新型コロナウイルスの出現でグローバルな動きに大きな変化が生じている。ヒト・モノ・カネの流れが停滞し、世界経済に大きな負荷を与えている。しかし情報だけは危機の中でもスムーズに流れている。それどころかソーシャル・メディアを通して流言飛語までが増幅され、情報洪水の中で人々の状況判断に混乱が生じている。
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正確な状況判断や問題解決のための最善策の選択、さらには解決策の着実な実施のためには、社会全体の情報共有が必須であり、このためにはコミュニケーションが重要である。たかがコミュニケーションとバカにしてはいけない。今回のコロナ禍に際しても、正確な状況認識、適切な対策などの情報に関して多くの人が不満を表明している。しかもこの不満はグローバルな形で拡散しているのだ。
こうした中、ドイツの友人から面白いメールが届いた。「東洋とのコミュニケーションは難しい」と。 彼の言い分は次の通りである。コミュニケーションの分類方法には何種類かあるがメッセージの伝達目的で分類すると2種類。すなわち道具的(インストルメンタル)と自己充足・完結的(コンサマトリー)である。
前者は自分の考えを相手に理解させる事を目的とするのに対して、後者はコミュニケーションを行うという行為自体を目的としている。換言すれば、一方的に「言った」という事自体で満足するというものだ。
友人は次のように続けた。今年没後100年を迎えるマックス・ウェーバーの『儒教と道教』を君は知っているね。その中の言葉を思い出してごらんよ、と。
ウェーバーは同書で、東洋では「外面的な身振りや作法の威厳、すなわち"メンツ"を保つ事」が重視され、発言者の「"態度"そのものが特定の内容無しに評価される」と述べている。
筆者は"ムッ"として「だけど...」とメールを書き始めたが、「相手の意見にも一理ある」と思い直し反論をやめた次第だ。
新型ウイルス出現という全地球規模の危機の時に、ウイルスと闘わずに、人間同士で争ってはいけないのだ。このためにもコミュニケーション、なかんずく内容と言葉が大切なのだ。
しかも言葉であっても、文章の流麗さや語彙力、さらには声の質や発声のテンポによって"伝える力"が大きく変わる。例えば落語の「愛宕山」を考えてみても、古今亭志ん朝や桂米朝の"語り"と下手な落語家のそれとでは"伝える力"に雲泥の差があるのだ。
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そしてウェーバーが語った通り、我々の非言語コミュニケーション(NVC)は西洋とは異なり、またそれに大きく依存しているかもしれない。すなわち顔の表情や身振り・手振り、さらには服装といった形で自分の考えを伝えているのだ。
これに関して米国の文化人類学者エドワード・ホールは、NVCで真犯人のうそを見抜く事を得意としたシャーロック・ホームズは異なるNVCを多用する日本では名探偵になれないと語った。
グローバル時代、"言いっ放し"で一方通行のコミュニケーションでは全地球的な危機は克服できない。こうした理由から今こそ双方向のインストルメンタルなコミュニケーション(情報交換)が必要なのだ。