1.遺伝子のスイッチをONにするとは
先日、長野市で行われたサッカー元日本代表監督岡田武史氏の講演会に参加した。
それは「地域で支え助け合える社会を目指して」というテーマで、岡田氏が今治市において生きる意欲のあふれる子供たちを育てる教育に取り組むチャレンジの模様を紹介するものだった。
その素晴らしい内容に深い感銘を受けた。
これは長野市において家庭環境などの影響で高校を卒業しても自立できずに悩む若者や不登校の小中高生の支援に取り組む「学び舎めぶき」(代表:永井佐千子氏)が主催した講演会だった。
岡田氏も永井氏もともに地域の人々が互いに支え合う共助の力で若者の人間としての成長、人格形成を支援することを目指して、教育支援事業に取り組んでいる。
たまたま岡田氏とお話する機会を得た際に、筆者が岡田氏に永井氏の活動を紹介したところ、永井氏の理念に共感した岡田氏が「学び舎めぶき」の活動を支援してくださるようになった。
今回は、岡田氏が松本市でご自身が会長を務める今治FCの試合が行われた翌日に長野市まで足を運び、講演していただけるというので私も参加した。
その講演の中で岡田氏はご自身が共感した「遺伝子のスイッチをONにする」という故・村上和雄筑波大学名誉教授(遺伝子研究が専門、2021年4月逝去)の考え方を紹介した。
これは村上名誉教授の著書「コロナの暗号」の中で次のように説明されている。
遺伝子にはスイッチがあり、環境や状況に応じてONとOFFを繰り返している。
(中略)そのスイッチのONやOFFは、私たちの心の持ちようや生活態度によっても変わり得る。
(中略)理想的な自分であるための秘訣は、できるだけ生き生きとした前向きな心の状態、「プラス思考」で生きることです。
(中略)病気をした場合はどうでしょう。
(中略)病気をした経験によって自分にとって本当に大事な人は誰なのかに気づいたり、仕事から離れることで、これまで考えもしなかったアイデアが浮かんできたりするなど、プラスの面も十分にあるのです。
こう考えれば、自分の身に起きることは「すべてプラス」という捉え方をすることができ、よい遺伝子のスイッチをONにすることができるのです。
村上名誉教授は遺伝子がONになる事例として、以下の出来事を紹介している。
一つは、末期の子宮がんに侵され、主治医からも見放された48歳の主婦がいま生きていることに毎日感謝し続けていると、奇跡のようにがんが跡形もなく消えたという実話だ。
もう一つは、フリーダイバーのジャック・マイヨール氏は素潜りで105メートルの深さまで潜る際に心拍数を1分間20程度まで低下させ、5分間も息を止めることができた。通常の人間では生存不可能な状態である。
それは、同氏が若い頃メスのイルカに恋をして一緒に泳いでいるうちにその能力を身に付けたという話である。
おそらく米国のメジャーリーグで前人未到の二刀流で大活躍している大谷翔平氏や史上最年少で将棋八冠を達成した藤井聡太氏も遺伝子がONになっているのであろうと思われる。
政府の補助金に頼らず、周囲の人たちの自発的な協力を原動力として、地域で支え助け合える社会を目指して超人的な努力を重ねている前述の岡田氏や永井氏も遺伝子がONになっているはずだ。
2.遺伝子をONにする原動力は利他主義
遺伝子がONになる人の共通点は利他主義である。
がんの末期症状の時に長生きしたいと祈っても、がんになった不運を恨んでも遺伝子はONにならないのではないだろうか。
いま生きていることに感謝し続けたことが遺伝子をONにしたと考えられる。
大谷翔平氏や藤井聡太氏も相手との勝負に勝つこと、より上位の成績を達成することを目指しているだけであれば遺伝子はONにならないはずである。
野球や将棋が大好きで楽しくて仕方がないと思いながら目の前の課題を克服するために自己の最善を尽くしきっているからこそ遺伝子がONになり、相手が誰でもいい成績を残すことができているように見える。
前出の岡田氏、永井氏の2人も自分の目の前にいる子どもたちの自立を助けることにより、彼ら、彼女らが生きる意欲を高め、命を輝かせ、立派な人格を形成していく姿を見ることが楽しくて仕方がないという想いが共通しているように感じられる。
その想いが遺伝子をONにさせているはずだ。
村上名誉教授は「プラス思考」で生きることが遺伝子をONにする、病気の時でもプラスの面があると説く。
「プラス思考」とは自分が幸せである、愉快であると感じる意識によって支えられている。
心の底から幸せや愉快を感じるのは財産、地位、名誉を得た時ではなく、周囲の人たちから感謝される時である。あるいは困っている時に助けてもらう時である。
私が長年師事する東洋思想研究家の田口佳史先生は次の点を繰り返し強調する。
人間には2種類しかない。自分と他者である。
普段から自分の利益を常に優先する利己主義の人は周囲から感謝されることもなく、困ったときに助けてもらえないことが多い。
結局、孤立して寂しい人生を生きることになる。
一方、常に他者のために自己の最善を尽くしきっている利他主義の人に対しては、周囲の誰もが感謝し、その人が困ったときには何とか助けてあげたいとみんなが思うはずである。
そういう人は愉快な人生を送ることができる。
人間としてどちらの人生を選ぶべきかは明らかである。
利他主義を貫くことが愉快な人生のカギであり、そこから「プラス思考」が生まれてくる。その結果、人は大きな楽しみを感じ、遺伝子がONになるのである。
3.遺伝子をONにする教育
先日、ある深夜のテレビ番組に出演した際に、議論の中で教育問題が取り上げられた。
参加者の一人が教師の数だけを増やしても教育の質は改善しないとの意見を述べたが、その通りである。
前段から明らかなように、子どもたちの学ぶ意欲を高め、人格形成を促すには、利他主義を重視する人を育てる教育が必要である。
子どもたちが利他主義の大切さを十分理解し、それを実践する生き方を身に付けることができれば、「プラス思考」を体得できる。
そうすれば遺伝子がONになる。
利他主義を実践できるようになるには、何か自分が得意なことをみつけることが大切である。得意なことがみつかると学ぶことが楽しくなるからだ。
そのうちに得意なことを通じて周囲の人を元気にしたり、助けてあげることができるようになる。これが利他主義に向かうきっかけになる。
子どもたちは一人ずつ異なる個性を持ち、異なる能力を持っている。
ある子どもは算数が得意、ある子どもは体育が得意、また別の子どもは音楽が得意、そのほか、料理、ダンス、アニメなど、得意な分野は千差万別である。
その一人ひとりの個性をよく見て、一人ひとりに一番適した教育の機会を与える努力をし続けるのが教師の使命である。
そうした教師に指導された子どもたちは自分の得意分野を理解し、利他主義を尊重し、それぞれの能力や個性を通じて周囲の人を幸せにする。
これが理想の教育である。
そのためには教える側の教師にもそうした指導ができる力量が求められる。学科を指導する能力に加え、人格形成を促し、子供たちのために自己の最善を尽くしきることを使命と考える教師を育てることが重要である。
最近はモンスター・ペアレンツ、学級崩壊、不登校など勉強以外の問題で教師が忙殺されることがますます増えている。
教師はそれぞれの子供の個性を把握し、それをのびのび伸ばすための教育に集中する時間をなるべく多く確保することが必要である。
そのためには、モンスター・ペアレンツへの対応、学級崩壊や不登校への対応、様々な庶務的事務負担を軽減することも必要である。
そうした教師自身が十分に力量を発揮できる教育環境を確保するには教師を補助する人員の確保が重要である。
本来国が予算を確保し、教師および教師を補助する人材確保を支援するのがベストである。
しかし、現在の日本政府の税収不足や膨大な累積赤字を考慮すれば、全国一律で必要な予算を確保することは不可能である。
東京都杉並区では2005年から11年にかけて、「杉並師範館」という教師養成塾を設立し、区民の税金で独自に教師を養成し、杉並区内の小学校で定員プラスアルファの教師として採用し、区内の教育内容を拡充する仕組みを作った。
「杉並師範館」では、前出の田口佳史先生の指導の下、教師心得として「教師五則」を重視した。
その内容は、①子どもの学ぶ意欲を引き出す、②人間性を育む、③社会性を養う、④規範を確立する、⑤資質の芽を見つけ、認め、伸ばすである。
まさに遺伝子をONにするための教育に求められる教師像のエッセンスである。
今も「杉並師範館」卒塾生約60人は杉並区の教育の土台を支えている。
最近の小中学校を取り巻く厳しい教育環境を考えると、そうした教師養成に加え、モンスター・ペアレンツ対応、学級崩壊対応、不登校児童サポート、庶務的事務処理支援など、教師を補助する役割を担う人材を地域住民の努力で採用することも必要になっている。
それにより教師が一人ひとりの子どもの個性や能力を伸ばすための時間を確保しやすい環境を作ることも重要である。
もちろん人口が少なく財源に余裕がない地域ではそうした予算を確保することが難しい。しかし、できる地域もある。
そういう地域から率先して地域の教育問題に取り組み、できるところから日本の教育を立て直していく。これがいま求められていることであると思う。
筆者は世界秩序がますます不安定化する状況下、日本が果たす役割が大きいと繰り返し主張している。
国家間での合意形成が難しくなり、ルールに基づく秩序形成が行き詰まる状況下、「民」がモラルベースで国を超えて連携し、秩序形成を補完する役割を担う必要がある。
これは西洋近代社会思想と伝統的な東洋思想の相互連携のコンセプトが土台となるが、西洋近代社会思想に基づく政治経済社会制度基盤の上に伝統的東洋思想が生きている日本こそ、このモデルを世界に示す役割を担うべきであると述べてきた。
グローバル社会に向けてそうした情報を発信し、自ら実践するにはその役割を担う人材が必要である。
上記のような遺伝子をONにする教育の仕組みを地域の共助の力で創り出し、世界秩序の安定に貢献する意欲のあふれる人材を輩出する。
これが今の日本に求められている使命ではないだろうか。