないので、新聞、テレビ等日本のメディア各社には、こうした事実を報道してもらいたいと願っているのは筆者だけではないはずである。
筆者の出張中、中国現地で話題になったのは、尖閣の時と今回との比較で、中国国内の日本企業や日本人に対する反応がこれほど大きく異なった原因は何かという点だった。
これについては以下の3点が指摘されている。
第1に、今回中国側が問題視したのは存立危機事態が発生した場合の日本の対応に関する高市発言だったが、一般の中国人にとって存立危機事態とはいったい何を意味するのかよく分からないため、どこに怒りの矛先を向ければいいのかが分かりにくかった点である。
尖閣問題の時は、中国の領土が奪われたと中国人は理解した。福島の処理水の時は中国近海が汚染されたと受け止めた。
しかし、今回はそうした目に見えるものがないため、怒りのぶつけ方が難しかったと指摘されている。
第2に、中国人の日本に対する理解が深まったため、中国政府が「日本は軍国主義化している」「日本は治安が悪い」と中国国民向けに宣伝しても、あまり効果がなかったという指摘である。
尖閣問題が生じた2012年当時、中国人の1年間の訪日客数は143万人だった。その後人数が急増し、2019年には959万に達した。コロナの影響で減少したが、昨年は910万人まで回復した。しかも、日本は海外旅行先として最も人気が高い。
こうした日本旅行ブームで毎年多くの中国人が日本を訪問しているため、日本のことをよく理解する中国人が増えている。
彼らは日本が軍国主義でもないほか、治安も悪くないことを自らの体験として理解している。その情報がSNS等を通じて中国内で広く共有されている。
このため、政府が日本に関するネガティブな情報を流しても効果がない状況が続いている。
第3に、SNS等を通じた情報発信が中国中に行き渡っているため、中国政府がメディア報道を通じて情報をコントロールしようとしても、一般の中国人、特に若い世代の中国人には伝わりにくくなっている点がある。
今年1月以降も東京では若い世代の中国人をたくさん見かける。
彼らは楽しそうに東京タワーや丸の内、六本木のイルミネーション等を背景にスマートフォンで写真や動画を撮って楽しんでいるが、おそらくその多くは中国国内の友人向けに送られているはずである。
そうした若い世代は、SNSを通じて日本をよく理解し、中国国内では日系の飲食店や民生品を愛好している。
この間、日本でも尖閣問題の時のような反中論、嫌中論一色になる状況は見られていない。一定の頻度で、高市発言に対して、もう少し慎重であるべきだったという意見がメディアで紹介されている。
また、中国人観光客が減って、ホテルやレストランが困っているという報道も散見される。これは以前はほとんど見られなかった現象である。
このように、尖閣問題の頃と比較すると、日中両国とも国民の相手国に対する理解が深まり、関係の成熟が感じられる。
それを支えているのは、中国人のインバウンド客の急増、日本企業の対中ビジネスの拡大、SNS等ソーシャルメディアによる情報共有を通じた相互理解の深まりなどである。
日中関係において外交関係が悪化しても、両国の国民相互間の理解の深まりが、両国関係安定の支えとなっている。
この点を考慮すれば、旅行、経済・文化交流を通じた草の根レベルの民間相互交流の重要さがよく理解できる。
今回の高市発言後の日中関係を尖閣問題発生当時の状況と比較すると、政府レベルの外交関係が悪化した場合でも、民間人の草の根交流を安定的に維持することの重要性がよく分かる。
中国当局側もこの点を尊重することを期待したい。