メディア掲載  エネルギー・環境  2021.02.05

「CO2ゼロ」は亡国の危機だ

産経新聞 2021年1月27日付「正論」に掲載

エネルギー・環境

従前は地球温暖化問題といえば環境の関係者だけに限られたマイナーな話題にすぎなかった。だがここ2、3年で一変した。急進化した環境運動が日米欧の政治を乗っ取ることに成功したからだ。

いまや環境運動は巨大な魔物となり、自由諸国を弱体化させ、中国の台頭を招いて、日本という国にとって脅威になっている。この深刻さを、国家の経済・安全保障に携わる全ての方々に認識してほしい。一体何が起きているのか。


グリーン成長の陥穽(かんせい)

政府は昨年12月25日に「グリーン成長戦略」を公表した。経済と環境を両立させて2050年にCO2排出の実質ゼロを目指すとしている。ある程度の削減であれば、経済成長と両立する政策は存在する。例えばデジタル化の推進や新型太陽光発電の技術開発であり、原子力の利用である。

だがCO2ゼロという極端な目標は、経済を破壊する可能性の方が高い。政府は、安価な化石燃料の従来通りの利用を禁止し、CO2の回収貯留を義務付けるという。乃至(ないし)は不安定な再生可能エネルギーや扱いにくい水素エネルギーで代替するという。

これにより2030年に年90兆円、2050年に年190兆円の経済効果を見込んでいる。だが莫大なコストが掛かることを以て経済効果とするのは明白な誤りだ。

もちろん巨額の温暖化対策投資をすれば、その事業を請け負う企業にとっては売り上げになる。だがそれはエネルギー税等の形で原資を負担する大多数の企業の競争力を削ぎ、家計を圧迫し、トータルでは国民経済を深く傷付ける。

太陽光発電の強引な普及を進めた帰結として、いま年間2.4兆円の賦課金が国民負担となっている。かつて政府はこれも成長戦略の一環であり経済効果があるとしていた。この二の舞いを今度は年間100兆円規模でやるならば、日本経済の破綻は必定だ。

米国ではバイデン政権が誕生し、自由諸国は悉く2050年にCO2ゼロを目指すこととなった。この展開でほくそ笑むのは中国である。
 

中国「超限戦」の主力兵器

中国も2060年にCO2をゼロにすると宣言した。これも達成不可能であるが、したたかな戦略であり幾つも利点がある。第1にCO2に関する協力が取引材料となり、人権や領土等の深刻な問題への国際社会の関与を減じることができる。これはかつてオバマ米元大統領が陥った罠でもあった。

第2に中国の参加で自由諸国は引っ込みがつかなくなり経済が衰える。同じような目標でも経済への破壊力は全く異なる。というのは国際環境NGOが力を振るうが、彼らは資本主義を嫌い、自由諸国の企業や政府には強烈な圧力をかける一方で、中国政府を礼賛し、中国企業は標的にしないからだ。衰弱した日本は中国の経済的圧力に屈し易くなり、言論が抑圧され、領土も脅かされるだろう。

第3に中国は温暖化を議題に持ち出すことで、米国内の分断を一層深刻にできる。米国では温暖化は党派問題であり、民主党は急進的な政策を支持するが、共和党は反対する。トランプ氏だけが例外なのではない。

中国にとりCO2ゼロというポジション取りは、国際的な圧力をそらすのみならず、自由諸国を弱体化させ、分断を深める効果がある。世論を活用し戦略的有利に立つという「超限戦」において、いまや温暖化は主力兵器となった。

加えて、太陽光発電、風力発電、電気自動車はいずれも、中国が世界最大級の産業を有している。自由諸国が巨額の投資をするとなると、中国は大いに潤い、自由諸国のサプライチェーンはますます中国中毒が高まる。さらには、諸国の電力網に中国製品が多く接続されることはサイバー攻撃の機会ともなる。


憂国の士よ声を上げよ

そもそもなぜCO2をゼロにしなければならないのか?

温暖化で台風や大雨などの災害が頻発という報道がよくあるが、観測データを見ればすぐ否定できるフェイクニュースだ。不吉な将来予測も頻繁に聞くが、不確かなものにすぎない。米国の共和党支持者は温暖化危機説がフェイクであることをよく知っている。議会でもメディアでも観測データに基づいた議論がなされている。

しかし日本はそうなっていない。のみならず強固な利権がそこかしこにできてしまった。省庁は各々の温暖化対策予算と権限を持っている。その補助金に群がる企業がある。研究者は政府予算を使って温暖化で災害が起きるという「成果」を発表する。

この帰結として日本の国力は危険なまでに損なわれつつある。だがそれを明言する人は稀だ。温暖化問題について異議を唱えると、レッテルを貼られ、メディアやネットでつるし上げられ、利権から排除されるからだ。

CO2ゼロを強引に進めるならば国民経済を破壊し、日本の自由や安全すら危うくなる。憂国の士は、この問題が深刻であることを理解し、声を上げねばならない。