色濃く漂ってきた民主主義の後退と独裁国家の伸長。私たちはそれを「恐れるべき傾向」ととらえているが、歴史を概観すると、実は民主主義の推進のためには人類自身のその資質が求められることがわかる。自らを「家畜化」することで独裁に従う姿勢を進んで示してきた歴史もまたあるのだ。果たして、人類に将来も民主主義を担う資質はあるのだろうか―。
民主主義の未来に暗雲が漂っている。世界の至るところから独裁と隷従の伸長が聞こえてくる。しかし、実は民主主義が「最善」であるためには、それを実現するための能力も求められてきた。そもそも人類には、民主主義を担う能力などあるのだろうか?本稿で論じたい。
人類は本当に<進化>しているのか?
古来、人々に自由で独立した思考と精神が無いことを嘆く思想家は多かった。だがそれは、人類の生得的な性質なのかもしれない。
人類は多くの動物を家畜化してきた。ヒツジ、ヤギ、ウシ、ウマ、イヌ、ネコなどである。この過程では共通の現象がいくつも見られた。外見は丸くてぶよぶよになり、体毛も体色も薄くなり、ブチ模様などになった。進化の過程で、外敵や厳しい気候から身を守る厚い皮革や色素は無用なものとなり、脱ぎ捨てたられたのだ。この過程は「家畜化」と呼ばれる。
人類は自分自身も家畜化したことは、よく指摘されるようになった。外見はやはり丸くてぶよぶよになり、体毛はなくなり、色も薄くなった。このことは「自己家畜化」と呼ばれている。
のみならず、家畜化の過程は、外見だけでなく、人間の内面も変えたはずだ。人類の精神はどのように変化したのだろうか。
よく言われる仮説としては、人間は相互に協力することを覚えた。それによって、生産性を高め、大いに栄えた、というものである。複雑な相互協力を確立する過程で人類の脳は大きくなった、というのは社会脳仮説と呼ばれている。
ただここには、人間の善性を無批判に肯定しようというポリティカル・コレクトな価値観が入り込んでしまっているのではないか。
人類が本来は自由意志をもった個人からなり、その自発的な協同によって繁栄したというのは、いまの民主主義を肯定する上では大変に便利な仮説である。人類に生得的にそのような性向があるとすれば、民主主義の社会は安定的であろう。
しかしながら、自己家畜化が、他の動物と同様な形で人類の精神に及んだ可能性もあるのではないか。
家畜化の過程で、動物は性格が従順になった。ヒツジは臆病になった。ウマは鞭うたれて走るようになった。イヌは人にしっぽを振るようになった。
だとすれば、人間も家畜のごとく扱われるようになって、家畜の様な性格になったのではないか。ならば、人々の大半を家畜のごとく扱う社会というものも、これまた安定的なのかもしれない。
人類を家畜のように扱った歴史
人類を家畜のごとく扱う社会というのは珍しくない。古代から中世の王朝では、奴隷は必ず存在した。王様以外は全員奴隷という王朝もあった。戦争で負けた方は奴隷にされるというのも普通だった。奴隷は身分として何世代にもわたり固定することもあった。
身分制度の中には、ある民族が上位階級となり、他の民族が下位階級となるものが多くあった。インド、中国、朝鮮半島などではそのような制度が延々と続いてきた。
このときの王や上位階級の、奴隷や下位階級に対する仕打ちや、その精神的な態度は、家畜に対するものとあまり変わらなかったことも多かった。
下位階級に属していれば、自我が強かったり、反抗的であれば、殺される。すると残ってゆく子孫は、従順に、卑屈になってゆく。だとしたら、これはヒツジやウマの進化の過程とまったく同じである。
逆に上位階級に属していたら、容赦なく下位階級を支配し続けることが繁栄のための条件になるから、他人の痛みなどいちいち感じることが無い、あるいはそれに快楽を覚えるような、おぞましい性格に進化しても不思議はない。人類は敵であれば残忍に殺したり奴隷化したりすることに躊躇しないことが多々あった。ならば、その矛先が下位階級に向かったとしても何ら不思議はない。
そうすると、世界は横暴な独裁者と臆病な隷属者から構成されることになり、上位階級ではサディズム的な性格が、下位階級ではマゾヒズム的な性格が形成されてゆくことになる。
<自由>ではなく<隷属>を好んでも不思議はない
さて民主主義の思想家は、人々が自由を放棄して、隷属に走る傾向があることを指摘し、嘆いてきた。
このことは、人が権力や金の誘惑に弱く、自由で独立な思考を放棄しているものだとして道徳的に非難されてきた。
だがここでの思想家の暗黙の前提は、人類とは元来自由を好む「はず」だということで、これは民主主義の暗黙の前提でもあるが、ここには科学的な根拠は何ら無かった。
もしも多くの人々が、生得的に臆病で、日々の安寧だけを願い、権力と金に従順であるとするならば、つまりは人類が家畜のごとく進化したとするならば、それは実際に、人類の大半が家畜同然に扱われることで起きたのではないか。
とくに、固定した身分制度のもとで、何世代にもわたって家畜同然に扱われた人々には、その性格の家畜化が起きていても生物学的には不思議が無い。
<自由>と<隷属>どちらが人間の本性なのか
以上のように、独裁者や奴隷として進化した人類がいた一方で、自由で独立した個人が存在し、互いに協力する様な社会の担い手として進化した人類もいたであろう。というのは、そのような社会も、近代を待たずとも、石器時代以来、世界の至る所に存在し続けてきたからだ。
では人類は生得的にどちらなのか。独裁者と奴隷なのか、自由で平等な市民なのだろうか。正解は、両方の性質を兼ね備えている、ということであろう。
日本人の多くは大陸の征服者であった遊牧民族の遺伝子と、征服された農耕民の遺伝子を持っている。他方で、日本人の別の祖先である縄文時代の狩猟採集民はもっと平等だったかもしれない 。
なお、かつては狩猟採集社会では人々は平等で、生産物の余剰を蓄えることが出来る様になった農耕社会では階級が発生したとする見解があったが、いまではそれほど単純ではないことが分かっている。例えばサルの社会でも階級は存在し政治闘争がある。
さて人類の本性は善か悪か、ということは、孟子・荀子の論争以来、哲学者の好みの話題であった。
現代になると、このテーマが進化論的に、科学的に分析されるようになった。例えばスティーブン・ピンカーは、暴力が歴史的に減少したのは、人間の生得的な善が生得的な悪に打ち勝ってきたためだ、とした。
独裁と隷属の時代を防ぐためには
では人類は、民主主義を担えるのか。
人類は、生得的に「自由で平等な市民」であるという、民主主義にとって望ましい資質を持っている一方で、「邪悪な独裁者と臆病な奴隷」であるという、おぞましい資質も併せ持っている。
われわれのなすべきことは、望ましい資質を伸ばし、おぞましい資質を抑制するよう、教育、文化、制度を整えてゆくことだ。
民主主義は、常に前進すべく漕ぎ続けなければならない。油断をすると、我々の内なる悪魔が頭をもたげ、独裁と隷属の時代が来るかもしれないからだ。
《参考文献》
・孟子
・荀子
・劉暁波 現代中国知識人批判、1992年
・ジェームズ・C・スコット 反穀物の人類史: 国家誕生のディープヒストリー
・F・A・ハイエク 隷属への道
・エーリヒ・フロム 自由からの逃走
・ジョナサン・シルバータウン 美味しい進化:食べ物と人類はどう進化してきたか、2019年
・リチャード・C・フランシス 家畜化という進化:人間はいかに動物を変えたか、2019年
・グレゴリー・コクラン、ヘンリー・ハーベンディング 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した、2010年
・アリス・ロバーツ 飼いならす 世界を変えた10種の動植物、2020年
・スティーブン・ピンカー 暴力の人類史(上・下)、2015年