コラム  国際交流  2021.07.28

『東京=ケンブリッジ・ガゼット: グローバル戦略編』 第148号 (2021年8月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

7月は創立百年を迎えた中国共産党の将来に関し、様々な情報を基にして友人達との議論が続いた。

Foreign Affairs誌(7・8月号)は“Can China Keep Rising?”と題して、また英The Economist誌(6月26日~7月2日号)は“Power and Paranoia: The Chinese Communist Party at 100”と題し、様々な側面から中国を分析しているが、西側諸国における対中不信の深まりに改めて驚いている。

米国調査機関(Pew Research Center)の資料を見ても多くの国が抱く対中イメージが次第に厳しくなってきた事が分かる(p. 4の表1を参照)。表が示す通り、対中経済関係を重視しているドイツも、日本と同様に中国に対し全般的な“警戒心”を抱いているようだ。他方、近年まで中国に対し好感を抱いていた英国・カナダ・豪州が、昨年から厳しい態度に変わってきている。またThe Economist誌(7月17~23日号)は、優れた中国専門家による近著5冊を紹介している—①弊研究所に以前約半年滞在したHarvard Kennedy School (HKS)のトニー・セイチ(赛奇)教授の著書で小誌5月号でも触れたFrom Rebel to Ruler、②ジョージ・ワシントン大学のブルース・ディクソン(狄忠蒲)教授によるThe Party and the People、③同じ大学のディヴィッド・シャンボー(沈大伟)教授によるChina’s Leaders、④英国の元外交官であるロジャー・ガーサイド(盖思德)氏のChina Coup、そして⑤ボストン大学のジョセフ・ヒュースミス(傅士卓)教授によるRethinking Chinese Politicsだ。

翻って“21世紀のマルクス主義(21世纪马克思主义)”を標榜し、“国際秩序の庇護者(国际秩序的维护者)”たらんとする自信満々の中国も、日本をはじめ諸外国に厳しい口調で語りかけている。例えば7月3日、王毅外相は、清華大学で開かれた国際会議で、日米によるインド太平洋戦略(印太战略)は“冷戦思想的復活(冷战思维的复辟)”を示すもので、「地政学的で“矮小な勢力圏”(地缘争夺的“小圈子”)を生み出す」と批判した(World Peace Forum: International Security Cooperation in the Post-Pandemic Era: Upholding and Practicing Multilateralism, 次の2参照)。また7月13日、“戦狼外交(战狼外交)”の旗手である外交部の趙立堅報道官は、定例記者会見の場で日本外交を“虚言外交(谎言外交)”と呼んだ。

当然の事として、日米中の3ヵ国の間で国益が互いに対立する点が存在する事自体不可避である。それだからこそ大局的・長期的観点に立って出来得る限り摩擦を最小限にし、妥協点を探り合うのが外交ではなかろうか。大国としての矜持を持つべき中国が、“战狼外交”を採る事に疑問を禁じ得ない。これに関し筆者は張維為復旦大学教授の著書(«中国震撼: 一个“文明型国家”的崛起»)の中の文章を基に論じている。張教授は同書の中で、「西洋諸国の知恵は“相違点を探り求める事(求异)”である一方、“文明型国家”たる中国の知恵は“共通点を探り求める事(求同)”である」事を強調している。もしも張教授の主張が正しいならば、中国に智謀溢れる“求同”戦略に期待したいものである。

将来の中国外交に関し、米Brookings Institutionの研究者である李成氏は、小誌前号に記した著書(Middle Class Shanghai: Reshaping U.S.-China Engagement)の中で、海外生活を経験した上海に住む中間層の中国人に期待している。近代中国は海外留学生の活躍によって発展を遂げてきたと考えているのだ(p. 4の表2を参照)。確かに彼が語る通り、海外生活の経験を持つ筆者の中国の友人達は人格・知識共に優れている(誤解を招かぬよう、筆者自身が中国国内で知り合った友人で海外経験を持たない人々の中にも素晴らしい人が多数いる事を付記しておきたい)。

なかでも或る友人がHarvardで筆者に語った言葉が印象深い—「(2001年) 9・11の時、World Trade Centerが崩れ落ちるのを見て、清華大学で友人と“米帝”の没落として喜んだ。だが、渡米後に善良な米国人と知り合った結果、自分の考えが間違いだった事に気付いた」と筆者に語ってくれた。筆者は「単純な話だよ。君の国にも、この米国にも僕の日本にも、善良な人とそうでない人がいるんだ」と答えた事を思い出している。

しかしながら「海外を必ずしも正確に理解していない14億の人々が住む世の中で、中国に帰国した人々が対外協調の“求同”的精神を貫けるかどうか不安だ」と友人達と議論している(そして太平洋戦争前、山本五十六提督等知米派の日本人は国内で少数派だった事を思い出している)。

さて現在、コロナ禍の最中で平和の祭典であるオリンピックが東京で開催されている。

日本をはじめ各国の優れた選手達が最善を尽くす事を心から願っている。開催直後、或る海外の友人が筆者に驚くような質問をした—「サイモン・ヴィーゼンタールの本(Sunflower/Die Sonnenblume)は邦訳されていないの? ジュン」、と。筆者は「当然、翻訳されている」と答えた次第だ。同書は、開会式の演出担当者が開会直前に解任された際、問題提起した海外の組織(Simon Wiesenthal Center (SWC))に関係している。1969年に発表された後、反響を呼んで53人の世界の識者がホロコーストに関し、“謝罪”・“赦(ゆる)し”・“忘却”の観点から論じた部分が追加された有名な本だ(筆者は英語版と独語版を所有)。友人は「日本の開催担当者は善良だろうが、恐らくOlympic Gamesが“世界全体”の行事だという認識が欠けていた。(53人の)識者の中にはダライ・ラマや中国人がいるが、日本人はいないからね」と語った。確かにこれは筆者にとり耳に痛い言葉であったが、「そうした見方も有るのか」と頷いた次第だ。そしてWiesenthalの本の中の次の言葉を思い出している。

「沈黙にも多くの種類がある。沈黙は言葉より雄弁に語る事があり、様々な意味に解釈される事がある(There are many kinds of silence. Indeed it can be more eloquent than words, and it can be interpreted in many ways)」。

「問題の核心は、言うまでもなく‘赦す事’の問題だ。忘却はただ時間のみが成し得る事であり、‘赦す事’は意志を伴う行為であり、苦しみを受けた者だけがそれを決める資格があるのだ(The crux of the matter is, of course, the question of forgiveness. Forgetting is something that time alone takes care of, but forgiveness is an act of volition, and only the sufferer is qualified to make the decision)」。

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