菅義偉政権の下での温暖化対策の暴走が止まらない。ついに日本のエネルギー政策の根幹を定めるはずのエネルギー基本計画の案にまで無謀なCO2削減目標が書き込まれた。このままでは日本経済が壊滅し、エネルギー安定供給が失われる。中国への依存も高まり日本は戦わずして敗北する。
菅政権は昨年末の「2050年CO2ゼロ」宣言に続き、今年4月には30年度のCO2削減目標を13年度比で従前の26%から46%にまで一気に20%も深掘りした。いずれも官邸主導である。良く言えば高い目標を掲げたトップダウンだが、悪く言えば経済や安全保障という重要な国益を無視した暴走だ。
日本はエネルギー政策の方向性を定めるために定期的にエネルギー基本計画を策定してきた。今般の改訂においては、菅政権のCO2目標の深掘りが反映されることになった。政府が8月4日に示した計画案では、どの部門でも大幅なCO2の削減が見込まれている。30年度の排出量の削減量は13年度比で、家庭部門で66%、業務部門で50%、産業部門で38%となっている。
また発電部門では、30年の電源構成として太陽光発電等の再生可能エネルギーの割合を「36%から38%」とし、3年前に策定された第5次計画の「22%から24%」から大幅に引き上げた。ただし同計画案では、これまでと異なり、業種や取り組みごとの詳細な削減目安は示されておらず、対策が列挙されるに留まっている。経済負担も示されていない。
つまりは46%という削減目標を具体策の裏付け無く振り分けただけで、数字の辻褄合わせに終始したものだ。この実現可能性については、異論が噴出している。
国民負担は消費税倍増に匹敵
現在の日本のCO2削減量は2013年度比で13%だから、46%といえば今から33%もわずか9年で削減することになる。13年といえば原子力発電が全て止まっていた年である。これを全て再稼働させても26%までの削減がやっとであると見られていたが大変な目標の深掘りとなった。
計画案でこの達成手段として挙げられているのは、太陽光発電などの再生可能エネルギーの大量導入と大幅な省エネである。
案の検討段階では「太陽光発電はいまや原子力発電よりも安くなった」との試算も示され、盛んに報道された。ただしこれは太陽が照っていないときのバックアップのための火力発電のコストなどが入っていない試算であり、極めてミスリーディングなものだった。
そこを政府が修正したところ、1キロワット時あたりの発電コストはやはり事業用太陽光は高くなった。原子力、石炭火力、液化天然ガス(LNG)火力の方が大幅に安くなったのだ。
しかしながら、当初の試算結果が大きく報道された結果、太陽光発電が最も安いと信じる人々が増えてしまった。太陽光推進派による悪質な世論操作だといえよう。
さて将来についての皮算用ではなく、これまでの太陽光発電の実績はどうかといえば、日本のCO2を2.5%削減するために毎年2.5兆円の賦課金を国民が電気代への上乗せとして負担している。つまり、1%のCO2削減に1兆円も掛かっているわけだ。
このペースであれば、20%の深掘りには毎年20兆円が追加で掛かる。20兆円といえば、奇しくも今の消費税の総額に等しい。ということは、46%の目標達成のための追加の国民負担は、30年までに消費税率を20%に上げるのと同等になる。きわめて深刻な経済負担だ。
省エネなら安く上がるかというと、そうでもない。過大な目標設定の下で経済負担が膨らむことが懸念される。「良い省エネ投資」は経済的にメリットがある。だが何十年経っても投資を回収できない筋の悪い省エネ投資もいくらでも存在する。
例えば既存の住宅の断熱改修を300万円かけて実施した結果、光熱費が年間3万円節約できるとしよう。この投資は元を取るには100年もかかる計算になる。過大な目標設定の下では、このような筋ワルの省エネ投資が増えてくる懸念が大だ。省エネはエネルギーの節約だからイコール良い事だというイメージがあるが、そうでもない。現実には費用を逐一検討しないといけない。
日本政府は「グリーン成長」で経済成長とCO2削減を両立するという綺麗ごとを言っている。そして莫大な費用がかかることは隠している。
環境省が6月21日に開催した炭素税に関する審議会では、CO21トン当たり1万円の炭素税を導入しても、税収の半分を省エネ投資の補助に使うことで、経済成長を損なうことなくCO2削減ができる、と主張していた。
だがそんなはずはない。日本の年間CO2排出量は約10億トンなので、1トンあたり1万円ならば税収は10兆円となる。これは消費税収20兆円の半分にあたるから、消費税率を10%から15%に上げるのと同じことになる。常識的に考えて、これは大変な不況を招く。
「炭素税収を原資に省エネ補助をすれば経済は成長する」という見解もナンセンスである。
「政府が税金を取って、民間に代わって投資する」ことで経済が成長するという考え方は、経済学の常識に反する。特に省エネ投資のように、無数の企業や市民が自分の利害に直結する意思決定をする場合は、なおさらである。
政府の補助があったので購入したものの受注が不調で使われていない、といったピカピカの無駄な機械は日本の至るところにある。
政府の事業はよく失敗する。決して役人が無能なのではない。政府の事業には、政治家が介入し、官僚機構は肥大し、規制を歪ませて自らに利益誘導しようとする事業者が入り込むから、いわゆる「政府の失敗」が多いのだ。
屋根の上のジェノサイド
現行の計画案は日本を弱体化させるのみならず、中国依存を危険なまでに深める。まるで中国のために書かれた計画のようだ。
本誌7月号に書いたように、中国の5カ年計画では2025年までの5年間で排出量は1割増える。この増加分だけで日本の年間排出量12億トンとほぼ同じだ。また日本の石炭火力発電能力は約5千万キロワットであるが、中国は毎年、これに匹敵する発電所を建設している。
日本が自滅的に経済を痛めつけようとする一方で、中国は相変わらず、事実上全くCO2に束縛されず経済成長を続けるわけだ。
それだけではない。太陽光発電や電気自動車は中国が大きな産業を有している。日本が規制や補助金で強引に作り出す市場に、中国製品がなだれ込んでくるだろう。同じことはバッテリーなどの部品のレベルでも起きて、日本のサプライチェーンの中国依存はますます深まる。
日本は自滅し、中国に棚ぼたが転がり込む。気候変動という、日本が冒された奇妙な新興宗教の顛末に、中国は笑いが止まらない。
現行の計画案では、30年度まであと9年しかないにも関わらず大幅なCO2削減をするための手っ取り早い手段として太陽光発電の大量導入が目玉になっている。
折しも太陽光発電にはさまざまな問題が噴出しているが、その不都合な真実を覆い隠して、ひたすら数値を積み上げた格好だ。
太陽光発電パネルは確かに従前よりは安くなった。だがまだ消費者の電気料金への賦課金を原資に莫大な補助を受けている。それに太陽が照った時しか発電しないという問題は全く解決していない。このためいくら太陽光発電を導入しても火力発電所は相変わらず必要なので二重投資になる。
のみならず、安価に設置できる場所も減ってきており、これも今後の高コスト要因になる。小泉進次郎環境相はまだ空いている屋根があるから設置をすればよいと言ったが、なぜその屋根がまだ空いているのか、理由を考えなかったのだろうか? これまでも莫大な補助が与えられてきたにも関わらず、それでも採算が合わなかったのだ。
そもそも太陽光発電が環境に優しいのかも疑わしい。
屋根ではなく地上に設置するほうがコストは安くなるが、広い土地を使う。農地や森林がその代償で失われる。施工が悪ければ台風などで破損したり土砂災害を起こしたりして近隣に迷惑が掛かる例がすでに発生している。
しかも問題はこれに止まらない。太陽光発電の世界市場を席捲している中国製品は、強制労働との関係の疑いが濃厚なのだ。
米国は6月23日、ウイグルでの強制労働に関与した制裁として中国企業4社をブラックリストに載せた。この4社は太陽光発電の心臓部にあたる多結晶シリコンの精錬と結晶製造にあたる最大手企業で事実上、ほとんどの中国製太陽光パネルが米国への輸入禁止になったとみられる。
太陽光パネルは唾棄すべき理由で安価になった。多結晶シリコンは、世界の45%がウイグル地区で生産されている。残りは30%がウイグル以外の中国であり、中国は合計で75%となっている。他の国々での生産は全て合わせても25%だ。
日本の太陽光発電パネルはいまや8割が海外製品になっており、中国製品も多い。米国並みの措置を日本も採れば、太陽光発電の導入には急ブレーキがかかり、価格高騰も避けられないはずだ。
ああ、それなのに、エネルギー基本計画案では太陽光発電の性急な大量導入が謳われている。いまそれをすれば、中国製品が溢れかえることは目に見えている。
このままでは、国中の山林や屋根に太陽光パネルが設置される。我々はそれを見るたびにおぞましいジェノサイドを思い出すことになる。日本の国策が強制労働を助長するとは何たることか。
安定供給が脅かされる
計画案では、化石燃料の調達は大幅に減ることになっている。これもCO2削減と辻褄を合わせるためだ。だがこれでは「エネルギーを安定して調達する」という日本のエネルギー政策の根幹が損なわれる。こんな計画を作るぐらいなら資源エネルギー庁など存在理由が無い。
計画案を見ると、2030年度の発電量のうち天然ガス火力は20%、石炭火力は19%を担うとなっている。19年度の比率はそれぞれ37%、32%であったから、大幅なシェアの減少である。総電力消費量も大幅な省エネによって落ち込むことになっているため、発電用の燃料消費量はガスも石炭も現在の半分程度になる。
もちろん現実には、再生可能エネルギーの大量導入と大幅な省エネのいずれも実現可能性が乏しいし、原子力発電所の再稼働も順調に進むとは限らないから、ガスおよび石炭への依存度はもっと高くなる可能性が高い。
このような状況下において、日本政府として消費量を半減するという予測を発表することは極めて有害だ。なぜなら、エネルギーは戦略物資であり、常に容易に購入できるとは限らないからだ。それは国レベルで資源国との関係を築き、長期的に安定して調達するものだ。先の大戦や石油ショックの経験を踏まえ、日本は必死になって化石燃料を調達してきた。そもそもの資源エネルギー庁の存在理由も此処にある。
にも関わらず、いきなり9年後に石炭とガスの消費量が半分になるという計画を示すことで、資源供給国からは需要拡大の将来性が無いと思われて相手にされなくなる。安定供給に重要な役割を果たす数十年にわたる長期の契約を結ぶことも出来なくなる。価格交渉においても不利になる。
計画案では原子力発電についての記述も物足りない。30年度の発電量におけるシェアは20~22%とされており、現存する全ての原子力発電所の再稼働は見込まれることになった。ただし、新設および増設については踏み込めていない。これでは経済成長を実現しつつCO2を大幅に削減することなど覚束ない。
自公政権の驕り
現行の計画案を実施すると消費税倍増に匹敵する莫大な経済負担があると述べた。つまり30年度までに消費税率を20%に上げるのと同等の国民負担になる。これを明言すれば、いかなる政権も安泰ではいられまい。
実際に海外では、経済負担が明確になるにつれて国民の抵抗が始まっている。
スイスでは、30年までにCO2を半減するという「CO2法改正案」が国民投票で否決された。産業団体が署名を集め、国民投票に持ち込んだのだ。彼らは「CO2法に反対する経済委員会」を組織して反対キャンペーンを展開した。ポスターには「お前、頭、大丈夫か? また税金だって? 高くて、役立たず、不公平。誤ったCO2法にノー」とあった。同案はスイスの主流政党・メディアにより幅広く支持されてきたものだけに、否決の衝撃は大きかった。
英国では、家庭の暖房において主流であるガスを禁止して電気式のみにする、さらにはガソリン自動車を禁止して電気自動車のみにする、といった政策が検討された。だがその費用が世帯当たりで数百万円に上るという試算が白日の下に晒されると、ジョンソン政権のお膝元の保守党議員、ベーカー元ブレグジット担当閣外相が公然と反旗を翻した。
同氏は大衆紙サンに「脱炭素―ガス使用禁止で貧しい人が寒さに震える」と題した記事を書き「このままではサッチャー政権の人頭税導入の時のような政治危機になる」と主張した。日本でもエネルギー基本計画を実施に移そうとすると、消費税増税を上回る政治危機になるかもしれない。
英国では、ブレグジット論争のときに、多くの大衆が左派的なEUの政策を嫌い労働党支持から保守党支持に回った。いまその大衆が、左派エリートの贅沢な趣味であるCO2削減策を押し付けられ経済負担を負わされつつある。ベーカー氏ら英国保守党員は、このままでは大衆の支持を失い、保守党が政権を失うと恐れている。
翻って菅義偉政権を見ると、やはり左派的な政策を推進する人々が目立ってきた。そこには政権が何をやっても与党の岩盤支持層は絶対に投票してくれる、自公政権は盤石だという驕りが見られる。だが国民の経済と安全をもっと真剣に考えないと、遠からず厳しい審判が下るのではないか。
極端なCO2削減の根拠として「地球は気候危機にある。破局を避けるには2050年にCO2排出をゼロ、つまり『脱炭素』しなければならない」という言説が流布されている。
だが本誌4月号でも述べたように、この「気候危機説」はフェイクに過ぎない。莫大な費用をかけて「脱炭素」をするほどの科学的根拠など、どこにもない。
台風、大雨、猛暑などの観測データを見ると、地球温暖化による災害の激甚化などは皆無であったことが分かる。
今後も感じることができないぐらい緩やかな地球温暖化は続くかもしれない。だが、破局が訪れる気配はない。「気候危機」なるものは、どこにも存在しない。
国民は、気候危機説にとって「不都合なデータ」を隠蔽されて脅迫され、「脱炭素」という莫大な経済負担を伴う無謀な目標に駆り立てられている。
亡国の計画案
以上見たように、現行のエネルギー基本計画案は、科学的根拠は無く、数値目標は無謀で、日本経済を破滅させ、中国依存を深め、エネルギー安定供給を脅かす。日本は戦わずして中国に事実上敗北し、経済的、政治的に支配されるようになるだろう。
同計画案はパブリックコメントを経て10月にも閣議決定される段取りになっている。だが、かかる亡国の計画は、廃案にすべきだ。
だがもしも閣議決定するならば抜本的に見直すべきだろう。
同案における数値の位置づけは、苦渋の霞が関作文になっている。即ち数値は「エネルギー需給に関する様々な課題の克服を野心的に想定した場合に、どのような見通しとなるかを示すもの」とされている。これは常識的な感覚で読めば、経済負担や安定供給といった課題が克服されない限りは強行する数字ではない、と読める。つまり数値は目安であり、あらまほしき姿を描いた努力目標に過ぎないわけだ。
けれども実態としてはこの計画の実現を名目として、弊害の大きい法令が策定されてゆく恐れが大だ。これを防ぐために、閣議決定にあたっては、「数値は強行される性質のものではないこと、計画の実施にあたっては経済負担や安全保障棄損などの負の側面について逐一検討し、悪影響が懸念される場合には柔軟に計画を見直すこと」とダメ押しし、その性格付けをはっきりさせておくべきだ。