メディア掲載  エネルギー・環境  2019.08.05

【人類世の地球環境】人間は海をどう変えてきたか?

株式会社 オーム社 技術総合誌・OHM 2019年7月号に掲載

 何度かこの連載でも書いたが、地上の生態系人間は大改造した。日本で見る作物は、ほとんどすべてが大陸からの輸入作物だ。どんぐりぐらいは国産なのかもしれないけれども、これも実は縄文時代に実が大きくなるよう品種改良された。といっても、意図的なものではなかった。単に、大きいどんぐりを集めてきて食べ、残りを住処の傍に埋めておくと、やがてそれが実を結び、それがまた集めてきた大きいどんぐりと交配して...ということを繰り返して、成り行きで品種改良されてきたわけだ。どの作物も、はじめはこのようにして、個々の人間は意図しないけれども、人間が集団として美味しいもの・実の大きいものを集めては食べ、その一部を植える(もしくはこぼれ落ちる)ということを繰り返して、人間が好きな作物になってきた。森林も、日本には原生林はほとんどない。農業や林業ではげ山にしては、新たに植林するということを繰り返してきた。白神山地ですら、人々が入り利用し続けて今日に至る。

 では海はどうか。魚は、原始の姿に近いように思える。実際、貝塚からは、お馴染みの魚がたくさん出てくる。ブリ、タイ、カツオ、アワビ、ハマグリ等だ。平安時代の貴族の食事も江戸時代の庶民の食事も、だいたい同じような魚を食べている。この理由は、魚の場合は、地上の作物のような形で人間に都合の良い品種改良が自動的に起きることがないからだろう。美味しいブリを獲ってきても、普通はそれを食べるだけで、そのブリの卵が積極的に放流されるわけではない。サケについては、人間が卵を放流していて、そこでは人間に都合の良い選択が行われていると思うが、このような放流事業は魚全体のごく一部でしか行われていないし、長い歴史の中では最近のことだ。

 それでも、海には大きな変化が起きてきた。人間の登場で、魚は全般に小さくなった。クジラ、サメ、ウミガメ等の大型の生物は激減した。昔の記録を見ると、海面を大きなウミガメがびっしり埋めていた風景というのが出てくる。大型生物が人間のせいで激減するのは地上と同じだった。それまでは生態系の上位に君臨していたが、より強力な捕食者である人間にその座を取って代わられたわけだ。

 江戸時代、すでに日本では瀬戸内海のタイは小さくなり、それで漁師は関門海峡をぐるっと回り、能登半島付近までタイを獲りに行っていた。船から手で糸を垂らすのだが、なんと1mほどもあるタイが次々に釣れたそうだ。当時の漁師が、「海の底にタイがびっしり並んでいるのではないかと思うぐらい釣れた」と話していた記録が残っている。そんな大きなタイは、今日本中を探しでも滅多に釣れない。

 実は魚の種類も、ずいぶん変わったと思われる。体系的な研究は見たことがないが(そういう研究をやってみたいが)、人間にとって、美味しくて獲りやすい魚が激減し、不味いか獲りにくい魚は逆に増えたはずだ。ニシンやスケソウダラは北海道あたりで昔は莫大な量が獲れたが、今では少なくなった。これは海流の変化などの理由もあるが、主な理由は乱獲だ。

 それにしても、なぜ魚には美味しいものと不味いものがいるのか? 魚には、いくつかの生き残り戦略がある。1つ目は、フグのように毒を持つこと。 2つ目は、トゲを持ったり平べったくなって、他の魚の口に入りにくくなること。3つ目は、速く泳ぐこと。サバ、マグロ、カツオは流線形をして、筋肉が発達している。4つ目は、群れること。 群れると、敵が接近してきた時に、その中の1匹が気づき、すぐに群れ全体が逃げることができる。

 人間の登場以前は、速く泳ぐ、群れるというのはどちらも優れた作戦だったが、人間が漁具を使うことで、これは生き残りには逆効果になってしまった。速く泳ぐ魚は、筋肉も脂肪も発達していて美味しく、流線形で食べやすい。そして群れていると、網で一度に大量に獲ることができる。世界全体で莫大な総重量がある魚、としてハダカイワシ(イワシとは別種)があり、これはイワシぐらいのサイズだが、群れを作らない。なのでほとんど漁業の対象になっていない。

 そうすると、地上では美味しいものが溢れかえる一方、世界の海では、魚はどんどん小さく、不味くなるわけだ。けれども、悲観する必要はない。漁獲の管理、稚魚の放流、養殖等で、ある程度の大きさの美味しい魚を確保できる。それから、加工や料理で小さな魚を美味しく食べることができる。天ぷらは、江戸湾の乱獲で小魚しか獲れなくなった江戸時代に発達した素晴らしい技術だ。瀬戸内海でも小魚で美味しいカマボコを作るようになった。