日本での報道は少ないが、世界ではオランダや近隣諸国の「窒素問題」に注目が集まっている。2022年6月、オランダ政府は環境汚染対策として、人間活動による反応性窒素(アンモニアガス・NH3などの反応性の高い窒素化合物)の大気への排出量を2030年までに国全体で半減するという目標を打ち出した。これを達成するために、オランダの畜産農家に対して家畜の排泄物由来のNH3排出量を7割削減するよう求めている。これは家畜を約3割減らすことに相当し、廃業を恐れる農家や農業団体による大規模なデモが広がっている注1)。このような政府の厳しい排出規制は、科学的に妥当なのだろうか?
本稿における「窒素」は、化学的に安定な大気の78%を占める窒素ガス(N2)ではなく、大気中に微量に存在するガス(NH3や窒素酸化物NOx)などの「反応性窒素」を意味する。雨などに取り込まれて陸上に落下(沈着)する反応性窒素は植物の成長に不可欠な肥料(養分)となるが、貧栄養な環境に適応した植物にとっては「過剰な窒素負荷」である。その結果、植物が失われるとそこに棲む昆虫やそれをエサとする野生鳥類も減少し、生態系のバランスが崩れるとされている。また、土壌中に反応性窒素が過剰に蓄積すると酸性化して作物の生育に悪影響を及ぼすとともに、河川を通じて流入した湖沼の水質汚染や植物プランクトンの大量発生による悪臭にもつながる注2)。欧州連合(EU)はこの窒素問題に早くから取り組み、反応性窒素の排出規制とそれに伴う生物多様性の保全に関する鳥類指令(1979年)・硝酸指令(1991年)・生息地指令(1992年)などを発効してきた注3)。
EUの中でも、畜産由来のNH3排出量が突出して大きいのがオランダである。オランダは九州ほどの小さな国にもかかわらず、多数の家畜を集中させて生産効率を上げる「集約畜産」を採用することで、現在もアメリカに次ぐ世界第2位の農産品輸出額を誇ってきた。その分、家畜の糞尿に含まれるアンモニウムNH4+がNH3として大気へと揮発(排出)する量も大きい注3)。また、牛のげっぷに含まれるメタンガス(CH4)の大気中での寿命は12年ではあるが、温室効果(地球温暖化係数)は二酸化炭素(CO2)の28倍である。このため、気候活動家はオランダがEUの中で最大の集約家畜頭数を維持し続けていることを非難し、世界自然保護基金(WWF)はオランダ中央部Veluweの大規模畜産地帯の存在が野生鳥類の生息・繁殖を脅かしていると指摘している注1)。
オランダ政府は、2003年には司法裁判所による硝酸指令への違反の判決を受けている。また、2019年に最高裁判所は政府に対して、EUの自然保護法に違反しているのでさらなる窒素排出を認可してはならないと定めた。そして、2022年6月にはオランダ自然・窒素政策相である Christianne van der Wal-Zeggelink氏が2030年までに国全体のNH3排出量を半減させるという目標を打ち出したのである注4)。この最大の目的は、EUが定めた自然保護区域ネットワークNatura 2000注5)での生態系(食物連鎖の頂点に近い鳥類など)の保全である。上述したVeluweにもNature 2000の区域があり、この周辺の畜産農家は家畜を3割以上削減しなければならない。さもなければ、移転または廃業を余儀なくされる。この政策に反発した農家や農業団体は大規模なデモを行っており(図1)、2022年9月6日には農業大臣であるHenk Staghouwer氏が辞任に追い込まれる事態にまで発展した注6)。
図1 2022年6月以降広がった高速道路をトラクターで封鎖するオランダの農家や農業団体 注1)
著者は、これまで日本で農地や畜産から排出されるNH3とその植生地への負荷量を研究してきたので注7),注8),注9)、この出来事を大変身近かつ重要な問題に感じている。オランダ政府がこれほど大規模な窒素排出規制を強行するからには、よほど強固な科学的根拠(エビデンス)があるのだろうと思っていた。
ところが、文献調査を進めても、反応性窒素の排出規制と野生鳥類の生息保全の因果関係を明らかにした論文はなかなか見つからない。
Christianne van der Wal-Zeggelink氏が提出した議会への手紙は、オランダ国立公衆衛生環境研究所RIVMの最新の報告書注10)を根拠にしている。そこで、この報告書が引用している文献や欧州の専門家が出版した関連書籍注11)を丹念に調べてみた。そして最終的には、RIVMが発行する2008年年次報告書に示された臨界負荷量と生物の生息域割合の統計解析の結果に辿り着いた(図2)。図2の臨界負荷量とは、それ以下であれば反応性窒素に敏感な特有の生物に悪影響を及ぼさない窒素負荷量のことである注12)。したがって、臨界負荷量の超過分に対する線形回帰直線の勾配(β)が負である場合には(図2:太字)、過剰な窒素負荷によってチョウや野生鳥類が減少しているかもしれないということにはなる。
図2 オランダの貧栄養・富栄養な砂質土壌の森林(Forests on poor/rich sandy soils)、乾燥・湿潤な平坦地の荒地(ヒース:dry/wet heathland)、湿原(bogs)、貧栄養の草地(Nutrient-poor wet grasslands)における臨界負荷量の超過分に対するチョウ(Butterflies)・繁殖鳥(Breeding birds)・維管束植物(Plants)の生息割合の対数値の統計解析注13)。(n:サンプル数、α:回帰直線の切片、β:回帰直線の勾配。太字:窒素負荷の増加とともに生物が有意に減少している項目。
例えば、食物連鎖(大型の鳥類を頂点として食べる・食べられるという点に注目した生物種の関係)の概念に従えば、臨界負荷量を超えるほどにNH3が植生地に供給されると、窒素の増加に敏感な植物種が変化し、窒素が少ない環境に適応していた昆虫などが減り、それを餌としている野生鳥類の繁殖を脅かす可能性はあるかもしれない。しかしながら、図2の負の相関だけでは、このような因果関係を検証することはできない。図2を説明する本文にも、窒素負荷が動物相に影響を示すという科学的知見はほとんどないと明記されている注13)。また、実際の生態系には「食べる・食べられる」という関係のみならず、共生関係や競争関係など別の生物間相互作用も存在し、それらが生物多様性を生み出している。そもそも野生鳥類のような動物は、植物と異なり移動可能で窒素負荷以外の環境要因によって生息域が容易に変化してしまうためモニタリング自体難しいという問題点もある注11)。
オランダという国全体で見たときには、畜産地域の畜牛頭数、大気へと排出されたNH3、鳥類の生息域の間に何らかの関係は見いだせるだろうか?経済協力開発機構(OECD)と国連食糧農業機関(FAO)が国別でこれらの指標の長期統計データを公表しているが、残念ながら、変動傾向は指標ごとに異なっている(図3)。オランダ全体の畜牛の飼養頭数は2010~2016年で一時的に上昇するものの、2019年には再び下がっている。これに対して、農業由来のNH3排出量は1990年以降大きく低下し現在は横ばいとなっている。そして、農地を巣や繁殖に使用している鳥類(農地性鳥類)の個体群を表す指標注14)は1990~1995年まではほとんど横ばいであり、NH3排出量が急減した2000年前後から減少が始まっている。厳密には、州レベルの小さな範囲で解析を行う必要はあるが、少なくとも国全体の統計データを見る限り、畜牛を減らすことが鳥類(生態系)を維持する上で最も有効な対策であるとは考えにくい。
図3 1990~2019年のオランダにおける農地性鳥類の指標、農業由来のNH3排出量
注15)および畜牛頭数注16)の経時変化
図3で示したように、1節で述べたさまざまな指令や規制によってオランダのNH3排出量は既に削減されてきたが、生態系にはどのような変化があったのだろうか?オランダ・ワーゲニンゲンの草地で実施された約60年間もの長期野外実験の結果によると注17)、1987年頃まで減少を続けていた植物種の多様性は、その後徐々に回復してきているという(図4:赤丸)。この回復時期は、図3において1990年以降NH3排出量が急減した時期と一致する(図4:赤枠)。ここで重要なのは、この実験で自然の窒素負荷に加えて全期間に渡って人為的に土壌酸性化を防ぐ石灰(Ca)の散布や窒素(N)・リン(P)・カリウム(K)などの養分を施肥した区も設けているが、いずれの区でも回復傾向が見られた点である(図4)。このような人為的に窒素を施肥し続けても多様性は回復するという結果は、英国で過去160年継続している別の研究でも示されている注18)。これらの知見を見る限り、現状のNH3の排出規制下でもオランダの生物多様性は保全できそうにも思える。
図4 1958~2015年のオランダ・ワーゲニンゲンの草地に設置した4つの実験区における植物種の多様性指標の長期変化注17)。
本稿では、農業由来の反応性窒素の排出量の削減目標を達成するために、自らの基幹産業である畜産業を閉鎖に追い込みかねないオランダの政策に対して、著者が感じた疑問とその答えを得るための科学的根拠を整理した。しかしながら、その結果を見る限りは畜産業を縮小すると野生鳥類を守ることができるという根拠は十分とはいえないように思える。また、この政策を実施するにあたって、家畜頭数・NH3・生物多様性・鳥類生息域の間の因果関係を明らかにしたという結果は、著者が調べた限り発見することはできなかった。
このような科学的エビデンスの欠如が、利害関係者(今回の場合、農家や農業団体)と政府の間に軋轢を生み出したと思われる。経済的な観点でも、冒頭の窒素削減目標を達成することは大きな困難を伴う。ある畜産業者によれば、NH3や畜産由来の温室効果ガスを可能な限り排出しない農場にするには、約100万ユーロ(約1億3000万円)の投資が必要という注19)。このような多大なコストをかけた変革を緊急に求める理由は、どこにあるのだろうか?政府によって科学的根拠に基づく説明が利害関係者になされない限り、両者の合意は得られないように思われる。
そして、農業総産出額の3割以上を占める畜産を抱える日本も、このオランダの窒素問題を対岸の火事と捉えるべきではない。この問題が、日本国内の窒素問題の実態と科学的知見を整理し、窒素問題を過小評価・過大評価することなく、持続可能な畜産業のあり方を深く考えるきっかけになることを望む。
注1)
DW (2022) Dutch farmers feel they face an impossible pollution ultimatum: Sort it or sell up.
https://www.dw.com/en/dutch-farmers-feel-they-face-an-impossible-pollution-ultimatum-sort-it-or-sell-up/a-62460053(動画あり)
注2)
堅田元喜(2021)地球温暖化対策に先行する水環境の順応性管理,環境管理,57,39–42.
https://cigs.canon/article/20210830_6145.html
注3)
西尾道徳(2014)No.251 EUにおける農地からの窒素排出量の内訳と硝酸指令の削減効果,西尾道徳の環境保全型農業レポート
https://lib.ruralnet.or.jp/nisio/?p=3072
注4)
オランダ中央政府(2022)農村地域に対する国家計画の開始覚書の提示を伴う議会への手紙(オランダ語を機械翻訳)
https://www.rijksoverheid.nl/documenten/kamerstukken/2022/06/10/startnotitie-nationaal-programma-landelijk-gebied
注5)
環境イノベーション情報機構(2009)生息地指令【EU】
https://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=1449
注6)
NewsChannel 13 (2022) Dutch farm minister resigns after protests over pollution.
https://wnyt.com/business-news/dutch-farm-minister-resigns-after-protests-over-pollution/
注7)
Katata, G., Hayashi, K., Ono, K., Nagai, H., Miyata, A., Mano, M. (2013) Coupling atmospheric ammonia exchange process over a rice paddy field with a multi-layer atmosphere–soil–vegetation model, Agricultural and Forest Meteorology, 180, 1–21.
注8)
久保田 智大,堅田 元喜,福島 慶太郎,黒田 久雄(2019)牛舎からのアンモニア揮散が近傍のヒノキ樹木への窒素沈着に及ぼす影響, 大気環境学会誌,54, 43–54.
注9)
Kubota, T., Kuroda, H., Watanabe, M., Takahashi, A., Nakazato, R., Tarui, M., Matsumoto, S., Nakagawa, K., Numata, Y., Ouchi, T., Hosoi, H., Nakagawa, M., Shinohara, R., Kajino, M., Fukushima, K., Igarashi, Y., Imamura, N., Katata, G. (2020) Role of advection in atmospheric ammonia: A case study at a Japanese lake basin influenced by agricultural ammonia sources, Atmospheric Environment, 243, 117856.
注10)
Bleeker, A., Jones, P., Westerhoff, E., Hazelhorst, S., van der Maas, W., Roest, G. (2022) Spatial effect of zoning emission reductions in agriculture, RIVM-briefrapport 2021-0166, pp. 52(オランダ語を機械翻訳)
https://www.rivm.nl/publicaties/ruimtelijk-effect-zonering-emissiereducties-landbouw
注11)
Dise, N.B., Ashmore, M., Belyazid, S., Bleeker, A., Bobbink, R., de Vries, W., Erisman, J.W., Spranger, T., Stevens, C.J., van den Berg, L. (2011) Nitrogen as a threat to European terrestrial biodiversity, In: M.A. Sutton, C. Howard, J.W. Erisman, G. Billen, A. Bleeker, P. Grenfelt, H. van Grinsven, B. Grizzetti (eds) The European Nitrogen Assessment Sources, Effects and Policy Perspectives. Cambridge University Press, 463–494.
注12)
Nilsson, J. (1988) Critical Loads for Sulphur and Nitrogen. In: Mathy, P. (eds) Air Pollution and Ecosystems. Springer, Dordrecht, 85–91.
注13)
Hettelingh, J.P., Posch, M., Slootweg, J. (eds.) (2009) Critical load, dynamic modelling and impact assessment in Europe CCE Status Report 2008, Coordination Center for Effects, Netherlands Environmental Assessment Agency, Bilthoven, Netherlands. Report No. 500090003, pp. 232.
https://www.pbl.nl/sites/default/files/downloads/500090003.pdf
注14)
西尾道徳(2013)OECDが2010年までの農業環境状態を公表,西尾道徳の環境保全型農業レポート
https://lib.ruralnet.or.jp/nisio/?p=2798
注15)
OECD Statisticsウェブサイト https://stats.oecd.org/
注16)
FAOSTATウェブサイト https://www.fao.org/faostat/en/#data/FBS
注17)
Berendse, F., Geerts, R. H .E. M., Elberse, W. Th., Bezemer, T. M., Goedhart, P. W., Xue, W., Noordijk, E., ter Braak, C. J. F., Korevaar, H (2021) A matter of time: Recovery of plant species diversity in wild plant communities at declining nitrogen deposition, Diversity and Distributions, 27, 1180–1193.
注18)
Storkey, J., Macdonald, A. J., Poulton, P. R., Scott, T., Köhler, I. H., Schnyder, H., Goulding, K. W. T., & Crawley, M. J. (2015) Grassland biodiversity bounces back from long-term nitrogen addition, Nature, 528, 401–404.
注19)
AFP BB News (2022) 気候危機:選択を迫られるオランダの畜産業者 改革投資か廃業か?
https://www.afpbb.com/articles/-/3384384