コラム 国際交流 2020.05.13
1. 世界銀行での経験
1980年代半ば、私が3年間スタッフとして働いていた頃、世界銀行は全く多様性のない組織でした。隣の国際通貨基金も似ていて、スタッフはイギリスとアメリカの有名な大学で経済学の博士号を持つ男性にほとんど限られていました。世界銀行はIMFよりも多くのスタッフを抱えていたので、多様性の面では少し良かったのですが、そのスタッフの大半は英米の大学で経営学修士号を取得した人でした。人事権を持つ課長クラスと課長補佐クラスはイギリス人かアメリカ人、あるいは非ドイツ人のヨーロッパ人で、その下の係長クラスはインド人、イラン人、中国人(香港、台湾、中国本土)、秘書はタイ、フィリピン、ベトナムの女性でした。アジアの人々は私をアジアの代表のように見てくれて、私を様々な方法で助けてくれました。彼らと接触する中で、アジアの国である日本が欧米に匹敵する国になれたので、アジアの他の国も日本人のように熱心に働けば日本のようになれるという希望を持っていることが明らかになりました。
1980年代半ばの問題はアフリカの飢饉でした。「ウイー アー ザ ワールド」が歌われた時代でした。世界銀行はまた、関税やエネルギー価格などについて多くの条件を借入国に課する構造調整融資を提供していました。1983年に締結されたフィリピンの2回目の構造調整融資がその一例です。1986年2月には大統領選挙後、フィリピンでクーデタが起り、マルコスが追放されてコラソン・アキーノ大統領が就任しました。
世界銀行内でアフリカの経済発展に生涯を捧げてきたイギリス人とフランス人と、アフリカへの援助について話し合う機会がありました。彼らの答えは驚くべきものでした。「小手川さん。アジアや日本のような経済成長をアフリカ諸国に期待するのは間違っています。なぜなら、アフリカは人類が2000年の間に成し遂げたことを100年の間に成し遂げようとしているからです。」
2. 私が創設した無償資金協力の新制度
1987年に帰国した際、大蔵省の主計局の主査に私は就任しました。担当は外務省予算とODA予算でした。担当期間中に東南アジアと南アジアを回り、現地大使館の担当者の話を聞く機会がありました。経済協力担当の現地スタッフの意見を聞いて新たに作った予算項目が小規模無償(草の根無償)とNPOへの補助金でした。
草の根無償は、1988年の夏にバングラデシュの訪問の際、地元の大使館員から聞いた以下の話から考え着きました。「現地の人々の生活を改善するために、必ずしも何億円もの援助が必要とされるということではありません。例えば、現地の女性の生活の自立支援のためには、一人一人に1羽数十円の鶏を何羽か与えれば十分です。たとえ100人にあげたとしても何百万円です。地元の小学校を改善するために供与する机や椅子にも同じことで当てはまり、数億円の必要はなく、100万円で十分です。しかし、東京の承認を得るために膨大な量の書類が必要なことが問題なのです。」状況を精査したうえ、私たちは、贈与額に一定の制限を設定したうえで、地元の大使館の裁量で小規模な無償援助を与えることができるようにしました。
3. NPOの補助金制度を設立した背景
1988年後半、世界の熱帯雨林の減少が問題となり、東南アジアの木材伐採をする日本企業のせいにされていました。そこで国連環境計画で働いていた友人に関係データを貰い自分で計算してみました。その結果、世界の熱帯雨林の減少の半分がアフリカで起こっていることが判明しました。そのほとんどは他に選択肢がない原住民によって燃料として伐採されていたものでした。残りの3分の2(全体の3分の1)は南米大陸で姿を消していました。そのほとんどはブラジルの焼畑農業のせいでした。熱帯雨林を焼いて作った牧草地では牛が放牧され、安価な牛肉を米国に輸出されていました。つまり、世界の熱帯雨林の約3分の1が、ハンバーガーの肉を生産していたために失われていたのです。したがって、東南アジアの熱帯雨林の減少は、世界全体の減少の6分の1に過ぎないことになります。また東南アジアでも、減少の半分が原住民による薪用の伐採で、更に残りの半分の大半も国内用の木材であり、各国の輸出品の数字と比較すると、日本企業の伐採による減少分は0.6%になりました。この数字は、政府の関係部門に確認した後、竹下首相に説明されました。数字に強く、数字が大好きな竹下首相はもちろん喜ばれました。
次に、熱帯雨林を守るために東京でのディナーパーティーに参加しました。スティングや日本の女優など有名人も参加していました。同じテーブルに日本の経済援助を批判する有名な大学教授がいたので、彼との議論になりました。残念ながら、彼の議論は西洋の受け売りで、具体的な証拠や数字に基づいていないことが明らかになりました。
また、当時問題となっていたインドのナルマダ川に計画されているダムに反対する人々の国際的な集まりが東京で開催され、私も参加しました。欧米のNGOの自分勝手な意見に私はうんざりしていたので、日本のNGOやインドの参加者と話をしました。私が驚いたのは、ダム建設に強く反対していたインドの参加者はムンバイの裕福な家庭の娘であり、反対の理由は、ダム建設現場のナルマダ川の上流は、ムンバイの存在する州とは別の州にあるため、建設に関連するロビー資金が全く入ってこないということにありました。更に、実際に一度も援助の現場に立ったことがない日本からの参加者の大半は英語が不十分で、欧米のNGOメンバーの意見を聞くだけで全く反論できませんでした。もちろん、日本にも民間ベースの援助を真剣に行っているグループもありました。宗教団体の人が多かったのですが、彼らは真面目で、地元の人々のことを本当に考え、自分の利益は度外視した活動をしており、ただ欧米人と同席できたことを喜んでいるような現場経験のない人とは全く違いました。残念ながら、このような真面目な援助をしている日本人は少なく、専門大学で学位を取得した人はもちろん英語に堪能な人もほとんどいませんでした。当時は、学位がなければ相手にされない時代でした。この観点から、真面目な民間援助団体が海外を訪問したり学ぶ機会を作り出すために作ったのがNPO補助金でした。
4. アフリカへの援助に関する日本の基本方針もすべて見直し
日本のアフリカへの援助は主に無償援助でしたが、それまでに多額の援助を行った国はセネガルやケニアなどの大国でした。旧宗主国であるイギリスとフランスは、このような大国を大切にし、多額の援助を行ったので、日本の援助量は各国で2位にとどまっていました。世界銀行のスタッフの経験から、私は最大のドナーでなければ、援助受取国からは一定の尊敬を得られないと学んでいました。外務省になぜこのような大国に援助を集中させているのかと尋ねると、日本を支援する国を増やして国連の常任理事国にしたいからだという回答でした。しかし、国連の基本ルールは、1国1票です。そこで、我々は方針を変更しました。いくら援助を増やしても最大のドナーとはなれないセネガルのような大国への援助をすべて削減し、最大のドナーになることができる5~10の小さな国に向けることにしました。
次に、アフリカの発展のモデルとなる国、つまりアフリカの「日本」を作り始めました。最初のステップは、対象国を選択することです。対象国は、中程度の経済規模を持っているが部族紛争などの内部抗争がほとんどない規模の国が理想的でした。ガーナ、カメルーン、マラウイが選ばれました。ガーナに関しては、若くて清潔なジェリー・ローリングスのリーダーシップも大きな要因でした。日本の援助は、経済インフラの構築に焦点を当てた円借款、医療・教育分野における社会インフラ構築に焦点を当てた無償援助、技術移転を目的とした専門家派遣や日本国内への研修生の招聘などの技術協力に分かれていますが、我々はアフリカの日本を作るために3カ国に全ての援助を提供することにしました。また、植民地時代の勢力からの反発が予想されましたし、歴史的にアフリカ諸国とはほとんど関係がなかった日本は、援助プロジェクトを作る能力を欠いていました。そこで、英国の援助機関であるクラウンエージェントと日本のプロジェクトについてのコンサルティングの取り決めを結びました。その結果、90年代初頭のクラウンエージェントの総収入の約3分の1を我が国の支払いが占めるようになりました。3カ国のうち特にガーナは大きな経済成長を遂げ、そのままいけばアフリカの「日本」と言えるようになりました。
こうした日本の援助の成長を見てイギリスとフランスは90年代初頭から警戒を始めました。1991年からフランスの首相を務めたクレッソンは、国内の農業問題から目をそらすために、「日本人は黄色いアリだ」「日本人は敵であり、ルールに従わずに世界を征服しようと企てている」と述べたり、英仏のスポークスマンとして、「日本の援助はジュラシックだ」という発言を繰り返しました。日本はこのような批判的な見解のため、援助政策の見直しを余儀なくされ、残念ながらガーナがアフリカで日本と呼ばれる前にアフリカへの援助を減らさなければなりませんでした。その後日本の円ローンを標的にした債務救済を含む国連のミレニアムプロジェクトの提案が主として英国の主導で行われ、援助の世界における日本のプレゼンスは徐々に失われてきました。
5.経済協力の原則
西洋の援助の考え方と日本の援助の考え方には根本的な違いがあると思います。西洋の援助の基本的な考え方は、キリスト教から来る慈善です。これは「人道援助」に流れる考え方であり、被援助国の経済的自立という考え方が乏しくなっています。一方、日本の援助の基本的な考え方は被援助国の経済の自立です。これは帝国主義下のアジアの植民地の窮状を目の当たりにして、明治維新以来西洋に追いつき、追い越そうとしてきた日本の根底に流れる考え方であり、1900年代初頭に中国とベトナムの革命家、1920年代以降インドの独立運動家を庇護し、第二次世界大戦中に「八紘一宇」を提案した日本の思想家にも通じる考え方です。太平洋戦争は結果的に植民地支配からアジア諸国を解放することになりました。元外務省高官は、「太平洋戦争は結果的に、民族解放戦争となった。オランダのようなヨーロッパ諸国は、戦争の結果として植民地が失われたために、日本に対して恨みを抱いている」と語りました。
この件では同じ使命感を持っていた外務省の友人たちと一緒に、欧米スタイルの考えに染まった日本の学者や評論家、そして国内外のマスコミュニケーションと戦わなければなりませんでした。外務省で何冊もの本を書いた石川薫氏は、私の最大の協力者でした。
ある時日本の新聞記者が私を訪ねてきて、日本の援助政策の批判を始めました。彼の議論はその当時流行していた欧米の対日批判そのもので独創的な議論は全くありませんでした。例えば彼は、日本が開発途上国に立派な病院を建設しているが、そのような病院を使えるのはその国の一部の富裕層だけであり、一般庶民の手には届かない、とか、大部分の人が電話も持っていない開発途上国に日本が援助で電話網を作っているのはおかしい、とか、首都の国際空港を日本が作っているのは売名行為であり、そもそも海外へ行く機会のない開発途上国の一般庶民には全く裨益しない援助である、というものでした。またフィリピンの例を彼は出して、「スウェーデンはマニラのスラム街に貧しい人のためのアパートを作ったのに日本は富裕層のための病院を作ったのは間違っている」と主張しました。私は、そこで彼に対し、「ところで、明日君が会社から、『来週からマニラに赴任してくれ』と言われたら君は何を一番心配しますか」と聞きました。すると彼は「東京に電話できるか、空港は問題ないか、何かの際にちゃんとした病院があるか」と答えました。私は彼に、「まさに君が言ったようなことをフィリピンに進出しようかという海外企業は心配するわけです。そして問題がなければ海外の企業は安い人件費を狙ってフィリピンに工場を作り、最低限の教育を受けた賃金の安い人から雇っていきます。このようにして雇用が増え、貧富の差が縮小していきます。スウェーデンがアパートを作ったというマニラの貧民窟のスモーキーマウンテンには私もいってみました。そこはゴミ捨て場で、ごみの山の上のベンチに住民が寝てテーブルクロスの屋根で雨をしのいでいます。ひどい悪臭がするのですが、足元のごみの山からまだ使えるものを掘り出して街で売って生活しています。スウェーデンのアパートは半年もしないうちにまた貧民窟になってしまいました。なぜなら住民が定職を持っておらず、収入がないので、いくら立派な住居をあてがわれても維持できないからです。」
住居がどんなに素晴らしくても、定職がなければアパートの維持はできません。日本の援助は、鉄道、港湾、空港、道路、発電所、通信ネットワークなどの経済インフラを円ローンで構築し、海外企業の投資の前提条件を作り、社会インフラとしての基礎教育のための施設を提供して、企業の雇用拡大を支援します。徐々に、技術は外資系企業から現地企業に移され、発展途上国では産業が成長していきます。このようにアジア諸国に日本が経済援助を行った時期と並行して、プラザ合意の結果日本円の価値が倍増し、日本の人件費では国際的に競争できないと判断した日本企業がアジアに工場を移転することが始まりました。政治が安定して円借款による発電能力がしっかりしていたマレーシアに始まり、タイ、インドネシア、中国へ進出先が広がり、いわゆる雁行型の経済成長がアジアで始まりました。この着実な経済発展は、1990年代後半のアジア経済危機まで続きました。