2024 年問題と憲法改正
5 月7 日、ロシアはプーチン政権発足から20 年という節目を迎えた。ロシアの政治にとって、まさに今年はプーチンの統治20 年を総括する極めて重要な年である。政府としても、基幹インフラ整備など、国家主導の大型投資案件(ナショナル・プロジェクト)を今年から本格稼働させることで経済を底上げし、5 月9 日の対独戦勝75 周年記念行事などを中心に、国民の愛国心に訴えるとともに、国家の求心力を高め、大統領の強い指導力を国内外に示すシナリオを描いてきた。こうしたなかで今年1 月、プーチン大統領は、「2024 年問題」の解決に向け、まさに大きな一歩を踏み出したところであった。ところが、新型コロナウイルスの感染拡大により、そのシナリオに狂いが生じている。
現プーチン政権は、メドベージェフ大統領の時代を挟んで、現在連続二期目、通算四期目にあり、2024 年というのは、その任期が終わりを迎える年のことだ。既存の憲法では、大統領は「連続二期に限る」と規定されるため、2024 年時のプーチン大統領の去就や後継者について、これまでも様々な憶測が飛び交い、「2024 年問題」はロシアの政財界にとって最大の懸案となってきた。ロシアのように、権威主義的な長期政権のもとで様々なグループが利権を分け合う構造が形成されてきた国においては、権力移譲の問題は、その構造全体を揺るがしかねない極めて重大なテーマである。
そして、この2024 年問題がロシアで熱を帯びる端緒となったのが、プーチン大統領が1 月15 日に行なった議会への年次教書演説であった。このなかでプーチンは、突如として、大統領の任期を含め、憲法のいくつかの条文の改正を提案したのである。演説が1 月中旬という正月休み明け早々の時期に行われたこと自体が異例だったが、その内容は、当時のメドベージェフ首相を含め、多くの議会や政府関係者らにも直前まで知らされておらず、大多数の人々にとって大きな驚きであった。
教書演説のなかでも特に注目されたのが、大統領は「連続二期に限る」という憲法の規定から、「連続」という言葉を削除するという提案である。これは、2024 年以降にプーチンが大統領選に再出馬する可能性を自ら断ち、そのポストを後継者に禅譲する方針を固めたものと解釈された。その一方で、組閣における下院の権限を強化することや、地方の知事らで構成される国家評議会の地位や役割を憲法で明記することなども提案された。この演説からわずか数時間後、メドベージェフ首相は自ら内閣総辞職を行ったが、これは事実上の首相更迭とみなされ、一部では、後継者レースの本格化を示すゴングと理解された。
プーチン大統領が教書演説で提案した内容をもとに、ただちに憲法改正法案がまとめられ、1 月20 日には議会に上程、審議が始められた。以降、今回のプーチン大統領の提案にもとづく憲法改正は、2024 年に大統領職を去ったプーチンが、下院や特に国家評議会の議長として院政を敷くための布石であると一般的に受け止められてきた。
大統領の任期をリセット
ところが、下院での審議も最終局面となった3 月10 日になって、プーチン院政をめぐる議論は大転換を迎える。審議のさなか、初の女性宇宙飛行士として世界的に有名なワレンチナ・テレシコワ議員が、大統領のこれまでの任期は新しい憲法のもとではリセットされるべきだと主張、「現行大統領も他の国民同様、2024 年の次期大統領選に出馬する権利」を求めたのである。この日の下院での審議は、過激な言動で知られるロシア自民党のジリノフスキー党首や与党議員らが、下院の解散と9 月の前倒し選挙を求めて共産党と対立するなど、朝から荒れた展開となっていたが、このテレシコワ議員の発言で議場の空気は一変、審議は一時ストップとなった。
1 時間半の休憩を経て、今度はプーチン大統領自身が下院本会議でスピーチを行ったが、プーチン大統領は、テレシコワ議員の「任期リセット」案について、国民の支持が得られ、憲法裁判所が認めるのであればという条件をつけながらも、これを「原則的に可能」として承認したのである。この場合、2036 年、83 歳までプーチンは大統領に残ることが可能となり、事実上「終身大統領」の誕生とも言える。
その後、この「任期リセット」の条項が追加された憲法改正法案は、速やかに上下両院を通過、憲法裁判所も3 月16 日にこれを合憲と判断し、改正憲法の成立は、残すは国民の支持、つまり4 月22 日に予定された国民投票のみとなった。なお、憲法の規定上は、今回の改正に国民投票の手続きは必要とされていない。国民投票で「国民からの支持を得た」という形式にこだわるのは、プーチン流の「正統性」へのこだわりと見られる。
ちなみに、テレシコワ議員による大統領「任期リセット」案は、本人はメディアに対して否定しているが、これがテレシコワ議員本人の発意ではなく、クレムリンによって「仕込まれたもの」だという見方を疑う者はほとんどいない。テレシコワ議員は国民にとってはかつての英雄だが、議員としてはそれまでさして目立った存在ではなかった。
また、「任期リセット」案が準備されていたことについては、1 月15 日の年次教書演説の時と同様、与党議員らを含む大多数がやはり一切知らされていなかった。この重要な提案が再び秘密裏に進められたことで、プーチンの側近らも、今や大統領への不信感に満ちているとの指摘もある。下院でのテレシコワ提案は、1 月15 日以来展開されてきたプーチン院政をめぐる議論を一瞬で吹き飛ばすような内容であっただけに、政治エリートらが受けた衝撃も大きかったようだ。
では、ロシアにとって極めて重要な2024 年問題が、このような展開を迎えた背景には何があったのだろうか。そもそも、今年1 月の年次教書演説から始まった壮大な政治劇は、プーチンの「任期リセット」、つまり「終身大統領」への道を開くための単なるお膳立てに過ぎなかったのか―。こうした議論が今もロシア国内で度々行われているが、その答えについては、ロシアの有識者の間でも意見が分かれている。ただ、「任期リセット」こそが当初からの思惑だったと見る見解もある一方で、「任期リセット」はプーチン大統領が土壇場になって舵を切った結果と捉える向きのほうが、若干議論をリードしているようである。
背景は情勢の変化か
実は、テレシコワ提案に先立つ3 月6 日、既にプーチン大統領はイワノボ州の住民らとの対話のなかで、「ロシアには強い大統領の権力が必要」であり、院政は「二重権力につながり、ロシアにとっては有害」として、院政を敷く考えを明確に否定する発言を行っている。遅くともこの時点までに、プーチン大統領は2024 年に、院政ではなく大統領として残る可能性を示す必要性を感じていたと考えられる。では仮に、プーチンが当初の思惑から離れ、この時期になって「任期リセット」という荒業へと舵を切ったのだとすれば、一体その背景には何があったのだろうか。ロシアでは主として二つの説明が見られる。
ひとつは、新型コロナウイルスの感染拡大により世界情勢が不安定化しており、それが今回のプーチンの翻意を促したという見方である。ペスコフ大統領報道官は、記者からの問いに対し、「対外情勢」は確かに重要なファクターのひとつと述べたうえで、プーチンが2024 年の大統領選に出馬する可能性も、新型コロナウイルスを含む様々な情勢次第との考えを示している。
もうひとつは、ロシア国内の政治情勢からの説明である。例えば、与党統一ロシアのエブゲニー・レベンコは、プーチンが「任期リセット」に舵を切ったのは、次期大統領の椅子をめぐる「バカ騒ぎ」を今すぐ止めさせるための上からの「最も強いシグナル」だったと受け止めている。任期リセットにより、「誰もプーチンをレームダックと見ることができなくなった」からだ。ロシアの政治学者エカテリーナ・シュリマンも、1 月の年次教書演説を機に、プーチン大統領のレームダック化が始まった可能性を指摘しており、「任期リセット」という新たな展開は、レームダック化を食い止め、「政治エリートらが後継者探しでバラバラに突っ走ってしまうのを防ぐことが不可欠となった」結果だと分析する。また、政局絡みのこうした情勢の変化を、後で触れる新型コロナの影響が加速させた可能性も十分にあり得る。
この政治情勢の変化については、次のような興味深い分析も行われている。今回プーチン大統領を「任期リセット」へと駆り立てたのは、一部の政治エリートらを支配する「変化」への恐怖だとする分析である。ロシアの政治エリートらの世界観の根底には、ゴルバチョフが主導したペレストロイカがロシアの地政学的敗北をもたらした、という強い認識がある。ペレストロイカによる体制の変化は、制御不能なまでに、それを始めたゴルバチョフ自身のスピードを追い越し、ついにはソ連崩壊へとつながった。現在のロシアの政治エリートらにとっては、プーチンが二度と大統領に戻ってくることはないと憲法で規定することは、まさにペレストロイカのような変化を生み出す大きなリスクと映るという。
確かに、プーチンの命を受けてメドベージェフが大統領に就いたタンデム政権(2008 ~ 2012 年)時代でさえ、明確な形でエリート層の二極化が起こった。当時のプーチン首相は、形式上、つまり憲法の規定上は、常にメドベージェフ大統領から解任され得る立場にあったうえ、実質的にも、メドベージェフ大統領の周りには保守的なプーチンからの変化を求めるグループが形成され、その変化は外交政策にも反映された。プーチンの大統領への復帰を皆が確信していたこのタンデム政権時代でさえ、変化を求める極が新たな大統領の周りに誕生したことを考えれば、2024 年にたとえプーチンが最も信頼できる側近に大統領職を禅譲したうえで、スムーズに院政を開始できた場合でも、新たな大統領の周辺にはやはり新たな極が誕生し、しかもそれがプーチンとは異なる変化の極となる可能性は否定できまい。そしてそれは、第二のペレストロイカとなる危険性を孕んでおり、政治エリートらの「変化」への懸念も、その点にあるという。
新型コロナウイルスの影響
当初からの目論見だったにせよ、土壇場での翻意だったにせよ、今回の憲法改正により、プーチン大統領は2024 年以降も大統領選に出馬し得る権利を獲得することになる。だが、プーチンがその権利を実際に行使するかどうかは、また別問題である。ロシアの政治評論家の間でも、プーチン大統領はこの権利を行使せず、大統領の座を信頼できる後継者に譲る意思を、2024 年の大統領選の直前になって明らかにするのではないかとの見方も一定数存在する。仮に出馬しない場合でも、プーチンは最後までレームダック化を防ぎ、フリーハンドを維持できるという算段である。
いずれにせよ、こうしたクレムリンの思惑が詰まった憲法改正は、4 月22 日に予定されていた国民投票で過半数の賛成を得たうえで、最終的に成立する手続きとなっていた。ところが、政権にとって、新型コロナウイルスが当初の想定をはるかにしのぐ脅威になりつつある今、2024 年問題をめぐる状況は、再び大きく変わりつつある。
新型コロナウイルスは、日本を含め、世界中の国の政治、経済、社会に甚大な影響をもたらしているが、ロシアにおいてはその影響はさらに深刻だ。欧米各国では、1 日当たりの新規感染者数は減少傾向を見せ始めているが、ロシアでは5 月3 日以降新規感染者数が連日1 万人を超え、14 日には1 万人を下回ったものの、累計で25 万2 千人と、新たなホットスポットとなっている。
感染は軍や建設現場にも広がり、僻地でもクラスターが発生している。東部の天然ガス採掘現場で起こった大規模な集団感染では、政府の対応の遅れに対する抗議活動も起こった。政権が重視してきた5 月9 日の対独戦勝記念パレードも、そのリハーサルの参加者の間で集団感染が起こり、中止となった。
政府内にも感染は広まる。1 月にメドベージェフに代わって首相に就任し、医療体制や経済支援策を陣頭指揮してきたミシュスチン首相のほか、4 月末以降3 人の閣僚の感染が判明。政府の次官クラスや地方の知事らの間でも感染者が複数出ており、市民の間で不安が増大している。
ロシアの累計感染者数の推移
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出典:ロシア「コメルサント」紙サイト掲載のデータ(2020 年3 月1 日から5 月14 日分)より筆者作成
ロシアの1日あたりの新規感染者数の推移
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出典:ロシア「コメルサント」紙サイト掲載のデータ(2020 年3 月2 日から5 月14 日分)より筆者作成
原油価格の急落も大きな痛手だ。輸出のおよそ6 割、歳入のおよそ4割をエネルギー資源関連からの収入で賄ってきたロシアにとって、コロナ禍と原油価格の下落がもたらすダブルパンチは、未曽有の試練となっている。シルアノフ財務相によると、この度の原油価格の下落で、国のエネルギー関連の収入減は1.5 兆ルーブル(およそ2.2 兆円)にのぼる。財政の縮小を余儀なくされるなか、コロナ対策で医療や補償のための歳出も重くのしかかり、冒頭で触れたような国家主導による大型事業なども、実行が危ぶまれている。
人々の生活への直接間接の影響も深刻である。ロシア中銀が4 月後半に行った調査によると、既に自営業者の3分の1が店や会社を閉じたとされ、アレクセイ・クドリン元財務相は、失業者の数は年内にも800 万人に達するとの予測を出している。
2024 年問題の行方
こうした状況下で厳しい外出規制を課され、市民の間では大統領や政府に対する不満が鬱積している。4 月20 日、南部の都市ロストフナドヌーでは、インターネットの地図上にある行政府の建物に対し、ユーザーが次々と不満を書き込む形で自然発生的な「オンライン・デモ」が発生、この動きはその後モスクワを含むロシア各地へと広がった。同じく南部のウラジカフカスでは、同日に実際のデモが起こり、70 人近くの住民が警察に拘束される事態となった。
プーチン大統領自身の支持率も低下した。独立系の調査機関「レバダセンター」の4 月末の世論調査では、プーチン大統領の支持率は59% と、プーチンの執政20 年のなかで最も低い数値を記録している。
こうしたなか、憲法改正の是非を問う国民投票をいつ行うかについて、政権は見通しが立たない状況に陥っている。4 月時点での憲法改正案への支持は47% と、むしろ3 月より上向いた点は特筆すべき現象だが、それでも半数に達していない。今後の政府の新型コロナウイルスへの対応次第では、大統領や憲法改正への支持率がさらに低下する事態も考えられる。政府は国民の外出制限に対する不満を緩和させようと、5 月12 日より規制の一部を三段階に分けて解除していく方針を示しているが、これがさらなる感染拡大を招く可能性もある。
不満を募らせているのは一般市民だけではなさそうだ。新型コロナウイルスによる経済的な打撃は、エネルギーをはじめ様々な産業の利権グループやエリート層をも直撃している。エリツィン時代に大統領府報道官を務めたセルゲイ・メドベージェフは、今、コロナウイルスによる経済的な損失等によって政財界のエリート層が不満を募らせており、現在のプーチン大統領は、執政20 年のなかで最大の試練を前に、その立場を不安定化させていると分析する。また、新型コロナウイルスにより状況は一変しつつあり、政権にとって今後1 年は、「生き残りをかけた戦い」になるとの厳しい見方を示している。
一方で、コロナ禍による国難の時期だからこそ、プーチン大統領の続投への期待が高まる可能性を指摘する声もある。世界を見ても、国により情勢が異なり一概に比較はできないが、新型コロナウイルスへの対応をめぐる指導者への国民の評価は様々だ。例えば米国のトランプ大統領のように支持率を落としつつある大統領もいれば、イタリアのコンテ首相やドイツのメルケル首相のように、感染拡大防止には成功せずとも、国民の結束を固め、逆に支持率を伸ばした指導者もいる。その意味では、ロシアの多くの国民にとって、ソ連崩壊とそれに続く1990 年代の国の混乱は大きなトラウマとなっており、2000 年の就任以来、ある種ロシアの「安定」の象徴となってきたプーチン大統領の続投を求める声が、今後高まる可能性もある。ミシュスチン首相への支持率も現在は低下傾向にあるものの、政府のコロナ対策への国民の評価はほぼ半々という状況にあり、今後の補償や経済政策次第の側面が大きいと言えよう。
ただし、今回の1 月以降の憲法改正をめぐる一連の出来事は、すべてが「すさまじい即興」だったと総括する政治学者もおり、そもそもロシアの政治体制自体が、理念ではなく権力維持の" 技術" で構築されていると指摘する専門家もいる。であるならば、新型コロナウイルスによる危機のなかで、2024 年に向けた新たなシナリオが、何らかの即興的な技術によって再び書き加えられる可能性も否定できないだろう。
当面の焦点は、憲法改正を成立させるための国民投票となる。政権内では、6 月には完全に外出規制が解除されることを見込み、国民の気分が楽観的になる6 月中に投票を実施するべきという案や、より慎重に秋以降まで待つべきといった案などが検討されていると伝えられる。国民投票で圧倒的な過半数の賛同を得られるか、あるいは、国民投票に向け、政権によって再び何らかの技術的なアクションが取られるのか―。こうした点が、ロシアの2024 年問題の今後の展開を考えるうえで、ひとつの重要な鍵となりそうだ。