メディア掲載  国際交流  2019.06.21

米中貿易協議決裂:中国に後遺症リスクの懸念~中国指導層は長期的視点から賢明な判断を下せるか?~

JBpressに掲載(2019年6月19日付)
1.米中貿易協議決裂の舞台裏で何が起きていたのか

 昨年12月1日の米中首脳会談の合意から始まった米中貿易協議は、本年4月末頃までは順調に進んでいた。

 筆者が4月後半に北京を訪問した際には、中国政府関係者や経済専門家の間で、もう間もなく何らかの合意に到達して、米中摩擦は少なくとも一時的に鎮静化に向かうという楽観論が広がっていた。

 ところが、5月9日、10日の両日、劉鶴副総理がワシントンDCを訪問し、ロバート・ライトハイザーUSTR長官らと協議を行ったのち、期待された合意には達せず、事実上協議が決裂した模様である。

 この米中協議の予想外の展開の中で何が起きていたのか。

 5月末前後にワシントンDCで米中問題に精通した専門家数人に直接面談して確認したところ、概ね以下のような状況が分かってきた。

 複数の専門家はいずれも米中交渉当事者ではないため、一定部分の推測を含んでいるが、その見方はほぼ一致していた。

 米中協議は4月末まで、劉鶴副総理とライトハイザーUSTR長官の間で順調に進展し、百数十ページの合意文書が作成された。

 劉鶴副総理はそれを中国共産党最高幹部層である政治局のメンバーに提示したところ、米国の要求に対して譲歩し過ぎであるとの強い批判を受け、合意文書の20~30%相当部分について修正を余儀なくされた。

 その修正案を米国側に提示したところ、最終段階での中国側からの突然の大幅修正要求にドナルド・トランプ大統領が激怒し、米中協議が断絶したというのが専門家らの一致した見方である。

 加えて、彼らは交渉断絶のもう一つの理由として、協議の最終段階で米国側が中国側に対して受け入れることが極めて難しい何らかの要求を行ったことが考えられるという点も指摘した。


2.米中協議断絶の原因

 協議の最終段階でこのような状況に陥った原因は米中双方にあると考えられる。

 米国側の問題は、トランプ政権中枢に中国の国情を理解する中国通の人材がいないことである。

 このため、中国との交渉において、中国が国内政治上受け入れることができる内容とそうでない内容の区別がつかず、強硬姿勢一辺倒で交渉を推し進めた結果、最終的に中国側がどうしても受け入れることができない内容に固執してしまった。

 それが中国側にとって受け入れ不能である事実やその背景にある国内事情を理解する人材がトランプ政権内にいないため、協議が決裂するまでその問題点を分かっていなかった。

 中国側の問題は、協議における交渉責任者である劉鶴副総理と党内の多数派を占める対米強硬論者との対立にあると推察される。

 劉鶴副総理が主管する政策分野は米中貿易交渉のほか、マクロ経済政策運営、金融リスク防止のための金融・財政改革(特に地方財政改革)、国有企業改革などである。

 これらの改革は、国有企業、地方政府、金融機関といった従来からの既得権益層の既得権益を奪い、中国経済に市場メカニズムと自由競争の導入を促進し、経済の活性化と長期安定的な経済発展基盤を構築することが目的である。

 当然既得権益層からは強い反発を招く。しかし、これまでは習近平主席の改革推進に対する強い支持もあって、既得権益層は表立って改革推進に反発することが難しかったと推測される。

 特に国内既得権益層の抵抗が強く、改革の推進が難しかった案件については、米国からの厳しい外圧を利用することによって改革の徹底を図ってきたと見られている。

 劉鶴副総理が国内重要改革の推進と米中貿易交渉の両方を一人で担当していることから、両者の間のバランスをうまく取りながら任務を遂行することが可能になっているという事情がある。

 これに対して、既得権益層は習近平政権として重視している改革には表立って反対できないが、米中協議の結果を批判することにより、それを劉鶴副総理批判の材料として、国内重要改革の推進にもある程度ブレーキをかけたいという思惑が働いていると考えられる。

 昨年7月に米中摩擦が激化した時点でも同様の現象が見られ、劉鶴副総理の対米交渉の結果が批判され、その延長線上で国内改革の推進の仕方についても批判された。

 しかし、その後、米国の予想以上の強硬姿勢が明らかになるとともに、国内改革推進に関しても一定の配慮を行ったことから、厳しい批判は沈静化したように見えた。

 そうした既得権益層による劉鶴副総理の改革推進に対する反発は根強く、チャンスがあればいつでも再燃する状況が続いている。

 政治局内部でもそうした既得権益層との結びつきが強いメンバーが多数派を占めていると考えられる。

 今回の合意文書に対する修正要求の背景にはそうした中国国内事情が存在すると考えられる。


3.中国国内政策への波及効果

 もし仮にこの中国側の修正要求が原因となって米中協議が暗礁に乗り上げれば、劉鶴副総理に対する批判がさらに強まり、国内改革推進の面においても批判を浴びやすくなり、劉鶴副総理自身の求心力が低下して改革の断行が先送りされる可能性が懸念される。

 これは当面の中国経済にはそれほど大きな悪影響を及ぼさない。

 足許の中国経済は、これまでの経済政策運営の成果を背景に安定を保持していることから、米国との貿易摩擦によるマイナス効果も十分吸収可能である。

 しかし、改革先送りの後遺症は2025年前後以降、中国の高度経済成長時代が終焉を迎え、安定成長期へと移行する頃から徐々に明らかになってくる。

 国有企業、地方政府、金融機関の構造欠陥が改善されないまま、経済成長率が3~4%前後の安定成長期を迎えれば、その弊害は急速に表面化する。

 それは日本の国鉄、電電、郵政の経営悪化問題などが1980年代に一斉に噴出したことを思い起こせば明らかである。

 日本は高度成長期終焉時点で政治面では民主主義が定着しており、安定した政権交代が可能だった。

 加えて、土光敏夫経団連会長(当時)というカリスマ的リーダーが国民各層の広い支持を得て国内改革を強力に推進したため、安定成長期における改革推進を何とか実現した。

 日本の1980年代に相当する安定成長期開始の時期は、中国では2030年代になると予想される。その頃に中国が日本と同様に改革を実現できる保証はない。

 中国が直面する構造問題は、国有企業の経済全体に占めるウェイトの大きさが日本に比べてはるかに大きく、日本ではそれほど深刻ではなかった地方財政や金融の問題も深刻であることを考慮すれば、中国の方が改革推進の難度が高いのは明らかである。

 こうした状況が予想されるからこそ、2017年秋の党大会後、習近平主席が劉鶴副総理に改革の舵取りを委ねて、強力に改革を推進してきた。

 これに対する抵抗勢力も習近平主席の強い意思やその構図が見えているからこそ表立って批判できない状況だった。

 今回の米中協議断絶問題を機に、劉鶴副総理の改革推進の求心力が低下すれば、中国経済が米国経済にほぼ肩を並べる2030年頃に構造問題の悪影響が本格的に表面化する可能性が高い。

 地方政府および国有企業を主因とする財政赤字、金融コントロールの不備によるバブル経済の形成と崩壊といった深刻な経済問題に直面し、それが原因となって長期経済停滞に陥るリスクが高まる。

 トランプ政権がそこまで深慮遠謀をもって対中戦略を考えているとは思えないが、中国の既得権益層の発言力を強めさせ、改革推進を妨げることになれば、結果的には中国経済の成長を止めたいと考えているトランプ政権の思惑が実現する可能性が高まる。

 これが中国が将来直面すると予想される米中協議の後遺症リスクである。

 以上を考慮すれば、中国としては米国に対して大幅な妥協をしても、米中摩擦を何とか早期に沈静化させ、残された短い高度成長期の間に国内重要改革の推進に注力することが賢明である。

 中国経済が順調に発展を続ければ、日本、アジアをはじめ、欧米諸国も経済的な恩恵を享受する。

 また、中国国内でも健全な市場経済の形成が徐々に進み、いわゆる「国家資本主義」に近い既得権益勢力の力が低下傾向を辿ると考えられる。

 逆に、改革が進展しなければ、中国経済の市場経済化もスローダウンし、中国経済とのウィンウィン関係にある日米欧・アジア諸国等の経済的メリットも低下する。


4.米国経済への影響と今後の展望

 現在の米中協議断絶状況を打開するための突破口となると期待されているのは米国経済の変調である。

 そもそも米中摩擦激化の主因はトランプ政権の対中強硬姿勢であり、その目的は大統領選挙でのトランプ大統領再選である。

 現職大統領が再選されるためには選挙期間中の経済情勢の安定確保が極めて重要である。

 もし米国経済が今後下降局面を迎えれば、トランプ大統領再選には不利に働く。そこで注目されるのが株価と経済情勢である。

 トランプ大統領は株価の動向を常に気にしていると言われている。米中摩擦の深刻化が米国経済に悪影響を与えることが強く懸念されれば、株価にも悪影響が及ぶ。

 現時点では、経済は比較的堅調を維持しており、ニューヨークの金融関係者の間では、米中摩擦の悪影響は米国経済にとって大したインパクトはなく、十分吸収可能であると受け止められている。

 それを背景に、株価もあまり影響を受けず、安定的に推移している。このため、トランプ大統領も中国に対する強気の姿勢を崩していない。

 経済情勢については、トランプ政権が打ち出した景気刺激策が奏功し、足許は安定を保持している。

 しかし、先行きについては本年後半から来年前半にかけて、米国経済が下降局面に入る可能性が指摘されている。

 加えて、米中協議が合意に至らなかったため追加的対中制裁として5月10日に追加された、2000億ドルの対象品目に対する25%の関税引き上げの効果が6月以降表面化し、米国内消費者の購入価格が上昇すると予想されている。

 これまで対中経済制裁の関税引き上げの影響は、一部の米国企業と中国向けに大豆などを輸出する農民に限られていたが、これからいよいよ消費者全体に影響が及び始める。

 これが経済全体にどのような影響を及ぼすか、またトランプ政権支持者の動向にどのような影響を及ぼすかが注目されている。

 今後、米国の株価の低下、関税引き上げに対する消費者の反発の広がりといった経済面の変化が見られ始めれば、トランプ政権の対中強硬姿勢にある程度影響が生じ、米中協議の合意に向けて一定のインセンティブが働くと期待されている。

 そうした将来の米中摩擦の鎮静化に向けて、6月下旬の大阪G20開催時に米中首脳会談が行われ、両首脳間のコミュニケーションのパイプがきちんと保持されることは非常に大きな意味をもつ。

 今回の米中首脳会談で新たな方向性が示される可能性を期待する見方は少ないが、両首脳間の関係保持のためには重要性が極めて高いという点で米国の有識者の見方は一致している。

 日本の安倍晋三首相はトランプ大統領とはもともと良好な関係を保持しており、最近は習近平主席との関係も急速に改善しつつある。

 その安倍首相が米中首脳間の良好な関係保持の促進に一定の役割を果たすことを期待する声は少なくない。

 引き続き米中関係、および日本がそこにおいて果たす役割に目が離せない状況が続く。