定められたルールを遵守するだけでは問題解決にならない。
学校でのいじめ、企業経営や国家運営のガバナンス、米中摩擦、そして世界戦争のリスクなど身近な社会の問題から世界を巻き込む大問題に至るまで、現代社会が直面する様々な問題の根底には共通の本質的原因が存在している。
本来一人ひとりが一定のモラルを持っていれば生じないはずの問題が至る所で深刻な社会不安を引き起こしている。
人々の間で高いモラルが共有されていれば、人々の行動の細部に至るまで厳しく律する詳細なルールは必要なくなる。
それにもかかわらず、多くの国ではモラルを高める道徳教育の重要性が十分認識されていない。
詳細なルールを設けて厳しく人を縛ることによって様々な問題を解決しようとする姿勢ばかり目立つ。
それは通常、問題の本質的な解決にはならない。
ルールを増やしても、厳しくしても、人の心が変わらなければ、他者を苦しめる行為を止めることはできない。
論語の一節に「これを導くに政を以ってし、これを斎(ととの)うるに刑をもってすれば、民免れて恥じることなし。これを導くに徳を以ってし、これを斎うるに礼をもってすれば、恥あり、かつ格(いた)る」とある。
社会を統治する際に、法律で規制し、ルールを守らない人を刑罰に処すれば、人々は刑罰さえ免れられれば何も恥じることがなくなる。
社会を統治する際に、徳の大切さを説き、礼儀を重んじる方向に導けば、人々は悪いことを恥じ、自ら人の道に従うようになる。
ここにルールとモラルの効果の本質的な違いが明確に表現されている。
もちろんモラルだけですべての人々を良い方向に導くことはできない。国内社会や世界の安定のために強制執行力を持つルールは必要である。
しかし、ルール設定の目的は本来、人に迷惑をかけない最低限の規律を確保することにある。
人々が互いに思いやり、安心し、幸せを感じられる社会にするためには、ルール遵守を越えて、一人ひとりのモラルの向上と実践が不可欠である。
そのためには家庭および学校での教育の役割が極めて重要だ。
いじめはルールを定めても止まらない。
2013年6月に「いじめ防止対策推進法」という法律が成立して10年経つ。しかし、いじめ認知件数の増加傾向に歯止めがかかっていない。
小中高等学校および特別支援学校におけるいじめの認知件数は、2013年18.6万件、2017年41.4万件、2021年61.5万件とすさまじい勢いで増加している。
同法が施行されたため、いじめの認知度が高まって、以前は隠れていたいじめが報告されるようになったことで数字が増えた部分が含まれている可能性は高い。
しかし、この件数の急増ぶりは、いじめ自体が増加していることを示している。
新たな法律を定め、ルールでいじめを禁じても、子供たちやその保護者が本気でその問題に取り組もうとしない限りいじめは減らない。
いじめを容認する心の根治が必要である。
それは子供たち、そしてその保護者たちが、いじめはいけないことだ、いじめを見て見ぬ振りすることもいけないことだ、と心の底から認識することである。
日本にはそうした伝統精神の土壌がある。
「至誠惻怛」
真心を込めて周りの人を大切にし、思いやり、その想いを実践することである。明治維新当時、多くのリーダーは常にこれを意識して行動した。
少しかみ砕いて言えば、仁義礼智信の実践である。
人に仁義礼智が備わっていれば、その人は周囲の人から信頼される。
信を得るには、仁=人への思いやり、義=正しいことを貫く勇気、礼=相手を尊重し、その気持ちを形で示す礼儀、智=自分自身の心や実践行動の未熟さを知る知恵の4つの要素を身に付け、勇気をもって実践し、自分自身の人格を磨き続ける努力を重ねていることが必要条件である。
子供たちには、それを頭の中で理解するだけではなく、日々の生活の中で具体的に実践することの重要性を教える。
知っているだけでは意味がない。必要な時に的確に実践行動に移すことができるようになった時、初めて学んだことになる。
これを「知行合一」という。
この伝統精神の大切さを子供だけではなく保護者にも伝える。子供も保護者も日々の生活全体の中でそれをいかに実践したかを日記等に書く。
学校の道徳の時間に各自がどのように努力して実践したかをみんなで話し合う。これを小学校から高等学校まで継続する。
そうすれば自然に子供たちの行動に仁義礼智信が定着し、浸透する。これが真の道徳教育だ。
前述の「いじめ防止対策推進法」にも基本的施策として道徳教育等の充実が明記されている。
それにもかかわらず、いじめの増加に歯止めがかかっていないのは、現在の道徳教育の内容が不十分であることを示している。
実践を重視する真の道徳教育を学校教育で徹底し続ければ、子供たちはモラルを身に付け、いじめは確実に減少する。
いじめが減少するだけではない。人を思いやり、相手を尊重する礼儀を重んじ、正しいことを勇気をもって実行する人が増える。
そういう社会で生きる人たちは幸せである。その努力と成果を日本から世界に発信する。
これが学校における道徳教育の効果である。
他者から見えるルールの遵守だけではなく、他者から見えない自分自身の心の中のモラルを磨くことの大切さを学ぶことが真の道徳教育の目的である。
米国や英国では所得格差の拡大が深刻な社会問題となり、政治や社会の分裂を招くなど、資本主義の行き詰まりが顕著である。
これは米国でトランプ政権を誕生させ、党派分裂による社会の分断を招き、英国ではBREXIT(EUからの離脱)を引き起こした。
その原因が行き過ぎた所得格差の拡大にあることは誰もが認識している。
代表的な米国企業が所属するビジネスラウンドテーブルという団体はそれを修正するため、2019年に従来の株主第一主義を転換し、ステークホールダー(従業員、顧客、サプライヤー、地域社会、株主)重視の方向へと大きく舵を切った。
もし本気でその方針を実行に移せば、従業員の給与が上昇し、製品・サービス価格が低下し、サプライヤーからの調達価格が上昇し、地域社会への貢献が高まる。
その結果、CEO(最高経営責任者)・役員の給与と株主への配当が大幅に減少する。
しかし、実際にはそうした企業行動の変化は見られていないというのが一般的評価である。
頭の中では経営理念の修正が必要であると分かっていても、実際の企業行動は変わっていない。
企業経営を改善するため、社外取締役の導入、経営の透明性を高めるための情報公開、ガバナンスの強化などのルールが定められているが、資本主義の行き詰まりがもたらす弊害はますます深刻になっている。
一方、多くの日本の大企業の経営者の報酬レベルは欧米企業に比べてはるかに低い。
それは「三方よし」(売り手よし、買い手よし、社会よし)の経営理念を重視している企業が多く、従業員や顧客を大切にする経営姿勢が定着しているためであると考えられる。
これは社外取締役やガバナンスのルールを定める前からの企業行動である。ここでもルールによる問題解決の限界が明らかである。
米中半導体摩擦は安全保障の名を借りた自由貿易制限だが、名目上ルールを守っていると強弁する米国政府の主張に対して反論することは政治的に難しい。
国際的なルールは強国の圧倒的な力で弱小国を規制するために利用されるのが常である。
強国がそれを破ってもペナルティが課されることはないという不公平性がしばしば指摘されている。
米中両国の威圧的外交を見れば明らかなように、事実上、国際社会において法の支配は成り立っていない。
台湾問題も米国が一方的に「戦略的曖昧さ」を放棄し、台湾への武力支援に舵を切ったことに起因する部分が大きい。
一部の米国政治家は、台湾住民が望まない独立を支援して台湾有事を煽っている。そこには台湾住民や周辺国の人々の命が危険にさらされるリスクへの配慮はない。
日本はG7広島サミットで世界平和を訴えた。
その主張を口先だけで終わらないようにするのであれば、信頼される同盟国として、米国に対し、台湾問題を巡って中国を挑発しないよう自制を促すべきである。
日本がそのように行動するルール上の義務はないが、モラルとしてそう行動すべきであると考える有識者は世界中にたくさんいる。
国内では何か問題が生じると政府は法律を作成し新たなルールを定めて改善を目指す。国際社会では、秩序形成のため法の支配を強調する。
しかし、いずれにおいても上記の通りその限界は明らかである。
人の心が変わらなければルールは悪用できる。国も企業も自分に都合のいいルールを作り、ルールを守って問題解決に取り組んだふりをする。
往々にしてその目的は私利私欲の実現であり、問題の本質的解決ではない。その陰で弱者が犠牲になる。
一般にルールを遵守していても、実際には心の中でその目的に反する目標を目指しているケースは多い。
心の中で違うことを考えていても口に出さず、表面上ルールに違反しなければ罰則はない。
しかし、それではいじめは止まらない。経営は改善されない。資本主義の行き詰まりは克服できない。
安全保障の名の下に経済交流が阻害され、世界は分断され、戦争に向かうリスクが高まる。日本も世界もこのままでいいはずがない。
いじめを目の前にしても自分自身がそれを止めなければならないルールはない。
米中戦争のリスクが高まる状況を目の前にしても日本が立ち上がらなければならないルールはない。しかし、それでいいのか。
政府は法律を作って学校や保護者はそれを守る。しかし、いじめは増え続けている。
国際組織は平和や経済交流の大切さを訴え、様々な声明を発表し、ルール化を目指す。
しかし、米中摩擦は激しさを増し、ロシアはウクライナ侵攻に踏み切った。日本も世界もリスクは高まるばかりである。
この現実を直視し、ルールに基づくガバナンスや秩序形成の限界を認識し、人としてのモラルを大切にする原点に回帰すべきだ。
モラルの根本は何か。他者のために自己の最善を尽くしきることである。これは私の中国古典の師である田口佳史先生が繰り返し強調されるポイントである。
社会は自分と他人から構成される。自分の利益だけを追求することを私心という。
私心に基づいて自分の利益だけを優先して行動する人がいれば、誰もその人を助けたいとは思わない。
みんなが助けたいと思うのは、いつも周囲の人のために私心なく行動する、モラルを実践する人である。そういう人の人生は愉快だと田口先生は説く。
ルールは必要だが、それだけでは社会はよくならないし、世界秩序も安定しない。人は幸せにならない。
いま、我々は、改めて人としてのモラルの大切さを認識し、実践重視の真の道徳教育の普及を通じてそれを実践するチャレンジを全世界で始めなければならない。
政府だけではなく、国民一人ひとりがその使命を自覚して自ら行動を起こさなければ、日本も世界もどんどん悪い方向、危険な方向に進み続ける。
表面的なルールだけで問題を解決しようとすれば、地球上の多くの人々が再び広島やウクライナのように苦しむことになる。