コラム  国際交流  2020.06.09

知られざる英米と中国の歴史

 米中貿易摩擦が注目を集めていますが、米国の独立後、中国(当時の清)が米国の最大の貿易相手国であったことは知られていません。

 独立当時の英国は世界の覇権を制していた国であり、大西洋を支配する英国を避けて、米国の海外発展は太平洋のかなたにある清に目を向けることになりました。ボストン郊外の港町セーラムを中心に、ニューヨーク、ボルティモア、フィラデルフィアなどの米国東海岸の港町は清との交易により隆盛を築いていきました。清は外国貿易を広東に限定して行っていたので、この貿易は広東貿易と呼ばれていました。清は米国の最大の貿易相手国であり、1777年から1840年までは米国の輸入物資の2割は清から来ていたのです。貿易支払いに銀を要求した清に対し、銀を産出していた米国は、産業革命による銀の不足から支払いに窮した英国と異なり、清に対する支払いに困りませんでした。この状況が変わったのが1840年からのアヘン戦争でした。

 英国は18世紀末から植民地であるインドのアヘンを清へ密輸し始めました。当時の対清貿易収支は中国からの茶、陶磁器、絹の大量の輸入に対し英国から清へ輸出できるものが銀を含め殆どなく、放置すれば貿易赤字から英国経済が破綻しかねない状況でした。1796年に清はアヘンの輸入を禁止し、その後も何度となく禁止令を発しましたが、アヘンの密輸は止まず清国内にアヘン吸入の悪弊が広まっていきました。

 清の道光帝は1838年に林則徐を広東に派遣しアヘン密輸の取り締まりに当たらせました。彼は非常に厳しい取締りを行いましたが、広東からマカオに逃れた英国貿易監察官と英国人に林則徐が攻撃を仕掛けたことを契機として英国軍艦が清軍への攻撃を開始し、3年後の1842年7月に南京条約が締結されてアヘン戦争は英国の勝利で終結しました。実は戦争の初め、英国は艦隊を中国沿岸に派遣し、南の揚子江沿岸から首都の北京へ向かう物資の流れを阻みました。しかしながら、この作戦にもかかわらず、中国は京杭大運河があったことで困ることはありませんでした。その原因はかつての倭寇です。まず、朝鮮および中国は14世紀初め、元寇の後に倭寇に苦しめられました。15世紀初めに足利義満が明との勘合貿易を始め、いったん倭寇は下火になりますが、この経験はその後の明の海禁策(貿易禁止、海上交通禁止)につながります。そのため密貿易を生業とする浙江省や福建省出身の武装海商は、日本との密貿易に従事するようになり沿岸部を我が物顔にしていました。そこで隋の時代に開削された大運河で明時代に北京まで延長された京杭大運河が、中国の南北の物資輸送の中心として利用されておりました。そこで英国は、長江と大運河の交差点に位置する鎮江に兵を進め、1842年7月に鎮江を制圧し、その結果補給路を止められた清は8月に南京条約を結んで降伏しました。

 南京条約まで、清は貿易港を広州、アモイ、寧波の3港に限定していましたが、南京条約で上海と福州も自由港になりました。しかしアヘン戦争の主戦場は広東などの中国南部に限定されていたため、清王朝は衝撃を受けず、中華思想が抜けないままでした。林則徐のブレーンであった魏源が著した「海国図誌」は初めて西欧諸国の知見や技術の重要性に目を向けましたが、清では全く注目されず、むしろ、我が国の幕末の改革の機運を盛り上げることになりました。一方、中国の綿製品が英国からの綿製品の輸入を阻害したことに英国が不満を持っていたこと、アヘン戦争後に強くなった外国人排斥運動が火付け役となり、アロー戦争(1856~1860)が起こります。英仏連合軍は広州を占領した後に天津に進撃し、フランス軍は円明園を焼き払いました。そしてアロー戦争の勝利後、米国は次第に中国貿易から締め出され、日本に目を向けることになりました。ペリー来航にはこのような背景があったのです。

 HSBC(香港上海銀行)はアロー戦争後の1865年に香港で設立されましたが、その主目的はアヘン輸出による利益を英国本国へ送金することでした。米国には連邦政府による銀行免許と、州政府による銀行免許があり、1980年代まで大部分の州は州を超えた銀行支店の設置を禁止していたため、州政府免許しか持っていない銀行は州境を超えた営業はできませんでした。アヘン貿易の利益を本国へ送金する目的で創設されたHSBCはその設立の経緯から米国では連邦免許を取得できず、長らくニューヨーク州の免許でバッファローに支店を置いていました。やっと1999年になって、HSBCは連邦免許を有するリパブリック ナショナル バンク オブ ニューヨークを買収しました。この銀行は億万長者のエドモンド サフラが一代で築き上げた銀行でしたが、日経新聞が講演者に選んだマーティン アームストロングによるプリンストン債の詐欺事件(ケイマン諸島を本店とする架空の会社が発行した社債を日本の投資家に販売した)で債権管理銀行の上記リパブリック銀行が損害賠償を支払うことになり資金を必要としたことと、サフラが高齢になったこともあり売却されたのです。なお、サフラはロシアのマフィアとのつながりが指摘されており、1999年12月にモナコのマンションの自室で怪死しています。また2010年にキャメロン首相はHSBCの頭取をしていたスティーブン グリーンを貿易大臣に任命しました。

 清にアヘンの輸出を行っていた商社がジャーディン マセソンであり、英国議会で反対の強かったアヘン戦争の開始決定は、ジャーディンのロビー活動により9票の僅差で可決されました。「グラバー邸」で知られるグラバーはジャーディン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立し、坂本龍馬、岩崎弥太郎、五代友厚を支援しました。現在でもジャーディン一族は秘密トラストを使ってマンダリンホテルグループを支配しています。ジャーディンの社章はケシの花です。(アフリカの英国植民地でHSBCと同様の形で設立されたのがスタンダード銀行、インドについてはチャータード銀行であり、両行は1969年に合併しました。)日本のHSBCの支店は、2004年に割引債を使った山口組旧五菱会系の闇金融グループに関するマネーロンダリングで一定部門の業務停止処分を受けました。また、同社は2008年以来米国へのメキシコからの麻薬密輸に関与したとして18億ドルの罰金支払いを命じられ、更に2014年には米国上院の調査を受けることになり、19億ドルの罰金支払いで和解をしています。