コラム  国際交流  2019.09.02

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第125号(2019年9月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 米国空軍の大型無人偵察機(RQ-4 Global Hawk)が、ローテーション配備のためにグアムのアンダーセン基地から横田基地に到着した事を8月3日付米国メディア(Stars and Stripes)が報じた(次の2を参照)。

 自衛隊も昨年末に導入を決定した同型機は、6月にホルムズ海峡で撃墜されて更に知られるようになる。ところでdroneの歴史は古く、第一次世界大戦時に登場して、第二次大戦ではケネディ米大統領の兄がdrone関連の作戦で戦死している。こう考えると息の長い技術であるdroneは今後も更に発達するであろう。このため米国のGlobal HawkやPredatorをはじめ、中国の"彩虹无人机"や先月公開されたロシアの"Сухой С-70 'Охотник(オホトニク)'"等、国際間の開発競争にも目が離せない。


 この夏、74度目の敗戦を記憶する日がおとずれた。どの時代・どの場所においても戦争は悲劇であるが、最近、テレビ番組で観た満洲の残留邦人(遗华日侨)の辛い人生に心を痛めている。

 中国の放送局(CCTV/大富)による或る番組の中で先の大戦時、満洲で残留孤児となった方々が「日本は祖国で中国が故郷(日本是祖国中国是故乡)」と語る姿を観、同時に関東軍最後の参謀副長(松村知勝少将)が戦後著した本の中の言葉を思い出し、複雑な心境に囚われている--「国境付近の軍人家族および在留邦人には後退勧告をなすべきであった」、と。当時の指導者達はソ連側の情勢を真剣に考えていたのか? 敗戦直前まで呑気に和平の仲介役としてソ連を頼りにしていたのではないか?
 翻ってソ連の指導者は、激しい対日復讐心を抱いており、日露戦争の敗戦による失地の回復に燃えていたのだ。例えば、①米ソ国交回復(1933年11月)の直後、スターリンが初代駐ソ米国大使のブリットにエロゴフ赤軍参謀総長を紹介する際、彼を"対日戦勝(Победа над Японией)"の際の指揮官と呼び、②1938年5月、モスクワを訪れた孫文の息子、孫科には対日戦について助言した。そして③1940年12月、モロトフ外務人民委員は建川美次駐ソ日本大使に、また翌年の4月、松岡洋右外相に対し、「ポーツマス条約は永久に不変ではなく、修正されるべきものだ(Портсмутский договор не может оставаться вечно без изменений и подлежит исправлению.)」と語った(モロトフの真意は建川と松岡の両人に本当に伝わったのであろうか?)。
 ④1941年6月に独ソ戦が始まると、ソ連は"大祖国戦争(Великая Отечественная война)"と呼んで奮戦し、⑤1943年2月に独軍がStalingradで敗北すると、⑥4月、スターリンは対日戦を念頭に軍功輝くプルカーエフ将軍を極東戦線司令官に任命。⑦5月、国家防衛委員会(ГКО)が関東軍によるシベリア鉄道の分断を警戒して、追加的な鉄道建設を承認。そして⑧6月にはロモフ極東軍管区参謀副長がモスクワの参謀本部作戦部副長・極東課長に転じた(綿密な作戦計画が始まったのはこの頃か!?)。
 ⑨1944年9月、スターリンは米英両国の駐ソ大使に対して対日参戦を遂に明言し、⑩11月の革命記念日には演説の中で「日本という侵略国家(Япония как агрессивная нация)」と公言する。⑪翌1945年の2月、ヤルタ会談では、「ロシア国旗が一度掲げられた土地においては決してそれが降ろさせてはならぬ(«Где раз поднят русский флаг, там он спускаться не должен.»)」と皇帝ニコライ一世が語った如く、ソ連は失地回復を確実にした。⑫他方、ヤルタ情報--ソ連参戦は「ドイツ降伏の3ヵ月後」--をスウェーデン駐在武官の小野寺信少将が直ちに東京へ打電し、⑬4月下旬には駐ソ武官補佐官の浅井勇中佐もチタから「シベリア鉄道で急増する軍事輸送」と東京に打電する。⑭その直後の5月8/9日、ドイツが遂に降伏し、バルト方面にいた極東ソ連軍総司令官のヴァシレフスキー元帥は「5月10日、モスクワに戻ると参謀本部では既に極東作戦計画に没頭していた(10 мая я вернулся в Москву. Генеральный штаб в то время вплотную занимался дальневосточным театром войны.)」と記している。
 ⑮東京の大本営は5月末、関東軍に新たな対ソ作戦計画要領を伝えたが、⑯この時に及んでも指導者達はソ連による仲介を期待して6月の時点でも、広田元首相がマリク駐日ソ連大使に日本のソ連に対する友好的態度を4度伝える有様だった。
 時の経過に従い日ソ両国の動きを見てみると、日本の指導者達はソ連の侵攻に対し警戒と準備を行っていたのかどうか、本当に疑わしい。しかも残留邦人やシベリア抑留を強いられた将兵を考える時、彼等の責任は重い。


 さて米中間の不協和音は次第に大きくなるばかりだ。①"imperial overstretch"とも映る「一帯一路」構想に米国は如何に臨むのか? ②仮に米中が再び"譲り合う"としたら如何なる分野か? を考えている。

 確かにXi's Vision of Pax Sinicaである「一帯一路」は壮大過ぎて正確には全貌を理解し難い--そこで"prioritized areas and regions"は? と考え、同時に両国間の協力が再び活発化する契機としてはHA/DR分野か? と考えている(p. 4を参照)。



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