メディア掲載 エネルギー・環境 2025.10.15
Japan In-depth(2025年9月22日)に掲載
【まとめ】
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昔の神様は泥の海をかき混ぜ、そのときに棒からぽたぽた落ちて出来たのが日本列島だとか、出雲の神様が遠くにあった島を引っ張ってきて、それをくっつけて国土を造った、といった神話がある。もちろん昔の人は現代の地質学の知識などあろうはずも無く、地形を見て想像力を逞しくしたに過ぎないけれども、今日の科学の眼で見ても、あながち的外れとも言えないところが何とも面白い。
山口県の日本海側にある萩のあたりでは、かつては火山活動が盛んだった。萩の中心からほど近い景勝地である笠山も9000年前の噴火でできた小山とのことだ。標高112メートルという日本最小の活火山で、簡単に噴火口まで入って溶岩の壁を眺めて、往時の噴火の様子に思いを馳せることができる。山頂からの眺望はすばらしいが、すぐ近くに幾つも浮かぶ萩六島と呼ばれる平べったい島々も、みな6万年前から21万年前にかけて出来た火山島だという。島々は、神様がぽたぽた落としたのではなかったが、地下からふつふつと湧いてきた訳だ。
日本列島に向かっては太平洋からプレートが移動しているが、それに乗っかって、様々な島が日本にぶつかり、列島に付加されてきた。プレートを動かしていたのは神様ではなくマントルの対流であった。遠く南方の、真っ白いサンゴ礁の発達した島がはるばるやってきて日本にぶつかると、その一帯は厚い石灰岩層で覆われることになった。それが雨で浸食されて出来たのが、秋芳洞の見事な鍾乳洞である。有名な百枚皿や黄金柱などの自然の造形美を楽しんだ。内部は年間を通じて17℃、真夏でもひんやりとして気持ちがよい。
日本列島には他にも様々な地質の島がぶつかった。メタセコイアやシダ・ソテツなどの古代の樹木で発達した森で覆われた熱帯の島では、やがてその樹木が地層中で石炭になって、これまたはるばる移動して日本列島にぶつかると、そこは炭田になった。山口県の太平洋側にある宇部と、秋芳洞のある美祢市の西部にある大嶺で石炭が採れたのはそのおかげである。
萩からドライブして秋芳洞に向かうと、その洞穴の上を覆う形になっている、秋吉台の広々とした草原を通る。ところどころにアップダウンがあり、ドリーネと呼ばれる独特の陥没穴があるが、川はどこにも流れていない。それが独特な景観を醸しだしている。石灰岩の土地なので、いったん川が出来ても、すぐにその下を侵食してしまい、水は鍾乳洞の中を流れるようになるので、地上からは見えなくなってしまうのだ。地下には、秋芳洞だけでなく、無数の鍾乳洞があるという。
さて秋芳洞は美祢市の東側に位置するが、そこから西に向かって美祢市の中心部にドライブをすると、巨大な煙突が見えてくる。かつて宇部興産の名前で知られた現UBE株式会社の伊佐セメント工場である。工場のすぐ後ろには、石灰岩を採掘した跡の白い崖が聳え立っていて威容を誇る。ここを含めて、秋芳洞の西側では、石灰岩の採掘が盛んに行われてきた。セメントを生産するにあたっては、石灰岩を石炭で加熱して、石灰岩に含まれる水分や炭酸ガスを追い出す「焼結」という工程が基本になる。だからこそ、石灰岩も石炭も産出するこの地域というのは、セメント産業の立地のためにはうってつけ、まさに神が与えた場所だった。
美祢から一路南下すると、宇部に着く。宇部では江戸時代初めには石炭が採掘されており、明治時代になると、海底まで延びる本格的な炭鉱が開発された。宇部市内の常盤公園内にある石炭記念館に行くと、坑内掘りを再現した展示や、採炭に使用したドリルやトロッコやダイナマイトなど、さまざまな器械が展示してあって、宇部炭田開発の歴史を学ぶことができる。石炭産業を基盤として、セメント生産、火力発電、肥料生産、ガラス生産など、多くの産業が発達し、宇部は「炭都」と呼ばれた。炭鉱自体は、石油との価格競争に敗れて、昭和42(1967年)には閉山された。しかし重化学工業の工場群はいまでも健在で、宇部市はいまなお日本有数の産業都市としての地位を保っている。
炭鉱は美祢市西部の大嶺にもあった。こちらの石炭は宇部よりは新しい地層のもので、宇部が2億年前のものなのに対して、こちらは5千万年前のものだ。全然違う地域で、全然違うタイミングで発達したものを、神様が気まぐれで引っ張ってきたのだ。宇部の石炭は炭化が進んでいたので着火がしにくいが、熱量が高いため、海軍が軍艦の燃料に使用した。大嶺の石炭は熱量は低いが着火しやすいので、ストーブなどの民間用に採掘された。大嶺炭田では明治初期から採掘がはじまり、多数の坑道が掘られ、一時は数千人が暮らす炭鉱住宅地も形成された。しかしこちらも石油との価格競争に敗れ、今では閉山して、跡地は刑務所、墓地やメガソーラーなど、さまざまな利用のされ方をされている。往時の炭坑を偲ぶ痕跡はほとんど残っていないのだが、唯一、水平坑の入り口が残っていたので、それを見に行って、入口に落ちていた石炭をひとかけら、お土産にもらってきた。
萩出身の思想家であった吉田松陰は、幼少の時から兵学を修めて、やがて欧米の軍事力の根底には卓越した科学技術があることを洞察し、日本もそれを習得すべきだと説いた。彼が松下村塾で育てた門下生からは、伊藤博文など、欧米に遊学し、その知見を基に明治維新で重要な役割を果たした人材が輩出されたことはよく知られている。伊藤らなどの政治家は割と短期間で帰国したけれども、長州五傑の一人に数えられる山尾庸三らは、数年にわたり英国や欧州で工学を修め、帰国後には、明治政府に建白書を提出して工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)を設立した。当時は世界でも珍しかった、本格的な工学研究大学の創設であった。ここで育った人材は明治時代の日本の工学の発展を支えた。
萩にも、幕末期の産業化の足跡が残っている。一つは、鉄の精錬をするために建造された萩反射炉である。これは最新鋭の鉄製大砲を鋳造すべく試作されたものだが、結局、当時の技術力が及ばす、目的を果たすことは出来なかった。もう一つは、恵美須ヶ鼻造船所跡である。軍艦を建造したのだが、この造船所で使用していた釘は、驚くことに、砂鉄を集めて人力でふいごを吹くという、昔ながらの「たたら製鉄」によって造られたものだった。江戸時代、萩の城下町には家内制手工業は発達していたものの、西洋からの技術導入はゼロから始めるような状況だった。その後の人々のたゆまぬ努力によって、明治時代には工学が導入され、やがて宇部には立派な工場が立ち並ぶようになった。
神々がこの地にもたらした石炭と石灰岩という資源に恵まれて、近代の人々が技術を習得し勤労に励んだ結果、豊かな産業が発展した。この陰には犠牲もあった。宇部の海底炭鉱では昭和17年の水没事故によって183人もの方が亡くなった。宇部炭鉱全体では、明治から昭和にかけて約80年間の操業で1200人以上が命を落としている。無数の、名も無き人々の貴い労働のおかげで、この地域にはいまも産業が息づいている。