コラム  国際交流  2020.06.02

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係

国際政治・外交 米国 ロシア

ロシアの基本は農業国

 ロシアを含むスラブ民族は現在のルーマニアのカルパチア山脈周辺を原住地とし、中央ヨーロッパや東ヨーロッパに居住する農業民族でした。「スラブ」という言葉はロシア語では「弱い」という意味ですし、「奴隷」を意味するスレイブの語源はここからだと考えられています。

 もともとのロシア民族の中心地はキエフでした。ここにノルマン人が侵入してきて9世紀の終わりにキエフ大公国が成立し、ドニエプル川の水利を利用して経済を発展させ、南の東ローマ帝国との交易関係を打ち立てました。10世紀終わりのウラジーミル聖公の時代に最盛期を迎え、東ローマ帝国の皇帝の妹を妃に迎えるとともにキリスト教を国教として導入しました。


ロシアを変えたモンゴル帝国による征服

 ウラジーミル聖公の死後、親族間の争いで公国は弱体化し、これに十字軍遠征とそれに伴う地中海貿易の活発化によるドニエプル川経由交易の衰退が追い打ちをかけ、キエフは衰退し、人々はノブゴロドやモスクワに移住していきました。そして1240年にモンゴル軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は滅亡しました。

 モンゴルによるロシア支配の期間は2世紀半に及び、「タタールのくびき」と呼ばれてロシア人は悪いイメージをもっています。しかしながら、征服後のモンゴルは人口も少なかったことからルーシの諸侯を使った間接統治を行い、納税と軍役さえ行えば、政治的忠誠と軍事的方向を条件として「本領安堵」をしました。そして東西交易はモンゴルという大帝国の出現により栄え、その恩恵はルーシの地にも及びました。またモンゴル人は宗教にも極めて寛容でした。後のロマノフ王朝はモンゴルの庇護下でルーシの最高の地位とされたウラジーミル大公の地位を独占してゆき、最終的にはモスクワ大公と呼ばれるようになります。1326年には全ルーシ最高の聖職者であるキエフ府主教をモスクワに迎え、精神的にもキエフに代わってルーシの中心になって行った。彼らが次第に勢力を拡大していく一つの遠因がモンゴルのハーンに収める税金の納入を引き受けたからであり、一説によれば実はこの時代がロシアの歴史上もっとも税負担が低い時代だったと言われています。

 

モンゴル帝国が去った後の東方への拡大

 1380年のクリコヴォの戦いでモンゴル軍を破り「タタールのくびき」からの脱却の第1歩が踏み出されましたが、モンゴルへの臣従をモスクワ大公国が最終的にやめたのは1480年のウグラ河畔の対峙の時からでした。

 最初に述べたようにロシア人の本質は農耕民族であり、領土を拡大しようとする動きに欠け、地方の大公国という地位に甘んじていました。ところが15世紀の終わりにモンゴル支配から独立してみると、ロシアの東側にはモンゴルが去った後の広大な権力の真空地帯が残されていました。ここから16世紀半ばのイェルマークの探検にみられるようなロシアの東方への進出が始まるのです。ロシア人はコサック(逃亡農民や没落貴族からなる軍事協同体)を先頭に毛皮を求めてウラル山脈を越え、オビ川などの大河を伝って北極海や太平洋に進出しました。1652年にはイルクーツクが建設されるなどロシア帝国はシベリア全土を管理し、更にラッコやキタオットセイを求めてアリューシャン列島から千島列島に向かい、アラスカに進出して露米会社を設立するなど、17世紀から19世紀にかけてロシアは世界最大の毛皮供給国となりました。彼らの一部はナパバレーなどの北カリフォルニアまで足を延ばしましたが、東方進出の特徴は、中国を恐れて、ユーラシア大陸の北側を横断し、中国の力が衰えてから少しずつ南下を始めたというところにあります。例えば極東で最初に開発された都市はカムチャッカ半島のペトロパブロフスク=カムチャットキー(1740年)であり、1858年にはハバロフスクが、そして1860年にはウラジオストックが建設されました。このようにロシアが現在のような世界一広大な領土を得るに至ったのは、①モンゴル帝国による征服で東方や東西交易に目が開かれたこと、②モンゴルの滅亡後東方に権力の真空地帯が出現したこと、そして③16世紀から18世紀にかけて極めて貴重な資源であった毛皮を求めてロシア人が東へ移動していったこと、が主要な原因だったのです。

 

英国との欧州覇権争いとポーランド分割

 1533年からイワン4世(雷帝)がモスクワ大公に即位し、1547年には初めてツァーリの称号を用いました。彼にはモンゴル王朝の血も入っています。彼の治世は50年に及び、晩年には英国のエリザベス1世にも求婚をしました。イワン雷帝の死後、ボリス ゴドノフの治世に見られるような16世紀末から17世紀の動乱の時代を経て、1613年にロマノフ王朝が誕生しました。日本では徳川幕府が成立し大坂冬の陣が戦われる前年です。

 1682年から40年以上に及んだピョートル大帝の時代にはスウェーデンとの戦争でバルト海沿岸の領土を獲得し、新都サンクトペテルブルクを1703年から建設して1712年に首都を移転しました。スウェーデンとの戦争でスウェーデン側に立ったのは英国とトルコ帝国でした。英国との対立はこの時期から300年以上続きます。

 1762年に女帝のエカテリーナ2世が即位し、40年弱の治世を治めます。彼女はボルガ川中流流域にドイツの農民を移住させて先進農業技術を取り入れたり、啓蒙主義の観点から初めての女性教育施設であるスモーリヌイ修道院の開設など西欧の最新の教育制度を導入したりして、文化面で大きな貢献を果たしました。ボリショイ劇場やその下の学校であるボリショイアカデミーが創立されたのも彼女の治世下でした。美術品の収集家としても有名だった彼女はエルミタージュ美術館を創設し、19世紀半ばには一般市民にも公開されました。

 またオスマン帝国と開戦して黒海北岸やクリミア半島を獲得し、ポーランド分割を3度行いました。その結果最終的に1795年にポーランド王国は消滅し、ウクライナとリトアニアがロシア領になりました。


ロシアのユダヤ人

 ポーランド王が商工業の育成のために招聘したユダヤ人が13世紀から多数ポーランド王国に移住してきました。彼らの中心地は南ポーランドのクラカウでした。ユダヤ人の多くは商工業に携わってポーランド王国の交流に貢献する一方、南東部のガリツィア地方ではポーランド貴族によるウクライナ人農民の支配を番頭のような形で助けてきました。ポーランド分割の結果、ユダヤ人の多くが住んでいた地域はオーストリアとロシアの領土になりました。オーストリアに併合されたガリツィアではウクライナ民族主義者の独立運動が続けられました。(拙著「ウクライナを理解するため」を参照)エカテリーナ女帝は当時未開の土地が残っていたウクライナの土地をユダヤ人に与えましたが、農業にあまり関心がなかった彼らは農地を放棄して次第に1791年にロシアが建設した南西部の都市オデッサに移住し商業を営むようになりました。この模様が映画になったのが「屋根の上のバイオリン弾き」です。後にオデッサからはユダヤ系の有名な音楽家が多数輩出します。1881年から84年にはポグロム(ユダヤ人に対する集団的迫害行為)が起こり、1903年からはユダヤ人の海外脱出が増えていきました。日露戦争の資金がなかった日本政府から派遣された高橋是清がニューヨークでの資金調達に失敗した後に、ロンドンでHSBCのロンドン支部長であったキャメロン(キャメロン首相の高祖父)を中心とする金融団から目標額1億円の半分(500万ポンド)の融資取り付けに成功しました。そのお祝いの夕食会で偶然高橋の隣に座ったのがニューヨークのユダヤ系のクーン・ローブ商会代表のジェイコブ・シフでした。翌朝シフは残りの資金の調達に応じることを連絡してきました。戦争期間中総額2億円をシフは調達してくれましたが、後に高橋がシフに会った際にシフが言ったのは、融資の理由はポグロムを始めとするロシアの反ユダヤ主義に対する報復であり、「ロシア帝国に対して立ち上がった日本は神の杖である」とシフの回想録では書いています。なお、クーン・ローブは1977年にリーマン・ブラザーズに合併されました。


米国独立を助けたロシア

 エカテリーナ女帝はヴォルテールの啓蒙主義を信奉しており、この観点から米国の独立戦争(1775年~1783年)の際に武装中立同盟を提唱し、英国を国際的に孤立させることで米国の独立を支援しました。欧州の覇権の関係や啓蒙主義の関係からアメリカを援助したのはラファイエット将軍に代表されるフランスと、エカテリーナ女帝でした。フランスはこの支援のため財政が破綻し、折悪しく浅間山やアイスランドの火山の噴火による冷害による飢饉と相まって、フランス革命が発生することになりました。一方、アメリカを失った英国は1770年のクックによるオーストラリア領有宣言に続きオーストラリアに眼を向け、1788年に囚人によるオーストラリア入植を開始しました。


南北戦争でリンカーンを助けたロシア

 19世紀に入り、ロシアはジョージアを支配下に収め、またペルシャに勝って、アゼルバイジャン北部を併合した後、1828年にはアルメニアを支配下に置きました。北カフカスではダゲスタンやチェチェンなどの山岳諸民族がロシアに対し抵抗していましたが、1861年にはカフカス全土が平定されました。中央アジアにおいても19世紀半ばにはカザフスタンがロシアに併合されましたが、ロシア人の入植に反対して40年にも及ぶ反乱がおこりました。


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 アメリカの南北戦争の際、英国が独立以降の経緯や奴隷貿易の関係から南部を支援したのに対し、アレクサンドル2世のロシアは艦隊を米国沿岸に派遣して英国の介入を阻止しました。なお、この時、リンカーンを尊敬していたタイ王国のラーマ4世は北軍を助けるために、タイ王国が誇る象軍団の派遣を申し出ています。

 南北戦争の直前にはロシアはオスマン帝国と同盟した英仏によってクリミアで敗戦し、屈辱的な条約を結ばざるを得なくなりました。敗戦に伴う莫大な戦費の支払いを目にして、ロシアは維持費のかかりすぎるアラスカを1867年に友好国であるアメリカに売却しました。売却価格は当時のお金で720万USドル、現在の価値では1億2千300万USドルです。ロシアはこの見返りに機械化に適した米国産の綿花を中央アジアに移植することに成功し、ロシアの繊維工業が発展していきました。


ロシア革命に導いたバクー油田開発とシベリア鉄道建設

 19世紀の後半に入り、ロシアにもやっと産業革命の波がやってきました。19世紀半ばからロシアでは鉄道の建設ブームが起こりました。鉄道の総延長は1880年からの20年の間に2倍になり、ロシアの石炭の産出量は1860年の50倍に増加し、19世紀後半にはバクー油田は世界の産出量の半分を占めるようになりました。なお、バクー油田の開発に貢献したのはアルフレッド・ノーベルの一族でした。油田で働く労働者の環境は劣悪で、1905年に大規模な労働争議がおこりましたが、この争議を指導して名を挙げたのがスターリンですし、ロシアが日露戦争に踏み切ったのは、この大争議から国民の注意をそらしたかったからだとする説もあります。

 1891年にシベリア鉄道の建設が決定されます。フランス資本の資金援助を受けて全線が開通したのは1916年でした。第一次世界大戦中に財政が苦しかったロシア政府にはフランスに対する支払いを拒否するか、自国の財政の削減を更に行うかという岐路に立たされて後者を選択し、その結果ロシア革命が起こってしまいました。革命によりフランスの銀行団の融資はデフォルトになり、フランス政府が肩代わりすることになりました。


チャイコフスキーの後援者はロシア一の富豪で鉄道王の未亡人

 チャイコフスキーの最大のスポンサーはロシアの鉄道王の未亡人ナジエジュダ・フォン・メックですが、彼女の夫は鉄道事業で成功しロシア一の富豪になりました。夫の急死後、フォン・メック夫人は一度もチャイコフスキーに会うことなしに14年間(1876年から1890年まで)チャイコフスキーを財政的に支援し続けました。彼女の息子のニコライ・フォン・メックはチャイコフスキーの姪と結婚し、鉄道事業でソ連邦に貢献しましたが、1929年に濡れ衣を着せられて処刑されました。なお、1990年に彼の名誉は回復されています。


レーニンはロシア人ではない

 ロシアは多民族国家で、182の民族が存在しています。ロシア人が全体の7割強を占めており、ウクライナ人や白ロシア人を含めると東スラブ人の割合が8割を超えますが、この他にもトルコ系や、コーカサス系、モンゴル系など多種多様です。

 その代表がレーニン(本名はウリヤノフ)です。彼の父はカスピ海沿岸のアストラハン出身の物理学者ですが、モンゴル系のカルムイク人とトルコ系のチュバシ人の混血です。レーニンの母はドイツ人、スウェーデン人、ユダヤ人の混血です。カルムイク人は現在でもカスピ海の西北岸に自治共和国を作っていて、人口は約30万人です。かつては現在のモンゴルの西部に住んでいたのですが、チンギス・ハーンに追われて西に移動してきた民族です。写真を見れば分かるように現在でもチベット仏教を信仰しています。

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 このような出自のレーニンはロシア人やギリシャ正教に対し厳しく接しました。レーニンの下で正教会や主教たちに対する大弾圧が行われました。また、トルコでケマル・パシャが革命を起こしてオスマントルコ帝国が滅亡すると、ケマルが自分や共産主義の支持者と勘違いしたレーニンは彼にアルメニアとジョージアの一部を与えてしまいました。今のトルコの東部ですが、この地域の出身でジョージア人だと言われているのが現大統領のエルドアンです。

 スターリン(本姓はジュガシビリ)はジョージア(昔はグルジアと呼ばれていました)人です。彼の腹心であった秘密警察のトップのラブレンチー・べリヤもジョージア出身ですが、名前を見てわかる通り(ジョージア人の姓は「シビリ」か「-ゼ」で終わる)、彼はジョージアの中の少数民族であるミングレル人です。

 フルシチョフの両親はロシア出身ですが、彼自身は15歳からウクライナで育ちました。1954年にクリミアをウクライナの一部と決定したのですが、自らの出身地であるウクライナの住民の支持を強化するのが目的でした。

 現在の外務大臣のラブロフはジョージア生まれで父がアルメニア人、母がロシア人ですし、中央銀行総裁のナビユーリナはタタール人、国防大臣のショイグはモンゴル共和国に接する中央アジアのツバ共和国出身で父がツバ人、母がロシア人です。

 音楽家も、指揮者だけとっても、ヤンソンスはラトビア人、テミルカーノフはコーカサスのカバルダ・バルカル出身、ゲルギエフは北オセチア人と多彩です。フィギュアスケートのアリーナ・ザギトワはタタール人ですし、エフゲニヤ・メドヴェージェワの父はアルメニア人です。


米国の科学技術発展の陰に亡命ロシア人

 流体力学の有名な学者にステパーン・ティモシェンコという人がいます。ロシア帝国で教育を受け、キエフ工科大学で教えていた時に革命が勃発し、1922年に彼はアメリカに渡りました。その後ミシガン大学などで教授をつとめ、36か国語に翻訳された教科書を執筆しました。彼は1927年にはアメリカに帰化しました。ブラウン管を使ったテレビを発明したウラジーミル・ツヴォルキンもロシア革命後にアメリカに移住した科学者でした。また、ノーベル経済学賞を受賞したサイモン・クズネッツも亡命科学者です。

 芸術分野ではストラヴィンスキーやホロヴィッツなど枚挙に暇がありませんが、あまり知られていない事実として、20世紀最高のバレリーナのマヤ・プリセツカヤは長くロシア国外での公演をソ連政府から許されませんでしたが、その背景には、彼女の従兄弟がジョン・F・ケネディの法律顧問だったという事実がありました。