メディア掲載 エネルギー・環境 2023.01.13
パリ協定における2℃目標の根拠をよく見ると、驚きの結論が導き出される
NPO法人 国際環境経済研究所(IEEI)HPに掲載(2022年12月20日)
監訳:キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹 杉山大志 翻訳:木村史子
本稿はロジャー・ピールキー・ジュニアによる記事「The Two Degree Temperature Target is Arbitrary and Untethered A close look at the origins of the 2C target of the Paris Climate Agreement leads to a surprising conclusion」を許可を得て邦訳したものです。
国際的な気候政策の中心に位置し、気候科学や評価から政策や規制に至るまで、すべてを形成している2℃目標については、ほぼ誰もが耳にしたことがあるはずだ。しかし、その数字の根拠を知る人はほとんどいない。さらに、「2」という丸められた数字が完全に恣意的であり、科学的理解の進展に伴い、本来の科学的正当性から外れてきていることを知る者はさらに少ない。
もし多くの人が予想するように、今後数年、数十年の間に2℃の政策目標(あるいはその代わりの1.5℃目標)が達成されない場合、国際的な気候政策の目的は見直されなければならないだろう。この投稿は、2℃目標の由来と、それが今日いかに本来の科学的根拠から切り離されているかを明らかにすることによって、政策目標をどのように発展させるかという現在進行中の議論を喚起するものである。このような状況を考えると、気候政策の目標を見直すことは、必ずしも悪いことではない。むしろ、気候変動に対して効果的な行動をとるために、より適切な目標とスケジュールで、気候政策をよりよい方向に向けるために役立つかもしれない。
2℃気温目標の近因となるのは、気候変動に関する国際連合枠組条約(UNFCCC)に基づく2015年のパリ協定であり、その目標には次のようなものがある。
「世界平均気温の上昇を産業革命前より2℃より十分に低い水準に抑え、産業革命前より1.5℃の上昇に抑える努力を追求し、これにより気候変動のリスクと影響を大幅に軽減することを認識する」
しかし、なぜ2℃なのか? 3℃ではいけないのか?あるいは2.5℃ではどうなのか?1.0℃では?他の数字でもいいのでは?
パリ協定が2℃にこだわる理由は、27年前の1995年にドイツ政府の専門家諮問機関である地球環境変化に関する科学諮問委員会(WBGU)がUNFCCCの第1回締約国会議への貢献として発表した声明に直接たどることができる。WBGUは、気候変動に対処するためには「人為的な排出を超長期的にほぼゼロにする必要がある」と認識しており、これが今日の「ネットゼロ」エミッションの予兆となった。しかし、どの程度のスピードで排出量を削減しなければならないのだろうか。
1994年に発効したUNFCCCでは、大気中の温室効果ガス濃度を安定させるという目標が次のように明示された。
危険な人為的(人間活動による)気候変動への影響を防止できるレベル… (中略)そのレベルは、生態系が気候変動に 自然適応し、食糧生産が脅かされず、経済発展が持続的に進むのに十分な時間枠内で達成されなければならない。
UNFCCCの目標が数値化されていないため、「危険な人間活動による影響」が実際に何を意味するのか、その概念を現実の政策実施の指針となる目標やスケジュールにどのように変換するのかについて、多くの研究と議論が行われた。1995年のWGBUの声明は、最終的に国際交渉で採用されることになる答えを提供した。
WGBUは、将来の地球気温の推移について、”生物の保護“と”過大なコストの防止“という2つの目標を満たす「許容温度枠」を定量化することに焦点を当てた。2番目の目標には、「気候政策の鉄の法則」(訳注:コストが高い政策は持続できないという法則)が最初から存在していたことがわかっている。しかし、「許容温度枠」をどのように定義すればよいのだろうか。
WGBUは、地球の気温の変動(IPCCではvariability:変動性と呼んでいる)についての理解を用いて、提案した枠を、最後の氷河期の低い温度から最後の間氷期の高い温度までとした。
WGBUの「許容温度枠」の説明は、以下を参照されたい。
許容温度範囲
第一の原則として、地球上の生物の現状維持について、このシナリオの中では許容可能な「温度の枠」という形で提示されている。この枠は、第四紀後期の地球の平均気温の変動幅から導き出されたものである。地質学的時代は、現在の環境を形成しており、最終氷期(平均最低気温約10.4℃)が最も低く、最終間氷期(平均最高気温約16.1℃)が最も高いということが分かっている。この温度範囲をどちらかに越えると、現在の生態系の構成や機能に劇的な変化が生じることが予想される。許容範囲をさらに0.5℃ずつ広げると、9.9℃から16.6℃の範囲となる。すると現在の地球平均気温は約15.3℃なので、許容可能な上限温度までの温度幅は1.3℃しかないことになる。
(The “tolerable temperature window” of WGBU 1995)
1995年当時、世界はすでに産業革命以前の水準から0.7℃上昇していたと推定される。つまり、0.7℃にWGBUが推定した1.3℃を加えると、「許容温度枠」を超えてしまうというわけだ。
これが、パリ協定で定められた産業革命前レベルからの2℃上昇の方法論的な起源である。しかし、話はこれで終わりではない。
2℃目標の起源をたどる次の課題は、「許容温度枠」の実際の温度境界がどこから来るのか、つまりWGBUが示した10.4℃から16.1℃(上の説明にあるように、これに0.5℃のバッファを差し引いたり加えたりしている)がどこから来るのかを特定することである。もし、最終間氷期の上限温度が、例えば、15.5℃と低かったり、あるいは16.6℃と高かったりしたら、そのわずかな温度差は「許容温度枠」の大きさに大きな影響を与え、気候政策にも影響を与えるだろう。
WGBUが使用した最終氷期と最終間氷期の温度範囲は、過去の地球気温の変動に関する1987年に行われた不明瞭な分析に由来している。「許容温度枠」の作成者は、1999年のClimatic Changeに掲載された論文で、その方法についてより詳しく説明している。著者らは、彼らのアプローチは定型的なもの(stylized approach。訳注:分析の結果よりも形式を提案することに主な目的がある)あって、「すべての数値結果は暫定的なものとみなされるべきであり、規範的な設定が現在そして将来にわたり世界中で受け入れられるよう提案されたわけではない」と指摘している。2℃の気温目標は、科学的な閾値や気候変動の転換点として、政策を拘束するものと見なされることを意図したものではなく、あくまで定型的な推定値であった。
「許容温度枠」の境界値を定めるために1987年の無名の論文に頼る代わりに、それよりも権威のある情報源、IPCC第1作業部会の2021年報告書に頼ったらどうなるか、考えてみてほしい。最近のIPCC報告書では、最終間氷期は産業革命前の基準期間より「0.5℃~1.5℃高い値に達したと推定される」と(中程度の信頼度で)結論づけている。この推定値は、1995年にWGBUが 「許容温度枠」を設定するための根拠として用いた、1987年の不明瞭なチャプターで推定された最終間氷期の温度よりかなり低いものである。
その代わりに、IPCC AR6が報告した最終間氷期の気温の値を「許容温度枠」の方法論に当てはめると、「許容温度枠」の上限はちょうど15.6℃となる。これは次のように計算される。
これは、1995年のWGBUの気候変動に関する国際連合枠組条約での声明の結果よりも1度低い。だがWGBUの声明は、最終的には2015年のパリ協定で2度という気温目標として成文化されたものだ。すると、
気候変動に関する国際連合枠組条約で採択された温度目標の設定のために元々使われていた方法を適用すると、パリ協定の2℃温度目標は実際には1℃温度目標であるべきだ。
すると、世界の気温は産業革命以前からすでに1℃以上上昇しているから、「許容温度枠」を大幅に超えてしまっているのだ。
2℃という気温目標は、1998年のvan der Sluijsらによる古典的な論文の言葉を借りれば、「固定化装置(anchoring device)」としての役割を担っている。彼らは、気候感度の概念を用いて、気候科学における科学的な概念が、どのように社会的・政治的な概念に変容し、時間をかけて固定化され、やがて政策が実施されるようになるかを述べている。
そして、「このような政治的機能を果たすためには、固定化装置は、その基礎となる科学的根拠から切り離されることが時として必要となる」、として以下のように述べている。
もし、政策の表向きの科学的根拠が、新しい科学的知見とあまりに密接に結びつけば、政策実施の根拠が損なわれる可能性がある(訳注:新しい科学的知見なるものは、続々と更新されてゆくから)。特に、目下の問題に関して非常に政治的に偏向した社会的議論が行われている状況下では、なおさらである。
もし、2℃目標が恣意的であることを実際に認識すれば、それを中心に構築されてきた認識論的・政治的コミュニティ全体が動揺するだけでなく、気候政策が根本的に見直されることになるだろう。そして、それは決して悪いことではないかもしれない。
van der Sluijsらが説明するように、気候政策を固定化装置から開放し、疑問を投げかけることは、次のような問いかけにつながるかもしれない。
「温室効果ガス排出量という共有された気候の概念が、地球環境の変化とそれに密接に関連する人間の貧困、不公平、世界的な消費と土地利用のパターンに関して、果たして、本当に最も重要で、効果的で、受け入れやすい、国際的な最優先事項なのかどうか…このような問いを発することは、人為的気候変動が管理可能であるという考え方と、ほとんどの(決してすべてではないが)政策関係者・制度による既存の方針を覆すことになるであろう。かかる問いかけは、そもそも“予測し制御することが可能である”という、現代の認識論文化における知的服従の是非にも関係する」
気候政策における気温目標は、その本来の基礎となる科学的根拠から切り離されている。だが、それにもかかわらず、2℃の重要性を補強するためにかなりの科学的作業が行われている。なぜなら、2℃と1.5℃の気温目標は、政策や規制の中で再定義されていながらも、科学的な主張は批判や反対をそらすのに役立つからである。
しかし、2℃と1.5℃の目標の達成は非現実的、あるいは達成不可能であることがすぐに明らかになるであろう。その時は、気候政策の全体的な構造を見直す必要がある。おそらく、我々はすでにその地点にいるのだ。
気候政策はもっとオープンにされるべきで、時代遅れで科学的な根拠から切り離された気温目標に代わる、新しいタイプの目標とスケジューリングが必要である。私が望ましいと考えるのは、化石燃料によるエネルギー消費ゼロを達成することに政策を集中させることだ。しかし、それはまた別の機会に議論することとしたい。