ロシア外務省は今年3月、日本との平和条約締結交渉を中断するとの声明を一方的に発表、北方領土との「ビザなし交流」などの合意破棄や、四島での共同経済活動からの離脱も表明した。ロシアによるウクライナ侵攻の前から、領土問題の進展は見通せない状況にあったが、先行きはますます不透明となっている。ウクライナ戦争が長期化の様相を呈し、日露関係も厳しい状況が続くことが予想されるなか、北方領土は今どのような状況にあるのだろうか。本稿では、ロシアの地元紙やソーシャルメディアから見えてくる島々の近年の状況と、ウクライナ戦争の現地への影響について概観する。
ロシアが実効支配する北方領土の島々(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)は、この数年、かつてない観光ブームに沸いている。「なんて美しい」「神秘の場所だ」「まるでアイヴァゾフスキーの絵画のよう」――。ソーシャルメディアの発達に伴い、近年旅行客やブロガーが投稿する南クリル(北方領土のロシア語での呼称)の写真や動画に、次々と感嘆のコメントが寄せられる。北方領土における自然の美しさや秘境ならではの魅力が、個々人の投稿を通じて一般のロシア国民にも知られるようになってきたのである。
北方領土には良質の温泉もあり、観光地としての潜在力は高い。特に択捉島の中心街から30キロほどの指臼岳(バランスキー山、標高1,125m)には、温泉が川となって流れる場所があり、秋には温かい川に浸かりながら紅葉も楽しめる景勝地だ。温泉以外にも、四島には落差140mにも及ぶ滝や柱状節理の奇岩、高山植物の花が咲き広がる丘陵、河川を上るサケの大群など見どころは尽きない。これらの海域ではシャチやイルカ、クジラ、ラッコ、アザラシなども見られるほか、島には白いヒグマやシマフクロウなどの希少な生物も生息する。
北方領土を事実上「管轄」するロシアのサハリン州は、これまで島への観光客誘致のために様々な広報を企画してきたが、いずれも成果を上げてこなかった。それが今では、一般の人々によるソーシャルメディアの写真や動画が、意図せず、その役割を果たしているのである。
北方領土における観光ブームの追い風となったのは、新型コロナウィルスである。国外への旅行が規制されるなか、「ロシア版GoTo」ともいえる政府主導の国内旅行促進策も手伝い、国内観光の需要が伸びた。その結果、北方領土への観光客も急増したのである。最近はコロナ禍の影響は薄れてきていたが、ウクライナ戦争により、ロシア国民にとって一部の海外への渡航は再び難しいものとなっている。
今年10月5日付のタス通信によると、2021年のクリル諸島(北方四島を含む千島列島のロシア側の呼称)への観光客は、およそ5万人に上ったとされる。ただし、北方四島への旅行者の数は正確には把握されておらず、5万人という数字には季節労務者なども含まれている可能性がある。それでも、例えば北方領土内の自然保護区への入域許可証や、四島の国境地帯への通行証の発行件数が急増している事実からしても、また島々へ渡航するための航空便や船便のチケットが夏季には予約困難に陥っている状況からみても、北方領土への観光客の数がここ数年で飛躍的に増加していることは間違いなさそうだ。地元メディアによると、島の各自治体には、住民から飛行機や船のチケットが取れないことや、観光客が捨てていくゴミの問題など、早くも「オーバーツーリズム」ともいえる苦情が多数寄せられるようになっている。
北方四島への観光客数が急増した背景として、島々へのアクセスが比較的容易になったことと、島内のインフラも以前に比べ整備されたことが重要な下地となった。この2つの要因は、いずれも「クリル諸島社会経済発展連邦計画」(クリル発展計画)というロシア政府主導の開発プロジェクトの成果がもたらしたものだ。なお、クリル発展計画の実施領域は、北方領土のうち一般の住民が暮らす択捉、国後、色丹の3島のほか、千島列島の北端近くに位置するパラムシル島も対象として含まれている。
クリル発展計画は、実はエリツィン政権下の1994年から存在する国家プロジェクトである。ただし、当時は予算が実行されることはほとんどなく、事実上失敗に終わった。実質的にクリル発展計画が動き始めたのは、プーチン政権下の2007年になってからのことだ。国際的な油価の高騰で財政が潤った当時のロシアは、「クリル発展計画2007-2015年」として新たな開発計画を始動。空港、道路、港湾などの輸送インフラや、燃料、電気、水道などのライフライン、教育、病院、通信などの社会インフラの整備を着々と進めてきた。その後も続いて「クリル発展計画2016-2025年」が策定され、2022年現在もこの計画に沿う形で開発が続けられている。
その結果、観光客の誘致に欠かせない島へのアクセスの問題が一定程度改善された。択捉島と国後島で飛行場が整備されたほか、2021年には2隻の貨客船が新造され、海上での渡航の利便性も格段に向上した。また、同発展計画により光ファイバーが敷設され島内のインターネット環境が整備されたことも、観光客らがソーシャルメディアに島の写真や動画を投稿するのを後押ししている。
もちろん、クリル発展計画により発展したのは観光業だけではない。北方領土の島々はもともと漁業と水産加工業を主要産業としてきたが、港湾やエネルギー施設の整備により民間投資も進み、例えば択捉島で1991年に創業したギドロストロイ社は、国の開発計画と共同歩調を取りながら事業拡大を続けてきた。ギドロストロイ社の公式サイトによると、同社は今では3,500人を雇用し、漁期にはさらに1,500人の季節労務者を雇い入れる極東最大規模の漁業・水産加工会社となり、建設や観光、金融なども手掛けるコングロマリットへと成長を遂げた。
産業の発達に伴い、島々の人口も、2022年のデータには若干の減少が見られるものの、過去数年間にわたり増加を続けてきた(表)。ロシアの極東地域全体が、ソ連崩壊後今日に至るまで著しい人口流出に苛まれるなかで、極めて異例のことだ。これには、クリル発展計画はもとより、「人材誘致プログラム」や「住宅購入支援事業」など、サハリン州が州独自の予算で策定した定住政策も一定の貢献を果たしたと考えられる。
一方、ここ数年のロシア経済の停滞を受け、国家プロジェクトであるクリル発展計画が行き詰まりを見せ始めている。現在行われているクリル発展計画は、2016年から2025年までの10年間の計画だが、サハリンのインターネットメディア「サフ・オンライン」によると、2020年までの前半5年間で執行された予算415憶ルーブル(約990億円)のうち、サハリン州が負担した金額は41%に上り、民間投資が47%、連邦予算からの支出はわずか12%にとどまったとされる。別の地元メディア「サハリン・インフォ」によると、2021年度の事業にいたっては、すべてサハリン州と民間が負担し、連邦予算は投入されていない。サハリン州議会は近年モスクワに対し、国からの支出割合を増やすべきとして度々要請を行っており、州議会を中心に地元で不満が鬱積していることが伺われる。
国が財源不足に苦しむなかで、ロシア政府は民間の投資により島の開発を行うべく動き出した。企業を誘致するための枠組みとして、2017年にTOR「クリル」が北方領土の色丹島に創設された。TORとは「先行発展領域」と呼ばれる経済特区である。TORはもともとロシア極東地域への企業誘致を目的に2015年に施行されたもので、利潤税や固定資産税、土地税などの3~5年の免除がその主な柱となる。
TOR「クリル」はその後色丹島だけでなく、千島列島の北部にも領域が拡大された。当初はこの制度を活用し、色丹島で以前より漁業・水産加工業を営んできたオストロブノイ社が、近代的な工場を新設するなど新たな動きも見られたが、その後は参入企業の数も規模も伸び悩んでいるのが実情だ。
TOR「クリル」の不発により、今年3月に施行されたのが、北方領土を含む千島列島全域を対象とする新たな「大規模免税制度」である。これは2021年9月の東方経済フォーラムのなかでプーチン氏自らが大々的に発表したいわば大統領肝入りの制度で、利潤税、固定資産税、輸送税、土地税が20年間にわたり免除され、社会保険料の企業負担も大幅に軽減される。
サハリン州政府によると、この新たな大規模免税制度を活用して、観光業や水産業など国内企業9社(2022年10月時点)が、既に北方領土を含む千島列島への投資を決めたという。なかでも今注目を集めているのが、択捉島のオリエンタル・リゾート(択捉リゾート)計画だ。前出の指臼岳のふもとに温泉施設を備えたホテルをはじめ、スキー場やゴルフ場、展望台などの観光インフラを整備する計画で、事業費として215億ルーブル以上が見込まれている。年間6万人の集客を目指すとされ、そのうち半分は外国からの観光客を想定する。ロシアのリゾート開発大手が中核となる見込みで、国内随一の保養地ソチの開発も手掛けたオリガルヒも関与する。
オリエンタル・リゾートは、計画としては数年前から存在していたが、大規模免税制度導入が決まった昨年秋口より実質的に動き始め、今年9月の東方経済フォーラムでは、グリーン・フローのブランドで国内に複数のホテルを展開する企業の進出も決まった。仮にオリエンタル・リゾート計画が実現すれば、多額の投資資金や人が北方領土に流れ込む一大プロジェクトとなる。「択捉をソチに並ぶリゾート地に」とサハリン州政府の鼻息は荒い。北方領土での初の大規模観光プロジェクトだけに、わが国としても注意が必要だ。
一方で、島の歴史や実情をよく知る地元住民の受け止めは、意外にも冷ややかだ。これまでにも温泉リゾート計画がいくつか存在したが、いずれもいつの間にか立ち消えになってしまったという過去の苦い経験がある。地元の自治体からすると、免税制度により税収がむしろ減ってしまうことへの懸念もある。
現在の島の住民らがオリエンタル・リゾートのようなビッグプロジェクトに懐疑的なのは、島でのインフラ全般が国内平均以下の厳しい状況にとどまっていることも原因のひとつだ。いまだ舗装されていない道路も多く、港湾や飛行場も以前よりは改善されたものの、接岸や飛行の可否は常に天候次第だ。停電もいまだに珍しくはない。アクセスの問題は輸送にも直結するため、エネルギー問題と共に島の産業にとっては喫緊の課題となっている。
こうした基幹インフラに関しては、今後もクリル発展計画など国や州の公的資金による整備が継続されなければ、民間企業の本格的な投資も難しくなる。しかし今、ウクライナ戦争により、こうした開発にブレーキがかかる可能性が出てきている。
ロシア経済の低迷により、クリル発展計画に近年連邦予算があまり投入されなくなっていたことは既に述べた。加えて、ウクライナ侵攻に対する西側からの制裁の影響で、ロシアの今年のGDP成長率はマイナス3~4%と予想されるほか、中長期的な経済見通しも暗いものとなっている。戦費の負担も抱え、北方領土に限らず、ロシア政府が各地方に振り分ける財源が軒並み減額される可能性も指摘されている。
実際に今年6月、ロシア政府は現行のクリル発展計画を修正し、投資総額を大幅に削減する政府令を発出した。なかでも連邦予算からの支出の削減が顕著となっており、今後の北方領土でのインフラ整備への影響は避けられそうもない。今年択捉島で予定されていた自動車道で、整備費用の支払いが滞り工事がストップするなど、既に実質的な影響も出始めている模様だ。
ウクライナ戦争の影響は、近年国に代わってクリル発展計画を支えてきたサハリン州の財政にとり、より顕著なものとなっている。2016年以降赤字財政が続いてきたサハリン州だが、日本の政府や民間企業も参画する「サハリン1」および「サハリン2」石油天然ガス開発プロジェクトに、州の財源の多くを依存してきた。しかしウクライナ戦争によって、その財源そのものが打撃を受けつつある。
特にサハリン1については、オペレーターの米エクソンが撤退を表明し、制裁の影響によって現在生産がほぼ停止状態に陥っている。ロシアの極東地域を統括するトルトネフ副首相によれば、サハリン州は来年全収入の最大26%を失う可能性があるという。10月7日、プーチン大統領はサハリン1に対してもサハリン2と同様、新設する会社に事業を移管する大統領令を発出し生産の立て直しを図るが、ロシアの専門家によると、サハリン1をこれまでと同じ生産規模に戻すには、時間的にも技術的にも多くの困難を伴う可能性があるという。
サハリン1やサハリン2の問題は、対露制裁と日本のエネルギー安定供給のあり方という観点からの議論が求められる重要なテーマだが、今サハリン1がサハリン州の財政に大きな打撃を与えつつある上述の側面についても、北方領土問題を抱える日本としては留意しておく必要がある。なお、サハリン2の先行きについても、英シェルの撤退により、不透明感が拭えない状況になっている。
いずれにせよ、ロシア政府やサハリン州による北方領土の開発計画は、ウクライナ戦争により、これまで通りには進まない可能性が出てきた。北方領土への民間投資にしても、ロシア政府は大型免税制度への海外からの投資を期待するが、ウクライナ戦争が長期化の様相を呈するなかで外国企業による大規模投資というのも考えにくい。こうした島の状況を踏まえ、日本としては一方的な合意破棄などのロシア側の揺さぶりに動じることなく、冷静に、「ウクライナ後」も見据えた長期的視点で対露政策を立て直していくことが求められている。
出典:ロシア国家統計庁のデータをもとに筆者作成(いずれの年も1月時点)
*歯舞群島には定住者が存在しないためデータもない。
択捉島に流れる温泉の川、筆者撮影
国後島の柱状節理、通称「材木岩」、筆者撮影
択捉島、筆者撮影