メディア掲載 グローバルエコノミー 2020.04.21
前回の記事『「和牛商品券」という愚策が提案されてしまった理由』で、最近特に農政が劣化した理由として、官邸の権限の強化、その裏側として財務省の力の低下を挙げた。
その官邸は、政権浮揚に役立つような見栄えする政策以外は農林族議員に丸投げしている(『安倍官邸もアンタッチャブルな農業保護政策』参照)。農林族議員だけに限られたことではないが、中選挙区で複数の与党議員が政策を巡って切磋琢磨していた時代と違い、自民党の候補になりさえすればほとんど当選が約束される小選挙区制のもとでは、政策に明るいというようなことではなく、世襲議員であることや党の幹部に良い印象を与えていることなどが、候補者になるために必要な条件となる。
こうして農林族議員の劣化も進む。
和牛商品券は、その一つの表れだった。これには批判が強く、農林族議員の会議で合意されたものの、自民党の決定とはならなかったようだ。
そうしているうちに、3月31日の衆議院農林水産委員会で、野党議員から需要が落ちている高級和牛を学校給食で食べさせたらどうかと言う提案があり、農林水産大臣が、大変良い考えなので、文科大臣と話をすると答弁したという報道が行われた(4月1日朝日新聞)。
この記事を読んだとき、私は農政が劣化するもう一つの重要な要素を、論座の読者の皆さんにお話していないことに気が付いた。
本来食料の安定供給を使命とする農政は、国民全体にかかわるものである。しかし、この要素があるために、農政は国民全体の意思とはまったく無関係に、少数の関係者の利益だけを考慮して、決められてしまう。
東日本大震災の際、産官学が同じ利益を共有・追及する"原子力村"が非難された。しかし、"農業村"は、もっと悪いのかもしれない。
米国産小麦・脱脂粉乳→牛乳→コメ→和牛
それを議論する前に、学校給食について、コメントしよう。
児童が和牛を食べられるのなら良いことだと思われるかもしれない。しかし、国会でのやりとりを読んで、私は「また学校給食か」と思った。学校給食は、これまで過剰となった農産物処理のために利用されてきたからである。
戦後、学校給食は、小麦から作られるコッペパンと脱脂粉乳を水で溶かしたミルクで始まった。小麦や脱脂粉乳はアメリカの余剰農産物だった。
農産物の過剰に悩まされていたアメリカにとって日本は有望な市場だった。アメリカはパン食普及の大キャンペーンを行い、1958年には米を食べると頭が悪くなるという大学教授の本まで現れた。中でも学校給食は、児童のころから日本人をパン食になじませることに成功した。
次に、学校給食に導入されたのは牛乳だった。当時生乳生産は過剰基調だったため、酪農家は乳業メーカーからたびたび乳代の引き下げを求められ、乳価紛争が絶えなかった。1964年以降、生乳過剰を緩和するために、学校給食が活用された。脱脂粉乳は児童から評判が悪かったので、牛乳は歓迎された。しかし、父兄の給食費が増加しないよう、国からの補助金による牛乳の値引きが必要だった。
さらに、1970年に米が過剰となってからは、学校給食向けの米の値引き売却や炊飯施設の補助も試験的に始まった。信じられないかもしれないが、それまで学校給食には一切米飯は使われていなかったのである。
しかし、パン食が定着している中で、最初のころ米飯の導入は困難だった。今では普及したが、1976年学校給食に正式に米飯が導入された時でも、月数回、週一回程度がせいぜいだった。
そして今回は和牛である。
過剰在庫がなくなれば学校給食から消える
高価な和牛を学校給食で提供しようとすると、給食費の範囲内に抑えるため、多額の補助金が必要となる。同じように余っているマグロやホタテまで提供しようとすると財政負担は大きなものとなる。
それだけではない。これは学校が教育の場であるという観点を無視している。これまでの学校給食の歴史も、余剰農産物の受け入れ、出す方からすれば、余剰農産物の押し付けだった。そこに教育という観点は少なかった。
しかし、米飯も牛乳も、それなりに長続きしてきた。これを通じて児童は、世界や日本の食料・農業問題について考えるようになったかもしれない。また、主食である米を食べることは、日本人としてのアイデンティティに気づいたり稲作を通じて形成されてきた日本の社会や文化を勉強したりする契機になったかもしれない。
しかし、今回検討されているものは、過剰が生じている今だけのものである。過剰在庫がなくなれば、和牛のメニューは学校給食からなくなる。
レストランで売れなくなったものを食べさせられることを知った児童は、自分たちの胃袋が大人に都合よく利用されているだけだと気づくのではないだろうか?
さらに、学校が休校になっているときには、和牛を提供する学校給食も行われない。コロナ感染が収束して学校が再開されたときは、和牛の需要も元に戻って学校給食に和牛は提供されなくなるかもしれない。ぬか喜びさせただけで終わるかもしれないのだ。
健康面での懸念も
また、アメリカ産トウモロコシで肥育される国産牛肉は、動脈硬化を起こしやすいオメガ6を多く含んでいる。どれだけの量を提供するかにもよるが、健康面でも考慮が必要である。学校給食をきっかけにして霜降りの和牛をたくさん食べるようになれば、脂肪の過剰摂取による児童の生活習慣病を助長するおそれもある。
学校給食への牛乳の供給は、過剰農産物処理のために始まったという事情はあるが、牛乳は完全栄養食品なので、児童の健康や成長にも意義があるものだった。関係者は、これをきっかけとして児童が家庭でも牛乳を飲むようになることを期待した。
和牛の提供について提案した野党議員は、児童の健康とか栄養とかの点を考慮したのだろうか?余っているから子供に食べさせれば良いという発想は、国民の代表である選良として、思慮に欠けるところはないだろうか?
江藤農水相は「日本で生まれて和牛を食べたことがないまま大人になるよりも、年に1回でも食べる機会があれば。知っているのと知らないのでは全然違う」とも述べたと報道されている。本気で言っているのだろうか?
我々の世代は学校給食でクジラは食べても和牛を食べたことはなかったが、ほとんどの人が和牛を好んで食べる。おいしさを感じるのは脂肪であって、年に1回の和牛の食味ではない。
前回『「和牛商品券」という愚策が提案されてしまった理由』も論じたように、そもそも「すでに子牛や枝肉の価格低下への対策は十分すぎるほど用意されている」ので、新たな対策は必要ない。それなのに、商品券に続いてこのような提案が行われるのは、和牛在庫を抱えているJA全農の負担軽減を考えているからなのだろうか?
農政劣化のもう一つの要素「国会」
話を農政全体に戻そう。
今回の学校給食の提案は野党議員から行われている。業界が抱える牛肉在庫を処理したい農林水産大臣からすれば、与党が商品券で失敗したので、野党に学校給食を提案してもらった形である。
与党農林族議員、JA農協、農林水産省のトライアングルが、自分たちの利益のために、農政を牛耳ってきたというイメージが持たれてきた。
しかし、我々が考慮してこなかった、もう一つのアクターがいる。それは国会である。国会で、農政はどのように議論されてきたのだろうか?
国会には、与党とともに野党がある。消費税、安全保障政策、原子力政策などでは、与野党の議論は激しく対立する。これは、よく国会中継される。
では、農政についても、そうなのだろうか?
実は、農政については、野党はなく、オール与党と言ってよいのである。基本的なイシューについて対立する主張を持つグループはいない。これは、私が農林省に入省したとき、真っ先に驚いたことの一つである(農政については、これ以外にも驚いたことがいくつかある)。
外交や安全保障政策などと異なり、自民党から共産党まで、農政が議論される農林水産委員会での質疑・討論は、農業保護という点では、全く同じ方向を向いているのである。したがって、小さな意見の相違はあっても、大きな対立はない。
TPP交渉に入るに際しても、米、小麦などの重要品目の関税は撤廃しないこと、撤廃するならTPP交渉から脱退すべきだという、衆参両院の農林水産委員会決議が、反対もなく速やかに決定されている。
このとき、国民全体を代表して討論が行われるのであれば、「消費者を含め、国民全体の利益からすれば、TPPなどの自由貿易を推進すべきであり、そのためには農業を高い価格・関税で守るのではなく直接支払いで守ればよいのではないか」という反対意見が出されてもよいと思われるが、そのような意見は、どの党からも出されない。
そして、この決議が日本政府の交渉を拘束した。TPP交渉が問題となっていた際には、自民党とベッタリだと思われていたJA全中の専務がTPP反対のため、共産党の大会に出向いて、同党にエールを送っている。
違いがあるとすれば、与党が財政的な制約で決定せざるを得ない政策を、野党が保護の程度が少なく不十分だと批判するくらいである。
例えば、政府が米を生産者から買い入れていた食管制度の時代、米の過剰生産による政府買入れ在庫の増加、これによる食管赤字の増大を恐れて、米価を抑制的に決定せざるをえない政府・与党に対し、野党は農協と一緒になって、もっと米価を引き上げろ、それで増産された米は全量政府が買い入れろと主張していた。農業保護の主張では、責任がない分、野党議員の方が過激となる。
前回記事『「和牛商品券」という愚策が提案されてしまった理由』で述べたように、TPP対策として、政策的には問題が多いマルキンの法制化と拡充が行われた。アメリカが脱退してTPPが発効するかわからなくなったときがあったが、その時、野党の民主党は、TPPの発効にかかわらず、これを実現すべきだと主張していた。農家保護になるなら、TPPの影響があろうがなかろうが、さらにはTPPがあろうとなかろうと、どんな政策でも実施すべきだというのだ。
そもそもTPPで国内農業への影響はほとんどない。交渉終了時点では、農林水産省も、そのような主張をしていた。それなのに、マルキンの法制化や拡充などのTPP対策が講じられた。特に、酪農・畜産は完全な焼け太りである。
しかし、国民の負担になる無駄な対策は行うべきではないという主張は、どの党からも行われない。
農業利益のみ主張する「オール与党」
農業関係の法案は、農林水産委員会で審議・採択されれば、本会議に送られ、成立する。その結果に、他の委員会の議員が反対を表明することはない。
その農林水産委員会に、農業保護に反対する議員はいない。いるのは、農業の利益を代弁する議員だけである。
また、農業保護に反対しないまでも、保護の仕方を変えることによって日本農業の効率化を図り、国民消費者に安い食料を安定的に供給すべきだと主張する議員もいない。いたとすれば、新自由主義者として批判されるだけだろう。
米の減反政策、農地法の自作農主義、農産物自由化や関税削減への反対など、農政の主要事項では、与野党の意見はことごとく一致している。
米の減反や農産物関税で国民は高い農産物を買わされているが、それを問題視する議員は農林水産委員会にはいない。農地の所有者が耕作すべきだという自作農主義のもとでは、株式会社による農地取得は、所有者である株主と耕作者である従業員が一致しないので、認められない。
このため、非農家出身の人が親や友人たちから出資してもらってベンチャーの株式会社を作って農業に参入することはできない。農業の後継者がいないというのに、農地法の自作農主義を問題視することは、農林水産委員会ではタブーである。国会も、食管制度時代からの高米価政策、農協、農地法というアンシャン・レジームの擁護者・守護神である。
食料の安定供給を使命とする農政は、農業者のためにあるというより、国民全体のために存在するはずである。食料の安定供給のために必要だから、農業を保護するのである。それに貢献しないような農業は保護に値しない。
戦前の農政の大御所である石黒忠篤は、次のように農民に諭した。
農は国の本なりということは、決して農業の利益のみを主張する思想ではない。国の本なるが故に農業を貴しとする。国の本たらざる農業は一顧の価値もない。
しかし、悲しいことに「農業の利益のみを主張する」オール与党の人たちによって、食料・農業政策は作られている。
学校給食への和牛の提供も、その一つの表れだ。国権の最高機関である国会で、国民全体の利益から農業政策を考えようとする意見が出されることはない。真の農政改革が進まない理由はここにもある。