東海道新幹線で東京から名古屋に向かう。私はこの車窓から見る風景が大好きだ。世界になだたるメーカーの大工場が次から次へと出てくる。その合間にも、中堅どころや、小さな町工場まで、絶えることなく工場が並んでいる。こんな風景は、世界でも滅多にない。日本が世界に誇る、メーカーの一大集積地である。
掛川でこだま号を下車して、浜岡原子力発電所に見学に行くのだが、途中、寄り道したいところがあった。まずは牧之原市史料館である。
ここには、江戸時代の政治家である田沼意次にまつわる資料の展示がある。田沼意次は、ここ相良藩の出身だった。
田沼意次といえば、これまでの学校教育では、「賄賂が好きな悪い人」だと教えられてきた。そして、田沼意次を失脚に追い込み、寛政の改革をおこなった松平定信が善玉として扱われてきた。
だがこの歴史観には疑問が投げかけられている。松平定信の改革は、当時、道徳的に正しいとされたことではあった。だが経済政策としてはどうだったのだろうか。質素倹約を奨励したというが、ただでさえ経済状態が悪いときに、官民挙げて質素倹約などすれば、ますます景気は悪くなったのではなかろうか。
もっとも、倹約令を出しても人々はあまり言うことを聞かなかったという。その何よりの証拠は、倹約令はたびたび出されていたという事実だ。もしそうなら、さほど問題ではなかったのかもしれない。
さて田沼意次こそは、当時の経済の本質を、よく見抜いていたのではないか。田沼は商工業の振興を図った。商人には、専売を認める代わりに、営業税を徴収した。新貨幣を発行し、米本位性から、貨幣経済への移行を進めた。銅、鉄などを幕府の専売制として収益源にした。海外との貿易も振興した。
江戸時代は、その半ば以降、さまざまな産業が発達して、明治時代の資本主義につながるさきがけのような状況になっていた。米に執着する昔ながらの考えは、時代遅れになっていた。
田沼意次は印旛沼や手賀沼の干拓や、北海道の開拓など、先見性のある大規模事業も実施した。地元の相良藩にも城下町が発達しおおいに賑わったという。
さて牧之原市資料館を出て、次は、相良油田跡を訪れた。
ここでは「臭い土がある」ことは昔から知られていたが、それは原油のしみ出したものだった。その価値が分かり、原油の採掘がはじまったのは、明治5年だった。
明治17年には最盛期を迎え、240本もの縦て穴が掘られ、600人が従事した。最大で深さ200メートルもの井戸が掘られた。その底まで、縄を付けた樽を落として、それで原油を汲み上げた。底深い地下を照らすためには、井戸の上に鏡を取り付け、それで太陽光を反射した。穴の底は酸欠になるから、足踏み式の大きなふいごで地上から空気を送り込んだ。油田での労働は危険で、累計、20人以上が亡くなったという。
これだけのことをしても、年間の採掘量は、最大で720キロリットルにすぎなかった。これはドラム缶にすれば3600本分となる。いま日本では10万キロリットルもある巨大な石油タンクをあちこちに見ることができるから、比較すれば、微々たる生産量だった。だがそれでも、当時は日本の原油生産量の10分の1を占めた、貴重なものだったという。
ここの原油は軽質で、成分的にも灯油やガソリンに近い。威勢よく説明してくれる公園の管理者の女性が、目の前でひと掬いをボトルから取り出して、マッチを落として燃やしてくれた。それこそ灯油のように、すぐに火がついて、赤い炎を出して勢いよく燃えた。アスファルトのような黒くてねっとりした中東産の重質油とは全く違う。使い勝手のよい、良質な原油だ。
田沼意次と親交のあった、万能の天才である平賀源内は、この相良油田を知らなかったのだろうか。もし知っていたらどうしたのだろう。もっとも、せっかく蘭学を修め電気技術を学んだ平賀源内がやったことといえば、エレキテルと名付けて見世物小屋で儲けただけだったから、折角の石油もロクな活用はしなかったかもしれない。
お昼休みはおいしいウナギを頂き、浜岡原子力発電所に到着する。浜岡原子力館で中部電力の方から説明を受けた。
原子力発電では、ウランを成型した原子燃料を反応させて熱を取り出す。これをさっきの油田と比較してみた。
原子燃料のペレットは、1立方センチメートル程度の大きさだ。これが約1,400個で、相良油田の生産量720キロリットルとほぼ同じだけの発電量になるという。ペレットの比重は水の8倍だから、ややずっしりとではあるが、ちょうど両手ですくった程度のペレットの量が、600人がかりで大変な思いをして生産した石油の量と同じだけの発熱量、ということになる。
相良油田が生産を開始した当時は、まだ核分裂反応自体が発見されておらず、人々は原子力発電の存在など、勿論、知らなかった。僅かひと掬いの原子燃料で、これだけの発熱量が得られると知ったら、さぞ驚愕したことだろう。
さて浜岡原子力発電所は、まだ再稼働していない。東日本大震災の後、自主的な安全対策は一通り実施したのだけれども、まだ、原子力安全規制委員会の審査中である。
浜岡原子力発電所では、自主的な津波対策として、海抜22メートルもの防波堤がすでに建設されている。しかし、震災後、規制委員会において検討が進められ、新たな規制基準が定められ、その基準に照らして審査が進められた結果、今後、さらに28メートルに嵩上げするという。
文献調査でわかっている実際にあった津波といえば、安政の大地震の時などで高さは最大6~8メートル程度であり、これは発電所の前にある砂の堤防10~15メートル程度よりも低かった。
仮に津波が東日本大震災後の工事で設置された防波壁を乗り越えて原子力発電所の敷地内に入り込んでも、震災後の追加工事により原子炉のある建屋は水密構造になっていて、重要な設備のある建屋の中に水が侵入しないようになっているという。
仮に建屋内に水が浸入したり、あるいは地震などによって、一部の設備が破損しても、予備の電源や冷却システムが幾重にも設置されている。このため、福島第一原子力発電所で起きた様な過酷事故に至るリスクは限りなく低いように見える。
だがいまの日本の規制委員会は、経済性を勘案せず、安全性のみを審査することになっている。このため、ゼロリスクを追い求める傾向がある。例えば、巨大な津波がきても、敷地内に水は一滴たりとも入ってはいけない、ということになっている。だがこれは適切なのだろうか。過酷事故にいたるリスクさえ十分に低ければ、再稼働をして、電力を供給し、経済に貢献した方がよいのではないか。
日本の産業は空洞化が止まらない。過去10年ほど、日本のCO2排出量は減ってきたが、その理由はまさに産業空洞化だった。工場が無くなった。あるいは、工場自体はあっても、稼働率が下がったり、エネルギー消費の大きい工程が廃止されたりしてきた。
浜岡原子力発電所を再稼働すれば、この地域に並ぶ偉大な工場に、安価で豊富な電気を供給できる。電力を多く消費するデータセンターや半導体工場なども、まだまだ建設できるだろう。
経済に明るかった田沼意次や、万能の天才だった平賀源内が、浜岡原子力発電所が再稼働していない現状を見て、その理由を聞いたならば、何と言うだろうか。
掛川の町には、そうした工場で働く若い人々がたくさんいた。この地方では、工業高校や高専を卒業して働く優秀な人々が沢山いて、産業を支えている。日中はいかにも真面目そうな雰囲気が感じられるが、夕方になると、あちこちにある居酒屋で、楽しそうに飲みはじめていた。