日本は国土も小さく資源もない、優秀な人材だけが国の支えである。以前はこの言葉をよく耳にしたが、最近はあまり聞かない。
1990年代、日本の1人当たりGDP(国内総生産)はOECD(経済協力開発機構)加盟国中2~3位だった。これは日本人の能力が高いからだと信じられていた。
しかし、2010年代以降はずっと20位前後で低迷したままである。
IMF(国際通貨基金)世界経済見通し(2021年10月)のデータに基づいて日本の1人当たりGDPの推移を見ると、1990年を100とすれば、2000年151、2010年174、2020年155。
1990年代は5割伸びたが、2000年以降20年もの間、ほぼ横ばいである。
この間、中国は1990年を100とすると、2000年274、2010年1297、2020年3030と30年間で約30倍となった。
同様の比較方法で韓国を見ると、2000年186、2010年349、2020年479と30年間で約5倍となっている。
日本の1人当たりGDPがOECD諸国、あるいは東アジアの中韓両国と比較して、相対的に低下しており、しかもその低下幅が大きいことが分かる。
人材に関して言えば、人材を育成する教育面でも日本の相対的低下が目立っている。
日本は1980年代に詰め込み教育批判が高まったことへの反省から、1990年代に入ってから、「ゆとり教育」の実践へと舵を切った。
具体的には、1992年に公立学校の週休2日制を導入、1996年には学習指導要領の改定により学習内容を削減した。
しかし、その直後からOECD諸国内の学習到達度調査(PISA)の順位が低下するなど学力低下が指摘されたため、徐々に「ゆとり教育」の見直しを図ってきている。
2018年のPISAの結果を見る限り、科学や数学面では回復が見られたが、読解力の低下には歯止めがかかっていない。
また、大学についても、日本から米国の一流大学・大学院への留学生数が大幅に減少したこと、日本の主要大学の世界ランキングが長期的に低下傾向にあることなどが指摘されているなど、日本の高等教育水準も相対的低下が指摘されている。
こうした学力低下は日本企業の学力軽視が背景にあると筆者は考えている。
中国、韓国などは上記のような所得水準の大幅な向上を支えに、高学歴社会へと急速に変化し、米国一流大学への留学生も大幅に増加した。
その結果、大卒人材のみならず、欧米主要大学での博士課程修了者も大きく増加している。
中国では中央政府機関、北京市・上海市・深圳市等地方主要都市の政府機関、主要な国有・民間企業に関しては、新規採用の前提が博士課程修了者であり、少なくとも修士課程修了者以上であることが就職審査の最低条件となっている。
大卒は書類選考の段階ではねられる。
日本企業は依然として大卒が採用の中心であり、博士課程修了者のための採用基準や給与体系の整備が遅れている。
博士課程修了者を採用する場合、修士課程修了者の基準に合わせて年齢分を加味するケースが多く、高い専門的能力を考慮したハイレベルの処遇制度はほとんど存在していない。
修士課程修了者と博士課程修了者では専門知識のレベルが異なるほか、修了までに要する時間とコストも大幅に異なる。
それにもかかわらず、両者を同等に処遇していれば、優秀な人材を採用できないのは当然の帰結である。
欧米の一流グローバル企業では、マーケティング、研究開発、ITシステム、会計・税務、統計など、様々な分野で高度な専門知識が求められるようになっている。
このため、博士課程修了者の高度な知見がなければ、グローバル市場での激烈な競争についていけなくなるのは明らかである。
世界中の超一流企業が技術開発でしのぎを削るシリコンバレーにおいて、米国、中国、インドなどの研究者の存在が目立つが、日本人は少なく、日本企業の存在感も軽い。
以上のように、欧米の一流グローバル企業との競争では、日本人の学力低下の影響が深刻化しつつある。
しかし、当事者の日本企業に危機感は乏しく、この問題に真剣に取り組む姿勢は見られていない。
それは博士課程修了者レベルの高い専門性の必要性を理解するリーダーが企業内部に少なく、この問題の重要性を認識できていないことが一つの要因と考えられる。
こうした専門性の高い人材を軽視する経営姿勢が日本企業の競争力を長期的に低下させ、日本の1人当たりGDPの低迷が続いている要因の一つになっていると見るべきであろう。
人材に関するもう一つの重要な問題は、一般の従業員の賃金水準が低く抑えられていることである。
一定の利潤を得ている企業は賃上げを実施できるはずである。
しかし、多くの日本企業はそうせずに賃金上昇を抑制し、高い利益率を確保して株価の安定を図り、収益拡大の恩恵を株主に還元することを重視している。
一方、従業員は賃金を低く抑えられ、消費の抑制を余儀なくされ、日本全体の内需も伸びない状況が続いている。
これではいつまでたっても日本経済は回復しない。
これと似た企業行動の問題がもう一つある。
大企業がサプライヤーに部品等を発注する際に、厳しい価格引き下げを要求してコストを引き下げ、収益を確保するケースが多いという話である。
この結果、サプライヤーの利潤が拡大せず、その従業員の賃金も低いままである。これもまた内需低迷の原因となっている。
日本の経営者が自社の従業員やサプライヤーを株主と同等に重視すれば、賃金が上昇する余地が拡大するのではないだろうか。
立場の弱いサプライヤーへの圧力を用いて値下げ要求し、その恩恵にあずかって完成品の価格を抑えて競争力を確保するのは、サプライヤーに対する軽視である。
自社の従業員同様、サプライヤーの努力も適切に評価し、付加価値に見合った価格設定で購入し、最終製品の価格に反映させるべきである。
それでも最終製品が売れるようなマーケティングを行うのが最終製品の大企業メーカーの責務ではないだろうか。
多くの企業経営者はお客様重視というスローガンを掲げて、コストが上がっても製品・サービス価格を据え置くことを企業努力としてセールストークにしている。
しかし、多くの場合、顧客、経営者および株主はその恩恵を受けるが、従業員やサプライヤーは犠牲になっている。
毎日の仕事の中で職場の仲間とともに熱心に業務改善に取り組み、品質改善、生産性向上等の成果をあげているにもかかわらず、それに見合った賃金引き上げは見送られているのが実態である。
製品・サービスの付加価値を定義し定量化することは難しい(財務指標から機械的に算出することはできるが、それは真の付加価値を示しているとは限らない)。
それを価格の上で的確に表現するのはさらに難しい。
日本国内市場の規模は拡大せず、市場競争も厳しいため、価格引き上げにも売り上げ増大にも限度がある。
値上げによる売り上げ減少のリスクを恐れて、企業がチャレンジを回避するケースも多い。
したがって、一般的には日本国内市場にとどまっている限り突破口が見つからない可能性が高い。
海外市場への進出には優秀な人材が必要である。
海外市場のニーズを的確に把握し、高度な技術を駆使して市場ニーズを満たす研究開発を行い、生産性向上によりコストを削減する。
これらを実現する優秀な海外人材は、多くの場合博士課程修了者である。優秀な人材を使いこなす経営者が世界中の従業員を幸せにすることができる。
一般に賃金はコストであり、低い水準で安定していることが望ましいと考えられている。しかし、視点を変えれば、賃金は従業員の生活を支える糧である。
低賃金は従業員を苦しめる。本来従業員を家族のように大切にするのが日本企業の美徳である。
その美徳を実践しようとすれば、顧客への販売価格、株主への配当、従業員の賃金、系列企業からの部品等購入価格等の望ましいバランスを考えなければならない。
しかし、これに関する明確な答えは経済理論からは得られない。
中国古典の「大学」はこうした問題を考える際に「物に本末あり」と説いている。「本」は人として進むべき道であり、「末」はそこから得られる成果である。
「本」から始めれば、「末」を得ることができるが、逆は成り立たない。
「末」=成果を得ることを最優先に考えて行動すれば、人の道を踏み外し、中長期的には周り人たちの協力が得られなくなる。
物事を考え、実践する時に、順序をわきまえれば人の道に近づき、得られるべきものが得られるようになるということである。
企業経営において、利益や株価の上昇は「末」である。これらを得たいと思うのであれば、まずは「本」からスタートし、顧客、従業員、サプライヤーを大切にすべきである。
その基本理念をしっかりと念頭に置き、個別の製品・サービスごとに市場環境に合わせて適切なバランスを考え、実践する。途中で経営環境が変化すれば、状況に合わせて柔軟にバランスを調整する。
こうした努力を継続することにより、次第にバランスの取れた経営を実現できるようになる。これが中国古典の説く優先順位の発想である。
この考え方は、前段で述べた博士課程修了者の処遇についても、後段の一般従業員の賃金についても当てはまる発想である。
この基本理念に基づいてブレない経営を実践する日本企業が増えれば、企業の競争力は高まり、賃金上昇とともに日本全体の内需も増大し、日本経済の復活が実現する筋道が見えてくるはずである。
激動の時代だからこそ、時代の荒波に流されないよう「物に本末あり」の理念の支えが必要である。
それを土台に、博士課程修了の高度な人材も一般従業員もともに大切にする日本企業がグローバル市場で活躍することを期待したい。