高校の授業料無償化をめぐる与野党間協議の模様が連日のように報じられている。
先進国の中で公立高校の授業料を徴収している国は例外的で、米国、英国、ドイツ、フランス、カナダなど多くの国で無償である。
この事実を考慮すれば、日本が早期に公立高校の授業料を無償化すべきことは論を俟たない。
しかし、この問題よりもっと深刻な問題がある。それは教育の質の低下である。
日本の初等中等教育レベルは先進国の中でも高いと評価されている。確かに学力レベルで比較すればそれは事実であると思う。
しかし、それだけで満足していいのかと大いに疑問を抱かせる出来事が頻発している。
闇バイト、子供に対する虐待、不登校・ひきこもりの増加、企業経営者らの不正隠蔽問題などが頻繁に報じられている。
これらの問題の背景には日本人全体の基本的なモラルの低下があると考えられる。
そうした社会問題に加えて、日本企業の国際競争力の低下、世界経済における日本経済の地盤沈下、海外に出てチャレンジする若者の減少、政府の政策運営方針に対して率直に意見を述べる経済界リーダーの減少といった課題もある。
これらの課題は積極的な意欲の低下やリーダーシップ意識の不足と関わっており、人格形成教育の軽視が引き起こしている問題である。
企業や公的組織の経営において、ガバナンスやコンプライアンスの仕組みが強化され、制度的なモラルの管理は明らかに強化されている。
しかし、上記のようなモラルや意欲の低下とリーダーシップ教育の後退がもたらす弊害は拡大する一方である。
ルールを強化し、法治を重視しても、人格形成を促進することはできない。人格形成はモラル、意欲、リーダーシップ等すべてに関わる根本である。
この根本を改善しなければ、上記の様々な課題の抜本的解決は不可能である。
日本社会が直面している様々な社会問題と経済問題に対して根本的な解決策を提示するため、人格形成教育を重視する新たな学校教育の仕組みを国民レベルで議論すべきである。
モラル、意欲、リーダーシップ等の土台となる人格形成上の根本的な要素は何だろうか。
日本の伝統的な考え方では、いずれの問題も共通の根本理念につながっていると理解されていた。
それは「徳」という概念である。
「徳」という言葉は戦前の教育理念を示した「教育勅語」の中心概念だった。
戦前の軍国主義教育において教育勅語が利用されたため、戦後は「徳」という言葉を用いることが国民の間で忌避されてきた。
しかし、モラル、意欲、リーダーシップの低下の問題を考える時、「徳」の重要性を再評価することを避けて通ることはできない。
これこそが江戸時代に培われた日本人の美徳の土台であるためである。
今もわれわれ日本人が国際社会における日本人の行動規範の誇りとして大切にしている「おもいやり」、「おもてなし」、礼を重んじる姿勢などはすべて江戸時代以降日本国内で徹底された道徳教育の成果である。
「徳」の大切さを否定すれば、日本人の誇りを否定することになる。
「徳」という言葉に抵抗があれば、モラルと言い換えてもいい。ただし、日本の伝統思想における「徳」の概念は、西洋近代思想におけるモラルの概念に比べて、より深い精神性を含んでいる。
それは自分自身の心の誠実さを厳しく問い詰める内省を伴う点である。
自分自身の一つひとつの言動について、それが真心からの「徳」に基づいていることを誠心誠意内省しているか、それとも表面的なモラルを繕っているだけかは外から見ることができない。
自分だけが知っている。
この点を自分自身の心に厳しく問い詰めることを日本人は重視した。「至誠」という理念はそれを強調したものである。
厳しい内省を前提とする「徳」と表面的なルールを遵守することに力点が置かれがちなモラルの違いの本質は内省の深さ、誠実さである。
たとえルールを守っていても、その一つひとつの行為に丁寧な真心がこもっていなければ「徳」とは言えない。
この自分の至誠を問う努力の継続が「徳」の根本である。
江戸時代の日本の教育では、この「徳」を身に付ける人格形成教育を最も重視した。
ガバナンスやコンプライアンスは組織の中で共に働く人々同士が安心して楽しく働ける環境を作るためのルールである。
しかし、ルール遵守の管理だけが厳格で、組織の人々の間に相手の気持ちを尊重する思いやりや、共に一つの目標を達成しようとする協力意識がなければ、働いている人々は安心できないし、楽しくもない。
一人ひとりが内省に努め、互いに理解し尊重し合い、みんなで力を合わせて目標達成に向けて努力する時、人々は幸せを感じ、安心し、楽しい時間を過ごすことができる。
それを根本から支えるのが「徳」を重視する人格形成教育である。
教育現場において「徳」を身に付け、モラル、意欲、リーダーシップを高めるには何が大切だろうか。
それは一人ひとりがもつ個性を見出し、それを伸び伸びと育んで、思う存分各自の能力を発揮させる機会を与えることである。
大谷翔平、藤井聡太、小澤征爾などその道を究めた人々は、子供の頃から周囲の人々によってその才能が大切に育まれ、素晴らしい才能を開花させた。
そうした人々に共通しているのは、常に人々に感謝し、みんなのために自分ができることを考えていることである。
これは「徳」の実践そのものである。
日本を代表する東洋思想研究家である田口佳史先生によれば、「徳」とは「他者のために自己の最善を尽くし切ること」である。
「他者のためにできること」を常に心がけて真心を込めて実践している人がいれば、その人に直接助けられた人々、チャレンジする勇気、激励、重要なヒントなどをもらった人々はその人に深く感謝する。
そして、いつか恩返しができたらいいと考える。
自分の周囲にそんな感謝の気持を抱いている人たちがたくさんいる人生になれば、楽しく愉快な人生にならないはずがない。
これが「徳」の本質である。
代表的な中国古典「大学」の最初は次の一文から始まる。「大学の道は、明徳を明らかにするにあり」。
「徳」を身につけることが学問の究極の目的であるということである。
それに続いて、「徳」が身に付けば、人生の軸となる志が定まり、心が落ち着き、心にゆとりができ、正しい判断を下せるようになり、最終的に自分が目指す目標を達成できるようになる、という教えが示されている。
これは、前述のその道を究めた人たちに共通する人生の道筋である。
この幸せで充実した人生の道を歩むには自分自身が得意なことに気づくことが大切である。
自分が得意な分野の能力を伸ばせば、周囲の人達が応援してくれる。応援された人は応援してくれる周囲の人々に感謝する。
その感謝の気持ちが本人のさらなる努力のエネルギー源になる。
こうして「徳」を身に付けた人が、周囲に感謝し、周囲の人々から感謝される人生を送れば、モラル、意欲、リーダーシップが高まる。
そんな人物が闇バイト、幼児虐待、不正隠蔽に走るだろうか。答えは明らかである。
すなわち、初等中等教育において、子供たち一人ひとりの個性を伸ばし、その能力を思う存分発揮させ、個性を大切に育んでいく本来の教育を徹底すれば、「徳」が身に付き、モラル、意欲、リーダーシップは必然的に高まる。これが人格形成教育である。
子供たちの才能は一人ひとり異なる。算数が得意な子もいれば、英語が大好きな子もいる。
スポーツ、芸術、アニメ、料理、動画作成など、才能が開花する分野は様々である。
こうした一人ひとりの個性を注意深く見極めて、得意分野の才能を温かく育んで、学ぶ意欲を高めていくのが本来の教育である。
江戸時代の藩校、私塾、寺子屋等の教育の場では、みんなで一緒に学びながら、子供たち一人ひとりの能力に応じて学ぶレベルを自由に選ばせていた。
そうした仕組みの方が子供たちの個性を伸ばしやすいのは明らかである。
最近は大学入試も一般入試とは別枠で、総合型選抜(大学が求める学生像の基準で評価)、特別選抜(スポーツ、芸術、海外経験等での秀でた実績を評価)といった柔軟な入試が設けられ、個性を生かした大学進学ができるようになりつつある。
それでも社会全体のモラル、意欲、リーダーシップの低下に歯止めがかかっていない状況を見ると、その成果は不十分であると言わざるを得ない。
この壁を突破するには、小中学校において一段と個性を重視した柔軟な教育制度を導入することが必要である。
そのためには、子供たちの能力に応じて、科目別に自由に学習内容を選べる仕組みを導入することが大切である。
また、学校の教科以外の分野についても個々の能力を伸ばす指導者の指導を受けられる機会を提供する仕組みも必要である。
そうした目標を達成するには、小中学校の教員を少なくとも倍増させるとともに、地域社会で子供たちの様々な才能を伸ばす指導者による教育の場を増やしていく努力が必要である。
不登校や学級崩壊への対策として補助教員の大幅拡充も重要である。
そうした新たな仕組みの導入には新たな予算が必要になる。
日本の教育に対する公的補助の割合は国際的に見て極めて低い。2020年時点で、日本の公財政教育支出の対GDP比は3.0%とOECD諸国の平均4.3%を大幅に下回っていた。
高校授業料を無償化するだけでは不十分なことは明白である。
教育軽視の現状を早急に見直し、モラル、意欲、リーダーシップを高める教育を立て直し、日本と世界の未来を支える、個性豊かな若者を続々と輩出する国に向かって即座に始動すべきである。
そのためには、政府の審議会とは独立に、民間の有識者が立ち上がり、日本の教育のあり方について自由な意見を述べ合い、政府や国会に向けてこれからの教育のあり方を自発的に提案する努力も重要である。