メディア掲載  グローバルエコノミー  2024.01.16

物価の現状と展望(上)「2%」定着へ所得補填強化を

日本経済新聞【経済教室】(2024111日)に掲載

経済政策

インフレが3年目に入った。インフレ下での2回目の春季労使交渉が間もなく本格化し、賃金と物価の好循環も2周目を迎える。本稿では好循環の現状を整理し、先行きを展望する。

「日本では皆インフレは続くと言うが、何を根拠にそう信じているのか」。先日、米ヘッジファンドのチーフエコノミストを務める経済学者が、日本人の勘違いを正してやるといった勢いで疑問をぶつけてきた。

日本のインフレは輸入価格の上昇を起点としたものだが、輸入価格の上昇自体は既に一服している。だから国内価格の上昇も止まるはずだ。にもかかわらず持続的なインフレが起きるとすればそのメカニズムを知りたい。これが彼の趣旨だ。

その疑問は極めてまっとうだし、筆者自身も繰り返し考えてきたことだ。だが不思議なことに、少なくとも国内ではその点が注目されることはほとんどない。

図はそのとき彼に見せたものだ。消費者物価指数(CPI)コア(生鮮食品を除く総合)のインフレ率の実績値と、20231月時点の民間エコノミストのCPI見通しだ。その時点では、CPI237月には2%を割り込む見通しだった。多くのエコノミストも、輸入価格上昇だけでは持続的なインフレは起きないと予測していた。だが実際はそうはならず、2%を超えたまま新年を迎えた。

CPIが予測通りに落ちなかったのはなぜか。輸入物価の先行きを見誤った可能性は否定できないが、それは限定的だろう。輸入価格以外の要因、つまり国内でインフレを生み出す要因がプラスに働いて、それが持続的なインフレをもたらしたとみるべきだ。

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ではその国内要因とは何か。筆者の答えは極めてシンプルで「日本人のインフレ予想が上昇したから」だ。このひと言で彼の疑問は氷解したようだった。

インフレの持続性を決めるのは人々のインフレ予想だと、筆者も彼も、そして世界中のほぼすべてのマクロ経済学者が考えている。米欧の今回のインフレが1970年代の激しいインフレの二の舞いにならずに済んだのは、米欧の人々のインフレ予想が終始落ち着いていたからだ。それと同様、日本のインフレに持続性があるのは日本人のインフレ予想が上昇したからだ。

筆者の研究室では日本を含む5カ国の消費者を対象にアンケート調査を毎年実施している。これまで日本の消費者の間では物価は変わらない、据え置きという予想が大勢を占めていた。ところが225月実施の調査で初めて物価は上がると回答する人が増え、米欧と大差ない状況になった。その後、233月の調査でもその傾向が再確認された。つまり22年春を境に、物価は上がるものだという感覚を日本の多くの消費者がもつようになり、それが定着しつつあるということだ。

注目すべきは、インフレ予想が上がったタイミングだ。225月時点では日本のインフレは始まったばかりで、インフレ率は2%程度だった。その後上昇し年末には4%に達するが、当時はまだそこまで深刻ではなかった。日本の消費者は、物価が実際に上昇したのを織り込む形でインフレ予想を高めたわけではなく、実際の物価上昇に先行してインフレ予想を高めたのだ。

今回のインフレの原動力はインフレ予想の上昇という理解に立つとき、好循環の2周目に向けての課題が見えてくる。最も大事なのはこのインフレ予想を定着(アンカー)させることだ。

日銀は10年前にインフレ目標政策を採用しており、インフレ予想を定着させるための道具立てはそろっている。この政策の歴史は浅く、どこまで実効性があるかは不確かだった。だが今回初めて米欧で実戦投入され、インフレ予想を安定させるという成果を挙げた。日本は米欧と状況が異なるが、インフレ予想をアンカーするという政策の真価が試される点では同じだ。

ただし好循環の2周目を乗り切るには金融政策だけでは力不足だ。「実質」の賃金が下がり続けているからだ。「名目」の賃金であれば金融政策で対処のしようもあるが、「実質」賃金となると対処は不可能だ。

実質賃金はなぜ下がっているのか。今回のインフレは物価の上昇が先行し、賃金が追いかけるという構図だ。しかし筆者は、実質賃金は物価と名目賃金の間の一時的なラグで下がっているのではなく、構造的な要因があると考えている。

日本の交易条件(輸出物価を輸入物価で割った値)は、輸入価格の上昇に伴い、21年以降悪化してきた。交易条件の悪化とは日本人の所得が海外に流出することを意味し、21年以降の総額は20兆~30兆円の規模になる。所得を海外に奪われた候補の第一は労働者だ。実質賃金の低下はこれが表面化したものだ。もう一つの候補は中小企業だ。特にプライシングパワーが弱く、輸入コスト増を価格転嫁できない中小・零細企業で収益悪化が目立つ。これも海外への所得流出の表れだ。

労働者と中小企業の所得が海外に流出したとすればその補填を急がねばならない。放置すれば家計や中小企業の支出が落ち込み、好循環2周目の障害になる。

筆者の解釈では、今回の経済対策は、労働者と中小企業に所得の海外流出分を補填する施策であり、適切だ。今回の対策は分配面の対策であり、従来型の需要刺激策とは一線を画する。

交易条件の悪化は足元では止まっており、所得補填の必要額は増え続けてはいない。だがこれまでの所得流出はかなりの規模に達しており、今回の対策でカバーし切れていない可能性が残る。また補填は本来、所得流出の大きさに応じてなされるべきだが、今回の措置は必ずしもそうなっていない。特に価格転嫁のできていない中小・零細企業への補填は強化すべきだ。

今回の経済対策を巡っては、財政負担の観点から疑問視する向きもある。財政規律の再建が急務であることに異論はない。

しかし好循環の実現は、財政面でも望ましい効果をもつと筆者は考える。日本経済は、これまでのようなゼロ%のインフレでいくのか、それとも2%程度の緩やかなインフレでいくのかの分かれ道に立っている。

筆者の試算では、仮に2%インフレが続けば、ゼロ%の場合と比べて政府は166兆円の得をする(試算の詳細は231221日付の経済財政諮問会議資料を参照)。理由は単純だ。インフレで得をするのはいつの世でも債務者であり、日本で最大の債務者は政府だからだ。2%インフレへの移行で政府が多くの利得を得るのは驚くことではない。

言うまでもなく、2%インフレを目指すのは財政の利得目当てではない。しかし2%インフレでは166兆円の得があるのだから、純粋に財政の視点で考えても、2%インフレに分がある。また所得補填などの形で財政資金を投入することにより2%インフレ定着の確率が高まるのであれば、その支出をためらう理由はどこにもない。2%インフレの定着に向けて積極的な施策を政府に期待したい。