メディア掲載 グローバルエコノミー 2021.01.21
JBpressに掲載(2021年1月19日付)
1.「双循環」の考え方が示すもの
昨年来、中国経済の将来ビジョンを示すキーワードとして「双循環」という表現が頻繁に用いられている。
それは国内経済循環を主として、国内経済および国際経済の2つの循環=「双循環」が相互に促進し合う形で新たな経済発展の局面を形成していく方向を目指すという経済政策運営の大方針を示している。
米国では多くの有識者が、「双循環」の実際の目的は、中国経済の海外経済への依存度を低下させ、国内市場中心の経済構造に転換することを目指していると解釈している。
すなわち、改革開放路線の変更である。
その背景には、米国からの貿易摩擦やデカップリングなどの圧力によって中国経済が動揺するのを防ぐことができる経済構造の構築を目指すそうとする中国政府の意図があると見られている。
一方、筆者は「双循環」という将来ビジョンは、従来からの改革開放路線の延長線上にあり、基本的には過去40年以上にわたって中国経済の発展を支えた基本方針を追認する概念であると理解している。
筆者と同じように理解する米国の中国専門家も少なくないはずである。
国内経済循環と国際経済循環のうち、前者が主導する形で経済発展を目指すという方針は2005年頃以降明確に示された。
それ以前の輸出・投資主導型成長モデルから内需主導型成長モデルへと目標が転換され、その後基本的にその方針は変更されていない。
すなわち、「双循環」は中国の経済成長モデルの転換を意味するものではなく、内需に力点を置きながら対外開放路線を重視する、これまでの経済発展モデルを保持する姿勢を示していると考えられる。
ただし、中国国内でも「双循環」の解釈の仕方には幅があり、前者のような見方もあれば、筆者と同じような見方もあるなど、人によって見方が異なっているのが実情である。
2.双循環への理解に違いが生じる背景
「双循環」が経済の海外依存度を低下させることを目指していると見る米国有識者と筆者の解釈の違いは、中国経済の基本構造に対する認識の違いが原因であると考えられる。
米国のドナルド・トランプ政権は、米国の歴代政権が1990年代以降、対中政策の基本方針として採用してきた「関与(engagement)」政策は何も成果を上げていないと批判した。
「関与」政策とは、中国をやや甘い条件でWTO(世界貿易機関)に参加させ、市場経済の恩恵を先に与え、そのメリットを実感させることにより、中国経済の市場化、さらには政治の民主化を促進するという考え方である。
2001年のWTO加盟に際して中国政府は、市場開放、国内経済の市場経済化、金融自由化等を推進すると約束しながら、何も変わらなかったと、トランプ政権は主張した。
その認識を前提に、中国の公約違反を是正させることを大義名分として、中国に対して厳しい貿易・投資摩擦を仕かけた。
そうしたトランプ政権寄りの認識に立てば、中国政府は引き続き市場経済化を拒否し、国家資本主義の路線を歩もうとしていると理解するのが自然である。
その延長線上の概念として「双循環」を位置付ければ、これが改革開放路線を目指すものではなく、米国の圧力から身を守るための政策方針であるという解釈になるのは理解しやすい。
しかし、米国の中国専門家の中には筆者と同様にこうしたトランプ政権の主張に反対する立場の専門家も多い。
米国内の反中感情に基づく対中強硬論に対して、中国専門家グループが、昨年7月、ワシントンポストに一つの意見書を発表し、米国を代表する元政府高官、国際政治学者ら100人以上がこれに賛同して署名した。
そこに込められた重要なメッセージは、米国政府が中国に対して行ってきた「関与(engagement)」は失敗ではなく、中国経済に一定の変化をもたらす成果を上げたということである。
(この点に関する詳細は、筆者の米国欧州オンライン面談報告「大統領選挙下の米中関係と選挙後の展望」p.4~5を参照)。
筆者もこの認識を共有している。この前提に立てば、「双循環」が、改革開放路線を変更し、海外経済への依存度を低下させることを目指しているという解釈には賛成できないことになる。
中国政府の経済政策責任者らの真意もこちらにあると筆者は理解している。
3.習主席によるTPP参加検討表明の意図
2020年11月20日、APECアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の場において、地域的な包括的経済連携(RCEP)協定の成立直後というタイミングで、習近平主席が環太平洋経済連携協定(TPP11)への参加を積極的に検討する意向を表明した。
中国のTPP参加については、2018年初頃には中国政府内部で検討をすべきであるとの議論が対外開放や市場経済化の推進を重視する一部の部門で出始めていた。
2019年に入ると、政府関係部門の間で横断的にTPP参加について検討する動きが広がった。
中国がTPPへの参加に積極的に取り組む姿勢を表明したのは、こうした政府内部の検討を踏まえた改革開放路線重視の方針に基づいていると理解することができる。
習近平主席がこのタイミングで意向表明を行ったのは、米国がバイデン政権の下でTPPに戻ってくる可能性があり、中国としてはその前に参加しておかないと、参加条件を厳しく設定され、長期にわたって参加が難しくなることを懸念しているためと見られている。
この間、米国議会は米国政府が自由貿易を促進してきたことが米国労働者の雇用機会を奪ったとの立場から、自由貿易を促進する政策に強く反対している。
このため、今後少なくとも2~3年は米国のTPP復帰はあり得ないと見られている。中国政府はその時間を利用して、TPP参加交渉を円滑に進めたいと考えていると推察される。
いずれにせよ、中国政府はさらなる自由貿易体制の強化を目指しており、そのために必要となる国内経済システムの改革を推進することにより、内外両面において経済基盤の強化を図ろうとしていると筆者は見ている。
これは自由貿易を重視する日本や欧州諸国などにとって歓迎すべき方針だ。
中国政府がそこまで改革を急ぐ理由は何か。それは高度成長期の安定した経済状態を保持できる期間が残りわずかになっているからである.
中国がTPPに参加するためには、国有企業改革、知的財産権保護強化、補助金削減、関税引き下げなどクリアしなければならない難題が多い。
これらの課題をクリアするためには既得権益層にとって様々な痛みを伴う改革が必要となる。
もし経済状況が不安定な場合には、こうしたリスクをとることに反対する意見が強まり、実行しにくくなるのは明らかである。
2020年代の後半には少子高齢化の加速、都市化のスローダウン、大型インフラ建設の減少などを背景に高度成長時代の終焉に直面することが予想されている。
いま経済構造改革を先送りすれば、経済全体の効率の改善が遅れ、経済成長が低下する不安定な局面でより多くのリスクを抱えることになる。
そうした事態を回避するため、高度成長が続いている今のうちに改革を進め、自由貿易体制に適合した効率的かつ安定した経済構造を確立しておくことが急務となっている。
以上のような長期的な視点からの政策判断に基づいて、中国政府がTPP参加に積極的に取り組もうとしていると筆者は見ている。
中国政府の政策責任者は中国経済が直面する課題を短期・中期・長期に分けて前広に把握し、経済不安定化リスクを回避するために必要な各種対策を的確に実施してきた。
それが1980年代以降、40年以上の長期にわたって中国が安定的に高度経済成長を実現できた主因である。
中国の政策当局者はグローバル経済の予期せぬ変動や国内の様々な構造問題等に直面しながら、中国経済のリスクを慎重に見極め、事前に回避する政策努力を積み上げてきた。
中国経済の巨大な規模や複雑な経済社会構造を考慮すれば、これまで中国の経済発展の基盤を支えてきた改革開放路線とそれに基づいて緻密に積み上げてきた政策運営システムを突然変更することは考えにくい。
不安定化リスクが大きすぎるからである。
これまでの経済発展と政策運営の成果を今後も引き続き生かせるよう経済基盤を総合的に整備していくことを目指すはずである。
中国政府はこうした判断に基づいて、自由貿易体制の強化とそのために必要とされる国内構造改革を推進していくため、TPP参加を選択していると見るべきであろう。
4.日本としての対応
中国がTPPへの参加を日本に対して打診してきた場合、日本としては米国との関係を慎重に考慮しながら対応することが必要となる。
その際に重要となるのは、日本が世界の自由貿易体制の維持・拡充に向けて最大限の努力を継続するという確固たる理念を土台として、中立・公平な立場からそれと整合的な具体策を実施することである。
日本は戦後、米国の強力なサポートを受けながら、自由貿易体制の整備に貢献し続け、グローバルな自由貿易システムの構築を目指してきた。その延長線上に生まれたのがTPP11である。
残念ながら、米国はトランプ政権成立後、その方針を大きく転換し、TPPを離脱したが、日本としてはそうした米国政府に追随せず、自由貿易体制重視路線を堅持し、TPPを成立させた。
これは日本が自らのリーダーシップで国際社会にとって重要な枠組みの構築を実現した戦後初めての成功事例である。
現在、日本はそのTPP参加者=プレイヤーにとって主審とも言える立場に立っている。
主審が誰からも信頼されるために必要な条件は、どのような状況にあっても中立・公平な立場から的確な判断を迅速に下すことである。
ジャッジの理由が分かりにくい場合には、毅然とした姿勢でその判断理由を分かりやすく説明することも重要である。
中国のTPP参加を審査するに際して、日本は中国寄りでも米国寄りでもない中立・公平な立場から、世界の自由貿易体制の維持・拡充にとって最も望ましいと考えられる判断基準に基づいて誠実に判断し、中国と交渉する姿勢が必要である。
その際に米国の圧力に迎合して条件を厳しく設定したり、中国への外交的配慮により条件を甘くしたりすれば、日本への信頼が失われ、日本を主審の立場から追い出す動きが表面化するはずである。
それは日本にとって戦後最大の外交上の成果であるTPP成立のリーダーシップに対する世界各国からの高い評価を台無しにする。
上記の中立・公平な立場をとることは、長期的には米国からの信頼を得ることになる。
米国はトランプ政権の影響により、足許は自由貿易推進に消極的な立場をとっているが、米国内の有識者の多くは引き続き自由貿易体制の維持・拡充を強く支持している。
日本が短期的に米国の外交方針と一致しない立場をとっても、自由貿易推進という確固たる理念を堅持する姿勢を貫くことは、中長期的には米国の有識者から日本に対する信頼を高めることになる。
のみならず、世界各国からも米国追随一辺倒ではない日本の姿勢が信頼され、それが国際社会や米国に対する発言力の増大にもつながる。
一方、中国に対しても公平・中立な姿勢を貫くことは、中国にとって健全な自由貿易体制の構築および国内構造改革の推進にとってプラスである。
以上のような考え方に基づいて、米中両国のみならず、世界各国から信頼される主審として、日本が引き続き自由貿易体制の維持・拡充のために重要な役割を果たすことを期待したい。