There Is No Climate Tipping Point: How the “tipping points” metaphor infiltrated environmental discussions—and how it set us back https://thebreakthrough.org/journal/climate-change-banned-words/climate-tipping-point-real を許可を得て邦訳。 (訳注:著者シーバー・ワンは関連する学術論文を書いており、本稿はその解説記事になっている。Wang et. al. (2023), Mechanisms and Impacts of Earth System Tipping Elements https://agupubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1029/2021RG000757) |
地球海洋科学の博士論文を書き上げるずっと前に、私は気候小説を書いてみたいと思っていた。それは言うほど大したものではなかった。なにしろまだ14歳だったころのことだ。私は、自分の物語が温暖化する未来の危険性を鮮明に描き出し、社会に衝撃を与えて気候変動を解決に導くだろう、などと空想していたのだ。
私の小説は、ほんの数章しか進まなかった。振り返ってみると、一連の災害があまりにも急激に押し寄せてくると感じさせずに、近未来における大惨事への転落をどう叙述するか、という壁に阻まれてしまったのだ。私は、地球が崖っぷちから滑り落ちるような何らかのティッピングポイントが存在すると信じて疑わなかった。だがそこまでにどれくらいの時間がかかるのだろうか?私は、物語の主人公が十代から大人になり、そして年老いるまで、ゆっくりと進む大きな変動を経験するといったストーリー構成を作りあげるには忍耐力が足りなかった。
いずれにせよ、気候の未来はもう少し複雑であることがわかったのである。当時の私の未完の小説が想像していた気候の未来の多くの要素は、気候変動に関する研究のコンセンサスの大部分であり、より頻繁で激しい山火事、水循環の変化、侵入種のカブトムシによる松林の壊滅などであった。当時の私の根底にあった仮説は、生涯のある特定の瞬間に、地球が気候のティッピングポイント(臨界点)を越え、自己強化的な暴走状態に陥るというものだったのだ。
このさき起こりうる状況として可能性の高い一連の将来シナリオにおいて、気候科学の文献は、人類の対応能力を超えて暴走するような、世界的なティッピングポイントが近づいている、ということを示してはいない。北極圏の永久凍土の融解やアマゾンの森林喪失のように、気候システムにおけるティッピング・エレメントは地球全体の温暖化に影響を与えてはいるが、その影響の大きさは、地球の気候のトラジェクトリー(軌跡)を最終的に決定する社会的要因に比べると、かなり小さいのである。
読者の皆さんにとっては、この文章が堅苦しく、過剰に修飾されているように感じられるかもしれない。IPCCの報告書や学術論文にある無数の似たような文章と同様、正確さを保つために非常に慎重に用語を選択しているのである。しかし、このような配慮は、研究者がまだ解明できない未来への渇望を満たそうとする一方で、時に誇大広告的表現に陥りがちな気候に関する俗説とはますます相容れなくなっているように思われるのも事実である。
小説家志望の若かりし頃の私がそうであったように、現在も私を惹きつけてやまないテーマのひとつが、ティッピングポイントである。より正式には「気候ティッピングポイント」と呼ばれるこのテーマは、絶えず進化し続ける知見の集合体であり、特に混乱や誤解を招きやすい。
何年もの間、地球科学者のグループは少しずつ異なるティッピング・エレメントの定義を提示し、提案されているティッピング・エレメントのリストは、多様な追加や削除によって変化してきた。熱帯モンスーンやエルニーニョサイクルの急激な変化は多くのリストから外れ、一方で東南極氷床の安定性に対する懸念が高まっている。また、地球の気温が理論上のティッピングポイントを超えた後に起こりうる気候への影響の範囲を示す研究は、しばしばライターやジャーナリストによって、上限的で最悪のケースを想定して要約されることが多い。
難解な科学的ディテールと単純化された報道が出会うとき、混乱が生じるのは特に驚くべきことではなく、「ティッピングポイント」という言葉自体が、ほとんどの、いやすべての気候ティッピングポイントのエレメントに必ずしも当てはまらない唐突さと即時性を想起させて、その混乱に拍車をかけている。「気候ティッピングポイント(climate tipping points)」や「暴走する気候変動(runaway climate change)」は、今や気候に関する会話でよく使われる言葉であり、これらの言葉を使うとき、実際には提唱者によって意味合いは異なるかもしれないが、気候システムが非常に不安定で、自己強化的で、急激な災害の危機に瀕しているという、広く共有されてはいるが不正確な理解のもとで使われているのである。
合理的な見方でとらえれば、地球が破滅的な帰還不能な点を超えて滅亡するまであと数年しかないといった予感が、非生産的な運命論を招く。同時に、気候変動による崖っぷちが迫っているという認識は、長期的な対策を排除し、緊急対策を優先させているように見える。そして気候政策の議論を逆効果になりかねない方向に歪めている。
今後、科学界と気候アドボカシー団体らが明確にすべき重要なメッセージは、人類は常に気候に対する主体性を持ち続けるということである。母なる地球が人類から気候システム全体の支配権を奪い取り、私たちの罪を罰するといったようなティッピングポイントは存在しないのだ。
気候の崖っぷちが迫っていないと言うと、気候変動対策への推進力を弱めているように見えるかもしれないが、人類が地球のサーモスタットに対して決定的な主導権を持っているということは、実は大きな責任を課されていることでもある。人類と自然にとってより好ましい未来を実現するだけでなく、その未来を築くための条件を定義するのも、私たち次第なのだ。
「ChatGPTにこの議論に参加してもらったところ…
環境問題の議論において、「ティッピングポイント」とは、特定の環境システムやプロセスが不可逆的に変化し、しばしば遠大で潜在的に悲惨な結果をもたらす、重要な閾値のことを指す。ティッピングポイントは、極地の氷冠の融解、森林の枯死、海洋の酸性化など、地球の気候システムにおける潜在的または実際の閾値を説明するためによく使われる。
こうした閾値は、問題の自然システムが以前の状態に戻れないほど変化してしまう、「戻れない地点」と考えることができる。たとえば、ある一定量の極地の氷が溶けてしまうと、もはや自然のプロセスで氷を取り戻すことはできず、海面が永久に上昇することになる。同様に、大気中の二酸化炭素がある限界量に達すると、それが地球の自然な炭素循環によって吸収されるまでに数百年から数千年かかる。
環境問題の議論において、気候ティッピングポイントは、人間活動が環境に及ぼす潜在的な影響についての警告として、また、環境問題がこのような重大な閾値に達する前に、迅速かつ果断に対処するための行動の必要性を強調するために、しばしば用いられる。不可逆的な環境変化の可能性を強調することで、ティッピングポイントの概念は、環境を保護し、持続可能な未来を確保するために行動を起こすよう、個人、地域社会、政府を動機付けることを意図している、と言えよう。」
気候科学における 「ティッピングポイント」という言葉は、多くの点で誤解されやすい。この用語の二つの要素(単語)が混乱を招いているのである。
第一に、「ティッピング(臨界)」という言葉は、アンバランスな荷車がひっくり返るような突然の変化を意味する。しかし実際には、多くの気候科学論文や報告書は、ティッピング・エレメントの急激な状態変化(例えば、わずか20年以内の系統的な変化)は、一般的ではなく例外的であることを指摘している。気候システムの構成要素は、人類の時間スケールでは動きが鈍く、そのため、地球システムの構成要素の多くは、数百年、数千年とまではいかなくても、少なくとも数十年という時間をかけて変化するからである。例えば、永久凍土の融解による将来の炭素放出や、グリーンランド氷床の消失による海面上昇は、数百年規模で起こる。
地質学的なタイムスケールで物事を考える習慣のある地球科学者にとっては、産業革命以前における地球システムの典型的な変化であった氷河期のサイクルのペースと比較すると、この変化は非常に急速なものに思える。しかし、素人にとっては、「急速」というのは積み上げられたブロックの山やピサの斜塔が倒れることを想像させるので、全くイメージが異なる。このような認識の違いは、気候のティッピング・エレメントがどのように起こり、その影響がどの程度のスピードで、あるいはどのくらいのゆっくりした速度で展開するのかといったことについて、異なる予想をもたらす。
第二に、「ポイント(point)」という言葉も混乱を招く。この言葉は、地球システムを構成する部品がばったり倒れるような、ただ一つの、正確で、既知の、危機的な閾値というニュアンスがある。
気候システムにおいては――どこまでをシステムとして定義するかにもよるが—―ある閾値を越えれば、そのシステムが非線形的な変動を起こす場合もある。これは、南極のスウェイツ氷河のような場合である。フロリダ州と同じ大きさの大きな氷床は、温暖化によって氷床が構造的にティッピングポイントを超えると、何世紀にもわたって不可逆的に質量が減少する危険性がある、と広く理解されている。
しかし、その臨界の閾値が正確に分かっていることは稀である。また、北極圏の永久凍土地形やアマゾンの熱帯雨林のような大陸スケールの大きなシステムは、単独の包括的な気候ティッピングポイントを持っているわけではなく、むしろ地域的・局所的規模において閾値を超えることにより、より小さなスケールで非線形的な状態変化を示す可能性がある。熱帯雨林は1エーカーごとといった規模で減少し、日当たりの良い南向きの丘陵地の永久凍土は急速に融解して炭素を放出するかもしれないのである。
しかし、このように「ティッピングポイント」が不完全な言葉であるにもかかわらず、なぜこの言葉がここまで広まったのだろうか?
多くの科学的概念がそうであるように、気候のティッピングポイントという用語は、理論としてまずは生まれたものである。その後、研究者たちは理論を発展させ、さらに深く研究してきた。英語の文章で「tipping point」という用語が初めて口語的に使われたのは19世紀ごろにさかのぼるが、社会科学者や政治学者は、第二次世界大戦の後の数十年間、政治的な動きや社会経済的な急激な変化を説明するために「tipping point」という枠組みを使い始めた。
2000年代初頭にジャーナリストのマルコム・グラッドウェルが著書『The Tipping Point(ティッピングポイント)』でこの用語を一般化したのに続き、地球科学はその後、臨界的な閾値を超えると高速または低速の状態変化を起こす可能性のある地球システムの構成要素についての考え方を明確にするために、この用語を取り入れ始めた。初期の科学的議論のなかには、地球規模での気候のティッピングポイントの可能性をめぐる議論もあれば、あいまいな表現で ただ「ティッピングポイント」と呼ぶ場合もあった。徐々に、ほとんどの科学者は「ティッピング・エレメンツ」という用語に落ち着き、最新のIPCC報告書にあるように、「それを超えると、しばしば急激に、かつ/または不可逆的にシステムが再編成される、臨界的な閾値」と定義されるようになったのである。
しかし現在でも、科学文献の中で「気候ティッピングポイント」という言葉が、速いプロセスを指すのか、遅いプロセスを指すのか、また一般的な概念的枠組みなのか、数学的・統計的に定義できるものなのか、その意味するところは千差万別である。
その上、地球システムのさまざまな構成要素に関する科学的理解が進むにつれて、ティッピング・エレメントとしてリストアップされるメンバーも変化してきた。たとえば、北極の夏の海氷が将来的に急激に減少する可能性を提唱した研究者もいたが、その後の研究によって、北極の夏の海氷は温室効果ガス排出量の増加に比例して徐々に減少するという結論が示されたため、この仮説は弱くなっている。同様に、モンスーン循環やエルニーニョサイクルの急激な変化を予測した説も、ほとんど過去のものとなった。10年前の論文では、大量のメタンが海洋から湧き出し、それにより世界滅亡的な結果がもたらされる可能性があると警鐘を鳴らしていた。しかし現在では、海底堆積物の奥深くに埋もれた凍結メタンは、温暖化に対してゆっくりと徐々にしか反応せず、何世紀もあるいは何千年もかけて大気温暖化作用のあるメタンを少しずつ放出することがわかっている。
この記事を書いている時点では、北極海の夏の海氷、地域性モンスーン、海底メタンハイドレート、エルニーニョはティッピング・エレメントのリストからはほぼ削除されている。そして、それに代わって新たなエレメントが提案されているケースもある。例えば、2022年秋に『Science』誌に掲載された論文では、「ラブラドル海の亜寒帯環流の崩壊」と「バレンツ海海氷の突発的消失」が新たな可能性としてティッピング・エレメントに加えられている。時が経てば、さらなる研究がこれらの新たな可能性を検証することになるが、リストから削除されることもあり得るだろう。
これらはすべて、気候のティッピングポイントに関する現在の理解がいかに未だ不確かなものであるかを示している。温暖化について懐疑的な者たちは、このような不確実性を利用して、気候変動そのものに疑問を呈するかもしれない。しかし間違えないでほしい。ティッピング・エレメントの不確実性は、今後未来にどの程度影響を及ぼすかという点に焦点を当てているのだ。気候変動がこれらのシステムに影響を及ぼしていることについては、なんら疑問の余地はない。しかし同時に、将来の気候に関する私たちの予測は、私たちが望むよりも明らかに不確かなものである。最善の科学的努力と最新の研究は、通常、潜在的な答えの範囲、つまり重要な閾値が存在する可能性のあるリスクの範囲を導き出すに過ぎないものだ。
このような極めて曖昧な状況下において、メディアの見出しはしばしば、最悪のケースで最も大きな影響をもたらす可能性のある事例ばかり取り上げている。例えば、永久凍土の専門家たちは、全体的な炭素の放出は緩やかであることを強調しながらも、科学の見出しでは、融解した北極圏の土壌から放出される温室効果ガスを「炭素爆弾」などと称している。作家や記者も同様に、海底から湧き出るメタンの脅威を「爆弾」あるいは「銃」といった言葉を使って表現し、海洋メタンの突然の危険な放出などという、根拠の乏しくなりつつある仮説を提唱する研究を選び取って使用しているのである。
このような状況は、根本的には誰のせいでもないかもしれない。人間は脳の10%しか使っていないという俗説が広まっていることからもわかるように、科学分野のコミュニケーションにはしばしば困難がつきまとう。最近の例では、COVID-19の大流行が、研究者や専門家からのメッセージに対する一般市民の理解や受容に限界があることを如実に示している。さらに、地球科学者、メディア、そして一般市民の間で長年続いている伝言ゲームが、科学的理解の変化とともにそこに重なれば、誤解が生じるのも無理はない。
しかし、よくあることだからといって、誤解が正当化されてよいわけではない。気候変動に関する話題の中でティッピング・エレメントが頻繁に取り上げられることを考えると、このトピックに対する歪んだ認識が、より広範囲にわたる気候変動への取り組みにどのような影響を及ぼしてきたかを明らかにしておく必要がある。
地球科学者が最近よく経験するのは、友人や新しい知人が緊張した面持ちでジョークを飛ばしながら、「それで、私たちはいったいどれくらい危機的状況に陥っているのだろう?」と尋ねてくることである。あるいは親戚が、北方の永久凍土や海底のメタンから突然大量の炭素が放出されるという脅威に関する記事を転送してきて、こう尋ねるかもしれない。「これ見たことありますか?これは本当ですか? 」と。このような日常的なやりとりは、避けられない悲惨な結果に対する、より大きな、一般的な人々の持つ感覚を物語っているが、同時に、物事は見た目ほど悪いものではないという答えや安心感を求める、暗黙の必要性があることをも物語っている。
実際、取り返しのつかないほど悪いわけではない。気候変動がもたらす結果は、まだ人類の力で緩和できる範囲にあり、適応によって、温暖化する世界の影響を軽減することも不可能ではないのだ。研究文献によれば、中程度の気候緩和の道筋であっても、永久凍土融解の速度と範囲を劇的に減少させ、氷床の長期的な損失を抑えることができることがわかっている。今世紀末の温暖化を2~3℃に抑えれば、海底に凍結したメタンハイドレートによる重大な気候変動のフィードバックリスクを実質的に排除できる。また、脱炭素化に向けた新しい進展と最近の排出シナリオに関する分析によれば、最悪の気候シナリオの可能性はすでに大幅に減少している。
確かに、だからといって楽観視することはできない。主要な地球規模の海洋循環パターンである大西洋南北熱塩循環(AMOC)のようないくつかのシステムにおいては、低または中程度の長期的な温暖化が及ぼす影響は、依然として不明確である。また、熱帯の浅いサンゴ礁の生態系は、1.5℃の温暖化でも生物多様性に深刻な損失を被る可能性がある。さらに、アマゾンの熱帯雨林の一部は、さらなる温暖化と森林伐採によってすでに深刻な脅威にさらされている。
しかしながら、気候に関する議論の場では、常に今が「やるか、死ぬか」「やるか、やらないか」の瀬戸際であり、完璧な気候変動対策をとるか、消滅するかの2つの結果しかありえないとされてしまっている。マドリードで開催された2019年国連気候サミットの冒頭で、アントニオ・グテーレス国連事務総長は不吉な警告を発した。「それはもう地平線の彼方ではなく、私たちの目の前にあり、私たちに向かって突進しているのだ」。そして昨年7月、彼はこう宣言した「私たちには選択肢がある。集団行動か、集団自殺か」。このような表現は、虚無主義と敗北主義を煽るものだ。
環境活動家にとって、気候変動に関するティッピングポイントはアドボカシーに有効である。ジャーナリストやコーディネーター、そして小説家志望だった若かりし頃の自分のような者は、際限のない修飾語や仮説、不確定要素とは対照的な、大義を掲げたストーリーに憧れる。政治家は、演壇でのハリウッド的な演出が大好きだ。傲慢な人類が取り返しのつかない事態を招き天罰が下るという物語には強力な説得力があり、歴史の正しい側に立つという名誉にも魅力がある。十字軍にとって、人類の終末こそは、行動を起こすために最も刺激的な物語なのだ。
しかし、時代や大義がどうであれ、十字軍は常に社会全体のほんの一部を代表しているに過ぎない。普通の人は、活動家が要求する気候変動対策という非常に達成困難な山道を見て、多くの気候運動団体や科学者が必要だと言っているほどに急激に排出量を削減することなどは不可能だ、と合理的に考えるものである。人類の未来の運命を前にして、無力であると知った彼らは、不安を抱えつつ、日常生活を続けることに戻ってしまう。誤った徒労感は、気候変動への取り組みにとって間違いなく有害であり、気候変動のティッピングポイントに関するより正確な理解は、このような絶望感と闘う一助となるだろう。
問題は敗北主義だけではない。ティッピングポイントへの不安は、即座に実行可能な解決策や政策にすべての関心を集中させることになるため、本当に脱炭素化のために必要な持続的で長期的な取り組みを阻害することになりかねない。
例えば、2100年までに1.5℃の地球温暖化を回避するために、よく言われるように「あと7年しかない」のであれば、実施に数年以上かかるような政策や技術、解決策は定義上無意味である。これには、原子力発電の拡大や、低炭素航空燃料、空気中の炭素の直接回収、高度な地熱エネルギー発電のような分野での技術革新を促進する努力が含まれる。IPCCのある査読者は次のように憂慮している「1.5 ℃という炭素予算が尽きるまでの時間枠では、まったく新しい技術が効果を上げるような形で市場に浸透していくには、十分な時間がないかもしれない」。さらに、洋上風力発電や 実用規模の蓄電池のような、広く賞賛されている多くの気候変動対策でさえ、2030年代までとなると、成熟には至らない可能性がある。
実際には、もっとも積極的な脱炭素化への世界的な取り組みでさえ、数十年かかる可能性が高い。この時間スケールは野心的な脱炭素化シナリオとも一致している。もちろん2030年代または2040年代に実用化されるような解決策も、必ずや排出削減に貢献できるだろう。また、2050年に最後の難関である数百万トンのCO2排出を削減する対策は、いますぐ温室効果ガス排出を削減できる比較的容易な対策に劣るものではない。
IPCCの第1作業部会による第6次評価報告書では、最近の文献から「今後100年間の地球気温の予測において、急激な変化が起きることを示す証拠はない(no evidence of abrupt change in climate projections of global temperature for the next century)」と素直に述べ、そもそもそのような変動が起こりうるかどうかについては「確信度が低い」と述べている。さらに、「生物地球化学的サイクルにおける突然の変化やティッピングポイントの可能性は、21世紀の温室効果ガス濃度にさらなる不確実性をもたらすだろうが、それらは将来の人為的排出に関連する不確実性よりも小さい可能性が非常に高い(possible abrupt changes and tipping points in biogeochemical cycles lead to additional uncertainty in 21st century greenhouse gas concentrations, but these are very likely to be smaller than the uncertainty associated with future anthropogenic emissions.)」と付け加えている。
気候変動は、依然として重要な地球規模の課題であり、それが世界的な排出削減努力の動機となっている。しかし、差し迫った大きな崖の代わりに、私たちが直面しているのは、温暖化が進めば進むほど、将来の気候に与える影響が大きくなるという坂道、いや、目盛りを書いた板(スライディング・スケール)とでもたとえられるのではないだろうか。気候変動の影響の多くは、人類の寿命の尺度で見れば不可逆的なものである一方で、地球が最終的にどの程度温暖化するのかということについては、人類が主導権を握っており、今後もそうあり続けるだろう。
地球が急速に崖っぷちに差し掛かっているわけではないことを知れば、ある種の違和感は生じてくるはずだ。この先に世界が破滅するような差し迫ったティッピングポイントがないのなら、すべての人々が救われるべきポイントもないことになる。つまりお互いに保証できる全体的な破滅のポイントがないということは、誰もが集団的救済を追い求める動機がというものがなくなることを意味する。気候変動という銃口が、何よりもまず世界で最も貧しく弱い人々に向けられていることが次々と明らかになっている以上、気候変動対策は不平等との闘いを優先させなければならない。
もうひとつの違和感は、人類が気候、エネルギー、食糧、経済その他の政策について、科学的不確実性が根強く残る中で重要な決定を下さなければならないことだ。ブラジルは、アマゾンの熱帯雨林にとって重要な閾値がどこにあるのか正確にはわからない状況の中で、森林伐採を制限するための対策を実施する必要に迫られるだろう。ヨーロッパは、大西洋南北熱塩循環(AMOC)が海洋の温暖化や塩分濃度の変化にどの程度敏感なのか、完全な確証がない中で、クリーンエネルギー政策を実行しなければならないであろう。また、私たちが排出する温室効果ガスの量によって気候がどの程度温暖化するかという気候感度に関する未知の部分が残っているため、温室効果ガスの制限をしたからといって、どのような気候になるのか、その結果を正確に保証することはできない。
このような不確実性に伴うリスクを最小化するために、より厳しい気候変動に関する具体的な目標を設定する必要性を強めるものだと、多くの人が強く主張している。しかし、それは、ティッピング・エレメントによる将来の気候変動リスクが正確に分かっていて、正確な閾値で発生し、我々にとって良くない未来か文明終焉の未来かの極端な二者択一を迫る、というのとは全くわけが違う。
私が10年以上前に書いた小説の草稿では、「人類は、その歴史的な進歩や功績にもかかわらず、滅亡の運命にある」と主人公が確信を持って悟る、メランコリックな回顧の瞬間を想像していた。同じような意味で、忘れていたのだが、当時高く評価された気候変動に関する映画『Don’t Look Up』について思い出した。気候変動を彗星衝突に見立て、それによりほぼ瞬時に終末の時を迎える世界的な脅威を描いていた。巨大な彗星の襲来は避けられないものであり、その危機的な閾値はすでに超えてしまったのだと人類が理解する、詩的な懺悔の瞬間が描かれていた。
現在私が考えるところでは、気候変動との闘いは、そのようなはっきりした瞬間を得ること無しに、何世代にもわたる長期的な闘いになるだろう。それは、太陽光発電所や原子炉の建設だけでなく、ラゴスやベンガルールのアパートに手頃な価格の冷房システムを配備したり、エチオピアやアフガニスタンに干ばつに強い作物品種を普及させたりする努力も含むだろう。人類は絶えず地球の気候条件を決定し、修正していくだろう。そして人類は、その条件の中で、より自由で公正で持続可能な現在と未来を築くために絶えず努力し続けなければならないのである。
いまはやりの俗論の感覚としては、気候のティッピング・エレメントとは、気候の善し悪しを、迅速かつ明確に、かつグローバルに判断する指標である。ただしティッピング・エレメントをより正確に理解すれば、人間と環境の幸せは、不確実な未来に直面した私たち自身が決定することになる。そして人類は、季節が変わり、潮の満ち引きがある限り、人間の数だけ判決が下るなかで、常に原告であり、被告であり、裁判官であり続けることになるであろう。