メディア掲載  グローバルエコノミー  2021.09.02

ニクソンショック50年(下) 国民生活改善への転機に

日本経済新聞 「経済教室」2021年8月26日掲載

経済理論 国際金融 経済政策 通商政策

ポイント
変動相場制で政策手段選択の自由度拡大
円高が企業の本格的な国際化の引き金に
日本経済の国際的な地位の向上にも寄与



50
年前の1971年8月16日朝(米国時間8月15日夜)、ニクソン米大統領は、金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金賦課、90日間の賃金・物価凍結などを骨子とする新経済政策を発表した。第2次世界大戦後の国際通貨体制、いわゆるブレトンウッズ体制を支えてきた金・ドルの固定価格での自由な交換を停止するという声明は衝撃的だった。

もっとも、日本の経済界には当初、金・ドルの交換停止をそれほど重く受け止めず、むしろ10%の輸入課徴金の影響を懸念する向きもあった。8月16日付日経新聞夕刊では、藤本一郎氏(川崎製鉄社長)、神谷正太郎氏(トヨタ自動車販売社長)らが10%の包括輸入課徴金の実施について「これによってわが国は大きな影響を受けるだろう」と憂慮する一方、今里広記氏(日本精工社長)は「これで円切り上げはなくなった」との見方を示している。

だがその後の展開はこうした見通しとは大きく異なるものとなった。8月24日から欧州諸国が暫定的に変動相場制に移行し、同28日に日本も追随した。その下で円高が進行して11月末に円相場は平価の1ドル=360円より9.76%円高の328円まで切り上がった。

12月には日本を含む主要10カ国による多国間通貨調整が米ワシントンで実施され、新たな固定為替レートの体系(スミソニアン・レート)を設定する協定が締結された。円ドルレートは以前の平価より16.88%円高の1ドル=308円に設定されたが、短命に終わる。73年3月に主要国は全面的に変動相場制に移行した。

以後、今日まで半世紀近くにわたり変動相場制が継続している。その意味でニクソン・ショックは、国際通貨体制の戦後史における大きな転換点だった。

ニクソン・ショックの背景には米国の大幅で持続的な国際収支赤字があった。ベトナム戦争などによる財政支出の拡大とそれに伴うインフレが経常収支赤字をもたらし、対外直接投資と援助による資本収支赤字も加わった。経常収支赤字の主な相手国は日本だった。

49年以来、円ドルレートは1ドル=360円近辺に固定されていた(図参照)。しかしその間に米国でより速くインフレが進行したため、日米の相対物価(日本の企業物価指数/米国の生産者物価指数)でデフレート(価格修正)した実質為替レートは60年代末に平価より10%程度の円安となっていた。このため早晩、何らかの通貨調整ないし通貨レジーム(枠組み)の変更が不可避の状況にあった。

ニクソン・ショックは国際通貨体制の転換点だっただけでなく、日本にとっても経済政策、企業経営、日本経済の国際的地位や国民生活の水準など多くの点で画期となった。

第1に経済政策については、変動相場制への移行は政策手段選択の自由度を拡大する意味を持った。

変動相場制移行以前の日本では、金融政策は基本的に国際収支の調整という目的に割り当てられていた。すなわち日銀は政府と調整のうえ、景気が過熱し経常収支が赤字になれば金融を引き締め、景気後退により経常収支が黒字になれば金融を緩和するという政策運営を続けていた。

ニクソン・ショック直前の70年10月からショック後の71年12月にかけて、日銀は公定歩合を5回引き下げて金融を緩和した。これは70年秋以降の景気後退とニクソン・ショックに対応するための措置だった。さらに景気が好転していた72年6月、円切り上げ後も経常収支黒字が解消しないことを受け、再度の円切り上げを避ける目的で、もう一段の金融緩和が実施された。

そしてこの一連の金融緩和が、マネーストック(通貨供給量)の増加を介して73~74年の大規模なインフレ、いわゆる「狂乱物価」の原因となった。景気が上向く中で追加的金融緩和が実施されたのは以下のような事情による。固定相場制の下で為替レートによる国際収支調整が機能しなかったので、金融政策を経常収支黒字削減のために使用せざるを得ず、インフレ抑制のための金融引き締めを機動的にできなかったのだ。

変動相場制への移行はこの制約を取り除いた。こうした政策手段選択の自由度の拡大は、後に起きる第2次石油危機への対応に生かされた。イラン革命を背景に、79年には原油価格が前年の2.7倍に高騰した。日本経済に対し、購買力の産油国への移転を通じて不況圧力を加えるとともに、コスト面からインフレ要因となり、さらに経常収支赤字をもたらした。

この状況下で日銀は79年4月から80年3月にかけて5回にわたり公定歩合を引き上げた。変動相場制の下で、国際収支と景気の調整は為替レートの変動と財政政策に委ねられ、金融政策は主にインフレ抑制のために割り当てられた。そしてこの機動的な金融引き締めが、第2次石油危機時の日本のインフレ率を小幅に抑えることに貢献した。

第2に企業経営については、ニクソン・ショック後の円高が企業の本格的な国際化の引き金になった。トヨタ自動車の社史は、拡大しつつあった同社の対米輸出にとって「アメリカ政府による新経済政策、いわゆるニクソンショックと、それに続く円高時代の到来は大きな衝撃であった」と記している。これに対応するため、米現地法人の経営幹部に米国人を登用するなど「現地主義経営体制」を導入するとともに、欧州諸国への輸出を本格化した。

またパナソニックの社史は「ドルショックによる円高とその後の変動相場制への移行を迎えた1970年代以降は、世界市場をにらんだ再輸出拠点の整備へと戦略を転換していった」と記している。こうした個々の企業の動きは、日本からの直接投資のマクロ的な動きに反映し、直接投資の許可・届け出額は65~69年の18.8億ドルから70~74年の99.9億ドルに急増した。

第3に円高は日本経済の国際的地位を引き上げた。図には円ドルレートとともに、それにより換算した国内総生産(GDP)と1人当たりGDPの日米比を示した。円高の進行に伴い、70年に米国の約20%だった日本のGDPは80年には約40%となり、日本は文字通り経済大国としての地位を確立した。75年に仏ランブイエで開催された6カ国による第1回先進国首脳会議に日本が招かれたのは、これを象徴する出来事だ。

最後に国民生活も大きく変化した。為替レートで換算した日本の1人当たりGDPは80年に米国の77%に達した。個々の国民の視点からみると、円高は輸入品や海外で購入する財・サービスの価格を低下させた。

例えば60年代、海外旅行は大多数の国民にとって文字通り夢のような対象だったが、80年代には大学生が卒業記念に海外に行くことが珍しくなくなった。実際、70年に66万人だった年間の日本人出国者は85年には495万人に増えている。

ニクソン・ショック後の円高は経済成長の果実を国民に広く分配することを通じ、日本人にそれまでにはない豊かさをもたらした。