メディア掲載  エネルギー・環境  2020.04.14

出雲:資源大国の環境の歴史

NPO法人 国際環境経済研究所HPに掲載(2020年3月6日)

 日本には、古来、大陸より様々な部族が、あるものは新天地を求め、またあるものは闘いに敗れ、少しずつ移り住んできた。部族はそれぞれの神を戴いていた。出雲はその中にあって、古代において日本で最も栄えた地方の1つであった。荒神谷遺跡から発掘された紀元1世紀頃の大量の銅剣・銅鐸はその栄華を端的に物語る。10月のことを旧暦で神無月というが、これは出雲では神有月と呼ばれる。これが示唆するのは、出雲では、その最盛期において、近畿から九州にかけての諸部族の、つまりは神々の、毎年の会盟が出雲で行われたことである。

 出雲が強大であったのは、先進地域であった朝鮮半島との地理的近さ、のみならず、その豊富な資源による。8世紀に編纂された「出雲国風土記」には多くの名産品が記されていることを、出雲学の藤岡大拙先生に教えて頂いた。出雲には斐伊川がもたらした肥沃な平野があり、水田や畑作に適していた。汽水湖である宍道湖は、天然の良港と、安定した豊富な漁獲をもたらした。鬱蒼とした森は木材を提供し、ここで産出される良質な砂鉄と相俟って、たたら製鉄が盛んになった。

 この豊富な資源を、人々は徹底的に利用した。木材で神殿や神社を建設した。伐採は、初めは出雲近隣であったが、資源が枯渇するにつれ、遠く中国地方全般から木材を集めるようになった。たたら製鉄は、はじめは移動式の簡易なもので、原料となる砂鉄や燃料となる木材を探し求めつつ行われたが、やがて定置式の永代たたらとなった。これは江戸時代に全盛期を迎えた。また石見では16世紀以降、銀も産出するようになった。江戸時代の最盛期には、世界の銀の3分の1が石見で生産されていた。

 人間が資源を利用する前の、出雲の原風景を求めて、三瓶山麓にある小豆原埋没林へ赴いた。ここでは太古の中国山地の威容を体感した(図)。4千年前に火山噴火で閉じ込められた周囲12mの巨木が、当時のままに建屋に収められている。高さは50mに達したという。また10mと離れていない所にまた巨木があり、ちっぽけな自分を圧倒する。4千年前には、中国山地全体が、このような巨木で覆われていたらしい。この博物館に身を置くと、太古の深い森の神々しい雰囲気がありありと蘇る。


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図 三瓶小豆原埋没林公園に展示されている4千年前の巨木



 翻っていまの中国山地を見やると、このような巨木は何処にもない。須佐神社の御神木は樹齢1300年と伝えられているが、高さは20m程度しかない。物部神社境内にも大きな木が幾つかあるが、これよりも小さい。普通の山にある木々は、もっとずっと細くて、樹齢100年に満たないものばかりだ。無数の巨木は何処へ行ってしまったのか?

 石見銀山資料館の仲野義文館長に、江戸時代元禄年間の土地台帳を見せて頂いた。石見地方東部の山についてだが、これを見ると、林山は僅か1割しかない。殆どは草山であった。草山であったのは、主に草を刈って肥料としたためだ。また林があるといっても、主には薪炭を得るための萌芽更新林であり、今日のような森ではなかったようだ。

 実は森林が消え失せるという現象は、このころ日本全国で起きていた。戦国時代から江戸時代前半にかけては、城や城下町の建設が進むなど、経済はおおいに発展したのだが、これは莫大な木材の需要を意味した。石見銀山で文化遺産の熊谷家を訪れると、立派な大木を何本も使っている。こういった建物が多く造られたが、火事もしばしばあり、また新たに建てられた。のみならず、出雲地方ではたたら製鉄も銀山もあったから、薪炭のための木材需要は輪を掛けて多かった。これを満たすため、近隣地域から木炭を購入していた記録がある。石見銀山では森林を計画的に管理するようになったが、これは現代的な環境保全というよりは、そうして資源を確保しないと銀山の操業が出来ない、という切実な経済的動機によるものだったようだ。

 草山だらけの風景は第二次世界大戦の終わりまで続いた。終止符を打ったのは、戦後のエネルギー革命であった。石炭、石油が利用されるようになって、薪炭を山から採る必要がなくなった。また草を刈ることなく、化学肥料を使うようになった。大きな建築物は、木材ではなく、石炭を用いて製造されたセメントや鉄で造られるようになった。これによって、山は資源収奪から解放され、なんとか今日の状態まで森林が回復したのである。

 環境の収奪にさらに加わったのは、戦乱であっただろう。出雲が特に突出して栄えたのは、豊かな資源の故であるが、まさにその故に、出雲では絶えずその争奪戦が起きたであろう。古代においては、その実態は神話のベールの向こうにある。 それは国譲りの神話のように平和裏に行われたのかもしれない。しかしこれには諸説あり、血腥い戦いだったかもしれない。唐王朝成立以前、五胡十六国時代の中国大陸に於ける、諸民族の酸鼻を極める興亡に思いを致すと、日本が成立するまでに渡来した諸民族の間においても、類似の悲劇がやまなかったのではないかと思う。時代が下って戦国の世になると、石見銀山を巡って毛利氏と尼子氏が争っている。

 筆者が旅して印象的だったのは、数千年に亘って絶え間ない資源収奪があったにも関わらず、現在の出雲は、なおも青々と伸びやかな情景を湛えていることだ。無論、巨木こそ皆無になった。しかしながら、なお山は森林に覆われ、田畑は豊かで、宍道湖は多彩な海産物を供する。

 翻って世界に目を転じれば、集中的な環境収奪で、砂漠化したり、塩害が起きたり、荒廃した土地は枚挙に暇がない。中国は唐代までは山水画の如き清澄な地であったが、今ではすっかり埃っぽくなってしまった。日本に来た民族の中には、中国から来た遊牧民も居り、ヤギや羊を山に放ったこともあっただろう。しかしながら、数百年に亘って森林は破壊され続けていたにも拘わらず、温暖湿潤な気候によって、再び山に木々は蘇り、ついに出雲は永続的な荒地になることを免れた。

 少し離れた福井県水月湖における湖底の地層の花粉分析からは、過去7万年において、現在よりも10℃低い氷河期から2℃高い時代まで、気候が激変を続けたことを語っている。しかしながら、いずれの時代も、山々は青々と樹木で覆われていたことは一貫しており、草原やはげ山になったことはないようだ。

 出雲は豊かな資源の故に発達し、神々の集う場、あるいは争いの場となった。そこでは、激しい環境収奪も起きて、巨木は姿を消した。しかしながら、温暖湿潤な恵まれた気候の故に、破綻することなく、今日でも優美な景観を保っている。


【参考文献】

・ 梅原 猛 (2012) 葬られた王朝―古代出雲の謎を解く 新潮社

・ 島根県古代文化センター(編) (2014) 解説出雲国風土記 今井出版

・ 中川 毅 (2015) 時を刻む湖――7万枚の地層に挑んだ科学者たち 岩波書店

・ 中川 毅 (2017) 人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか 講談社

・ 大住 克博 (2018) 日本列島の森林の歴史的変化: 人との関係において (中静 透他編、森林の変化と人類共立出版 第2章)

・ 藤岡 大拙 (1987) 島根地方史論攷 ぎょうせい 

・ 藤岡 大拙 (2003) 出雲―神々のふるさと 平凡社

・ 吉田 大洋 (2018) 謎の出雲帝国新装版 ヒカルランド