コラム 国際交流 2021.07.14
小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。
コロナ禍の世界経済には、残念な事に国家間・国内部門間に回復速度の著しい格差が生じている。
5月末に公表されたOECDの経済予測によれば、日本経済は快走する中国に比して見劣りするものの、危機の初期的落ち込みが相対的に小さかったため、新型コロナウイルス危機以前の水準に回復するのは諸外国の中では比較的早いとされている(p. 4の図1参照)。
注目すべき現象は、非接触が要求される今次危機の特殊性を起因とする、多種多様の経済社会活動におけるオンライン化だ。この点に関し、日本は欧米諸国に比して後塵を拝している。経済活動だけでなく医療・教育・行政等の非製造業分野でのデジタル化が急速に進展する中、日本は産官学挙げてICTに関する認識(所謂ICT literacy)の向上に努めなくては、と考えている(p. 4の図2参照)。
中国に対する警戒感が米欧諸国の間で一段と高まっている。
小誌先月号で触れたEndless Frontier Actが拡大改編されて、更には改称されて(the United States Innovation and Competition Act of 2021(USICA))、6月8日、民主・共和両党の支持を受け上院を通過した。周知の通り同法案は主として中国を念頭に連邦議会に提出されたものである。
翌6月9日、欧州ではシンクタンク(MERICS)が独中経済・技術関係に関する会合(“China and Baden-Württemberg: Strategies for Dealing with a Challenging Partner”)を開催した。Baden-Württemberg州はMercedes-BenzやBoschの自動車関連企業、更にはSAP等の国際企業が所在する地域だ。こうして独中関係を政治経済及び技術の視点からドイツの友人達と議論している。特に筆者の興味を惹いたのは、同州の企業Mahleがレアアースを必要としない自動車部品を開発した事だ。因みにMERICSは本年1月、独中関係の将来に関して、4つのレベル—①政治・金融を中心とするマクロ、②サプライ・チェーンやレアアース等に関する貿易、③イノベーション、④データ管理・通信等のデジタル分野—に分け、在中欧州商工会議所(中国欧盟商会)と共に報告書を本年1月に公表した(“Decoupling: Severed Ties and Patchwork Globalisation”)。この報告書は、対中経済関係を重視するドイツですら将来は方針変更を余儀なくされるという警戒心で満ちている。
レアアースを含む稀少資源はドイツのみならず日米両国にとって貴重だ。ホワイトハウスは先月、各種資源において中国が占める地位や、米国と“争奪戦”が起こる危険性のある資源(ニオブ(Nb)、クロム(Cr)、ロジウム(Rh)等)に関する資料を公表している(p. 5の図3, 4参照)。
先月米英両国が合意した「新大西洋憲章」について、その歴史的な意義を友人達と議論している。
ケッサクだったのは、米国の友人が「前回の大西洋憲章では日独伊が“敵”で、今度は中露が“宿敵”だ、ジュン」と言った後に、「ウォルター・ホワイト(の如き人物)は登場しなかったね」と語った事だ。Walter F. Whiteとは、米国の全国有色人種向上協会(NAACP)の活動家で、1942年、サムナー・ウェルズ国務次官に対して、Atlantic Charterに続き、中国の蒋介石やインドのガンジーと共にPacific Charter(太平洋憲章)を宣言すべきだと提言した人物だ。これに対して筆者は「確かにPacific Charter宣言は或る意味で理想的だ。しかし米国の西海岸は、東海岸に比して歴史・文化共に未だ新しい。だから中露を対象にしていても米国は未だ東側の大西洋岸が大切なんだろう」と適当な回答をした次第だ。
プーチン大統領は、6月22日、ソ独戦勃発80周年の日に独Die Zeit誌上に小論を寄稿した(„Offen sein, trotz der Vergangenheit“)—これは、「過去は過去として開かれた露独関係を」という、ドイツを露側へ引き込もうとする“誘い水”のような小論である(露語原文はKremlin.com上の«Быть открытыми, несмотря на прошлое»を参照)。米国と露中の間に挟まれ、また同時に分裂して大揺れの欧州域内で苦悶するメルケル首相引退後のドイツは、如何なる形でコロナ禍からの回復経路を採るのか、今後も注視して情報収集する必要があろう。
1941年6月22日当時、我が枢軸国側と連合国側との情報収集能力・情勢判断能力の差は歴然だった。1940年の夏、早くも連合国側は独ソ戦を察知していた(チャーチルは天才的直観に基づき、また米国は駐独大使館のサム・ウッズ商務官が諜報活動を通じて敵情を察知していた)。翻って日本には独ソ戦の知らせが“驚き”とともに届いたのだ—1940年11月の独ソ交渉が不調に終わった事を伝えた海外報道に注意を払わず、1941年2月、来栖三郎駐独大使の離任時、ヒトラーが直接伝えた独ソ関係の悪化にも注意を払わず、更には独ソ戦直前の5月、山下奉文陸軍中将率いる訪独軍事使節団が、帰路のシベリア鉄道の安全を考慮し、早期帰国を本国に事前連絡したにもかかわらず、情報は軽視されたのだ。
当時の首相、近衛文麿公爵の手記『平和への努力』を読むと愕然とする—曰く「獨蘇戰爭の勃發によりて日獨蘇連携の望は絶たれ、蘇聯は厭應なしに英米の陣營に追込まれてしまった」。外情を正確に把握する人の意見に耳を傾けない上に、独語はおろか英語もままならぬ近衛公の“脳内イメージ”は、当時の国際情勢とは完全にズレていたといえよう。これに関し、三宅正樹明治大学名誉教授は「独ソ戦への動きをまったく知らずに、この時にはもはや失われた幻影と化していた(1938年1月の所謂日独伊ソ)四国連合構想の『リッベントロップ腹案』を金科玉条としているところに、日本の情報収集能力のはなはだしい弱体ぶりが露呈されている」と語っておられる。
翌6月23日、日本よりも寧ろNazi Germanyを敵視していた米国は、独ソ戦が予期していた通り勃発して大喜びだった。陸海軍両長官が大統領にその日宛てた報告の中には、それぞれ“an almost providential occurrence”、“a God-given chance”という言葉が入っていたのだ。
そして今、種々の情報を慎重に吟味しようと、Asia-Pacificに関する国際戦略研究所(IISS)による6月の資料を友人達と議論している。