英国に出張した時に団体(仮称X)の方と話した。団体Xは大幅なCO2排出削減を諸国に求めている
そこでは当然ながら、石炭火力発電には反対。ただしこれだけではない。CO2排出を削減する技術についても反対対象のリストが長い。
原子力発電には反対。火力発電から排出されるCO2を地中に貯留する技術(CCS)にも反対。天然ガスにも反対。その有力な採掘方法であるシェールガスにも反対。バイオテクノロジーにも反対。
ただし、テクノロジーについて、何でも反対というわけではない。太陽光発電、風力発電、省エネ、電気白動車は賛成している。
原子力発電の関係者は、長い間、なぜ原子力発電が社会になかなか受け入れられにくいのか頭を悩ませてきた。そこで誕生したのが「リスク認知バイアス」の理論である。リスク認知バイアスとは、確率統計的に算出される客観的なリスクと、人間が直観的に抱く主観的なリスクの認識との間に乖離が生じることを指す。
例えば、航空機事故がメディアで報道された後、その利用を避けて多くの人々が長距離移動に車を利用し、かえって交通事故が増加したということがあった。同じ長距離を移動するなら、確率・統計的には航空機の方が自動車より安全なのに、人間はそれが解らなくて、かえってリスクを増やしてしまったわけだ。
リスク認知バイアスが生じるのは、人間の頭脳はコンピュータではなく、進化の産物だからだ、とされる。人間は長い間、石器時代を過ごした。そこでは、人生で一度経験したことは、現に高い確率で起きる事象であり、再発する可能性が高いという判断が妥当だった。だから、何か事故に出くわしたら、しばらく同じ場所に行くのを避けるのは、賢明な判断だった。しかし、今ではテレビで地球の裏側の事故まで見えてしまう。人はそれを、自分が経験した確率の高い事象だと勘違いしてしまう。
原発事故が一度報道されると、人はリスクが高いと認識してしまう。確率・統計的に安全性を議論しても、人々の直観的な判断を覆すことは難しい。このように人間は、確率計算が苦手であることを、よく指摘される。
しかし、と筆者は考える。これは、原子力発電に特有のことだろうか?前述の団体Xのリストを見てみると、太陽光発電や電気自動車は良いことになっている。
しかし確率・統計的には、これが原子力発電よりリスクが低いかどうかは自明ではない。例えば、材料として用いられるレアメタルの採掘については、環境リスクがあるとされる。
あるいは、原子力はよく解らないし目に見えないから怖い、と言われることがある。しかし、よく解らないし見えないのは太陽光発電もそうだ。太陽光発電は量子力学の光電効果によって行われるが、これは結構難しい。電気自動車はレアアースを使い固体廃棄物を出すが、その環境影響はよく目に見えない。
実際のところ、リスク認知バイアスの理論だけでは、団体Xのリストはよく理解できない。
むしろより重要なのは、「敵か味方か」という判断軸に思える。
人間は石器時代、バンドと呼ばれる150人程度の血族集団として活動した。火や道具の発明で自然界を制圧した人間にとって、最大の淘汰圧は人間自身-他部族との闘いだった。バンド内の結束は集団の生死を決めた。そこで人間は仲間と団結し、外部の敵と戦うように進化した。この本能はかなり強烈で、会社、スポーツ、暴力団等あらゆる場面で観察できる。
団体Xのリストを見ると、それは技術に固有のリスク認知バイアスの特性によって分かれているというよりは、その技術を推進するのは敵か味方か、という分かれ方になっているように思える。
敵とは、既存の政治体制・中央官庁・大企業である。
そして味方は団体Xとその支持者である。そこでは、現在の社会において世界は不公平で、意思決定は一部の人に不当に握られていると認識している人が多いように思える。そう思う人々がいるのは無理もない。今の日本でも、受験勉強や会社勤めでストレスを感じたり不当な扱いを受けていると感じる人は多いだろう。いつでも既存の体制に問題は少なからずあるため、それを何とか根底から変えたいと思うことは、特に若い頃には誰でも一度はあるだろう。
ある技術に反対する人々がいる時、環境の改善よりも、実は本当の目的は、それをテコにして既存の体制を覆すことなのかもしれない。この可能性を考えると、なぜある技術に反対するのか、理解できる場面があるかもしれない。