先般の米大統領選の結果、ウクライナ支援に消極的とされるドナルド・トランプ氏が、アメリカの次期大統領に再び就任することが確定した。ロシアからの侵攻を受けるウクライナ情勢をめぐっては、トランプ氏はこれまでも「大統領就任前に解決する」、「24時間で戦争を終わらせる」などと述べてきた経緯がある。「ディール(取引)」を好む同氏が、戦況で守勢に立つウクライナに不利な形で交渉をまとめようとするのではないかとの懸念が、ウクライナをはじめ、欧州や米バイデン政権下で強まっている。
11月6日付のウォール・ストリート・ジャーナルによれば、トランプ次期大統領のもとには、側近らから停戦に向けた複数の提案が示されているが、そのいずれもが、ウクライナにおけるロシアの占領地域について、現状を維持した形で戦争を凍結させる内容だという。ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)への加盟に向けた動きも当面停止させるという。ウクライナからすれば降伏にも等しく、現時点ではとても受け入れられるものではないはずだが、トランプ氏の側近の一部は、ウクライナへの武器支援の停止をテコに、こうしたディールも可能と捉えているようだ。
だが、仮にロシアによる占領地が現状のまま凍結されることとなれば、プーチン政権がこれらの地域の「ロシア化」を推し進め、実効支配の既成事実化を図ることは確実だ。2014年3月以降ロシアの実効支配下に置かれたクリミア半島はもちろん、2022年9月にプーチン大統領が一方的に「併合」を宣言したウクライナの東部ドネツク州、ルハンシク州、および南部ザポリージャ州、ヘルソン州に対して、ロシアは既に「ロシア化」に向けたさまざまな取り組みを開始している。
英BBCなどの当時の報道から、プーチン政権は、2022年2月に開始したウクライナ全面侵攻直後より、占領したウクライナの各地域でロシア軍の指揮下に軍民行政府を設置し、占領地の「ロシア化」を押し進めてきたことが伺える。ロシア国旗の掲揚、通貨のルーブルへの切り替え、ウクライナ・メディアの閉鎖とロシア国営テレビ放送への切り替えなどの政策が進められてきた。
その後、前述のとおり、同年9月末にプーチン大統領がウクライナ東部・南部4州の一方的な「併合」を宣言し、自国の憲法に明記して以降は、同4州のロシアへの統合プロセスが本格的に開始された。「併合」時に採択されたロシアの法律によれば、統治機構や司法、財政、金融など制度面でのこれら4州のロシアへの統合プロセスを、2026年1月1日までに完了させると規定している。実際に、4州の諸制度をロシアの法律に適合させるため、これまで数十にのぼる法律が採択され、「選挙」と称する手続きを経て、各地域に議会も発足させた。
その一方で、プーチン政権は、2022年10月にはこれら4州の占領地に戒厳令を導入。これにより、ウクライナの企業や個人の財産の接収、占領に反対する地元の政治家や住民らの拉致・拷問、デモや抵抗運動の徹底的な弾圧など、「力による統治」が強化された。地元住民らへのフィルタリングと呼ばれる思想検閲は、今もなお日常的に行われているようだ。そうしたなか、今年6月にはザポリージャ州の占領地で、反ロシアを掲げた弱冠16歳の地元の少年2人が、占領当局によって射殺されるという痛ましい事件も起こっている。
占領地の実態に関し、取材を試みるウクライナのジャーナリストらへの取り締まりも、日々強化されている。キーウにあるマス・インフォメーション研究所は、2022年の本格的な侵攻が始まって以降、ウクライナの報道関係者82人が死亡し、34人が負傷したと推定。行方不明者の数も14人に上るという。先月には、取材のため占領地に赴き拘束されたウクライナの27歳の女性ジャーナリストが、1年以上ロシアの刑務所に入れられ、そこで死亡していたことも判明した。
ロシア政府は、ウクライナの東部・南部4州の占領地に、150か所以上の臨時交付センターを設置し、地元住民らにロシア人としてのパスポート(国籍)の発給も推し進めている。ロシア内務省によると、「併合」から2年となる2024年9月30日までに、同4州で340万人以上の住民にロシアのパスポートが交付されたという。その背景には、地元住民らが、ロシアのパスポートなしには、年金の受け取りから不動産の登記、医療サービス、就業さえもが不可能な状態に置かれている現状があり、ウクライナ政府は強く反発している。
ウクライナ人の「ロシア化」は、パスポートの問題だけではない。占領地の住民らのウクライナ人としてのアイデンティティを薄め、「ロシア化」させる試みも同時に進められている。2023年2月に発効した法律により、ウクライナの東部・南部4州の占領地における教育・学術団体の活動は、ロシアの法律に則して行われることが定められ、教育プログラムもロシア方式へと変更された。
特に歴史教育において、占領地にロシアの国定教科書が導入されたことは、今後子供たちのアイデンティティの形成に重大な影響を及ぼす可能性がある。この教科書は昨年からロシア全土で導入が義務化されたものだが、その内容は、ロシアのウクライナ侵略を正当化し、ウクライナと戦うロシアの兵士たちを英雄として賛美するものだ。ウクライナは「ウルトラ国家主義」の過激派が支配し、「西側諸国に操られ」ており、その西側諸国の最終的な目的は、「ロシアを破壊してその天然資源を支配」することにあるとする。ウクライナという国そのものについてさえ、ロシアへのあてつけとして西側諸国が作り出したかのような記述が見られる。
占領地からのウクライナの子供の連れ去りも、深刻な問題となってきた。ウェブサイト“Children of War”によると、ロシアに連れ去られたウクライナの子供の数は、現在確認できるだけでおよそ2万人に上る。こうした子供たちには、ロシアで養子縁組が組まれたり、ロシアの思想キャンプで「再教育」プログラムが施されていることが、各国メディアの取材で明らかとなっている。国際刑事裁判所は2023年3月、こうした子供たちの連れ去りに関し、プーチン大統領とその側近に対する逮捕状を発付した。
このほか、ロシアの「ユナルミヤ(青少年の軍隊)」や類似の愛国団体が、占領地での活動を開始し、現地の子供たちの「再教育」を進めようとしている。「ユナルミヤ」は、8歳から18歳までの少年少女を対象に、キャンプやイベントを通じて、ロシアへの愛国心や国家奉仕、武器の扱いなどについて教育を行うもので、ロシア全国に広く展開する組織である。卒業後の軍への入隊を奨励するなど、ナチスの「ヒトラー・ユーゲント」との類似点が度々指摘されている。
ウクライナ東部・南部4州のロシアによる占領地では、ウクライナ語やウクライナ文化も危機に直面している。ウクライナ軍の関連組織である国民抵抗センターによると、学校教育の現場で、ウクライナ語の国語としての地位は剥奪され、ロシア語の一方言としての扱いに格下げされた。これらの地域では、主にロシアから派遣された教師たちが、ロシア語による授業を行っている模様だ。一部の学校ではウクライナ語の教科書も残されたようだが、占領当局はウクライナの書籍を「過激派文学」と位置づけ廃棄を指示、学校や町の図書館にはロシア語の書籍が送り込まれているという。
情報統制も進む。占領地の地元メディアは廃止され、ウクライナのテレビ放送等へのアクセスもブロック、代わって住民らには、「ロシア世界」放送を無料で導入させている。「ロシア世界」放送は、プーチン大統領が創設した「ロシア人民戦線」の支援を受け、占領地に特化する形で、ロシアのプロパガンダ番組等を放映する衛星テレビ・システムである。占領地の住民らは、半ば隔離された情報空間に置かれているのである。
一方で、ロシアはこれら占領地の復興・開発計画にも取り組んでいる。これらの地域は、戦争で産業基盤や社会基盤が破壊され、生活面でも極めて困難な状況に置かれているが、プーチン大統領は、「2030年までに、これらの地域の生活水準をロシアの全国平均まで引き上げ」るよう政府に指示。これを受け、2023年4月には占領地の開発・復興計画が策定され、マラット・フスヌリン副首相の指揮・監督のもと、ウクライナ東部・南部4州の占領地域におけるインフラ、集合住宅、社会文化施設、行政施設、鉄道など、数多くの建設・修復事業が開始された。
ロシアの報道やソーシャルメディア等に投稿される映像を見ると、実際にアパートや住居、学校、病院といった施設の再建・修復が、一部地域においては急ピッチで進められていることが伺える。特にマリウポリなど、ロシアが戦略的要衝と見做す街に対しては、多額の資金を投入し、復興を急がせている模様だ。その他、クリミアとロシア本土とをつなぐ兵站および民間物資の輸送路として重視される鉄道や、幹線道路の整備にも多額の資金が投入され、着々と工事が進んでいる。
こうしたロシアが進める占領地の復興・開発事業についても、ウクライナ政府は強い懸念を抱いている。復興という名のもと、ロシアの戦争犯罪が次々と消し去られてしまっているからだ。前述のマリウポリでは、侵攻直後、女性や子供たちの避難場所だったドラマ劇場が空爆を受けて大破し、数百人から千人もの犠牲者が出ている。劇場のほかにも、マリウポリの全域がロシア軍の激しい砲撃の的となり市街は壊滅した。民間の犠牲者の数だけで数万人にも及んだとされる。現在、ロシアはマリウポリのこのドラマ劇場の再建をほぼ完了させ、破壊し尽された市街にも新しいアパート群が立ち並びつつあり、悲惨な戦争の痕跡が消し去られようとしている。
以上見てきたように、プーチン政権はウクライナ東部・南部の占領4州の「ロシア化」を着々と進めている。ウクライナとしては、こうしたロシアによる「ロシア化」の試みを阻止すべく、占領地における情報を協力者たちから収集し、様々な試みを行っている。ロシア側の見積もりでは、占領地の5~7千人が、地下組織でウクライナのために何らかの活動を行っているという。また、一部の学校では、占領地の子供たちにウクライナの教員らがオンラインで授業を行うなど、子供たちの「ロシア化」を防ぐ努力も継続している。
だが仮に、トランプ次期大統領のもとで、ロシアがウクライナ東部・南部の占領地域をそのまま維持する形で戦争終結、あるいは凍結という事態になれば、こうした「ロシア化」の試みがますます強化されることは確実だ。これでは、ロシアによる実効支配を既成事実化させることに等しい。
これまで、ロシアを利する形での戦争の終結は、武力による現状変更を事実上容認することを意味するとして、多くの識者が警鐘を鳴らしてきた。第二次大戦後に世界が築き上げてきた法の支配に基づく国際秩序が、根本から瓦解することを意味するからだ。世界は今、その瀬戸際にあると言ってよい。さらに今、トランプ氏再登板によりその先に見えてきたのは、ウクライナの国境のように、国際的に認められてきたあらゆる国境・境界線さえもが、今後は大国間のディールの対象となり得るという新たな世界である。台湾や朝鮮半島はもちろんのこと、日本も他人事では済まない。ウクライナの事態は、そうした危うさをも孕んでいる。