地球温暖化は「生活型環境問題」であって、いわゆる典型七公害(大気汚染、水質汚染、土壌汚染、騒音、振動、地盤沈下、悪臭)とは違う、という言い方がされる。確かに、規制側から見るとこの分類は当たっている。典型七公害は、主に事業者を規制すれば片付く問題であった。これに対して、CO2 は経済のあらゆる主体・あらゆる活動から排出されるので、それを抑制することは容易ではない。
そして、地球温暖化問題は生活型環境問題であるがゆえに、ライフスタイルを変更しなければならない、と論じる人々もいる。これは一見正論のようだけれども、実は問題の解決をもっと難しくしている気がしてならない。
というのは、現実には、人々は贅沢が好きで、一度手にした快適性を捨て去ることは難しいからだ。バッグを持ち歩くとか、ハイブリッドカーを買うとか、生活の一部を変えることはできるし、多くの人はそうしている。しかしその一方で、まったく同じ人が、大きな家に住むとか、ご馳走を食べるとか、海外旅行をする、高額な医療を受ける、といったことをしている。それで国や世界といったマクロなレベルで見ると、CO2 はなかなか減らない。人々の心がけや規制によるライフスタイルの変更で、CO2 が大幅に減らせるとは到底思えない。
生活型環境問題であるがゆえに、無数の主体を規制するには限度があり、だから環境税を導入すべきだ、という意見もある。だがこの議論もまた、問題の解決を難しくしている。本当にCO2 が大幅に減るような環境税というのは大変な高額になるので、経済の観点からも安全保障の観点からも慎重になった方が良いし、政治的に実現可能にも思えない。
実は生活型環境問題であるという捉え方自体が間違いで、CO2 も公害と同じように対処できるし、そう考えた方が、解決への見通しが良くなる。公害問題は、アフォーダブルな(=受容可能なコストの)技術によって解決してきた。CO2 も同じことではないか。
日本は1960年代から70年代にかけてひどい公害に見舞われたが、それはおおむね解決されてきた。当時、「くたばれGDP」といった標語があったように、ライフスタイルの見直しが叫ばれた。しかしながら、実際に起きたことは、アフォーダブルな技術が開発され、それによって対策がなされたのであった。すなわち、NOxなどの自動車の排気ガスについては、三元触媒が開発された。工場のSOxなどの排煙については、排煙処理技術が開発された。これらの技術が利用できたことで、冷戦を戦いながら、経済成長を謳歌したうえで公害問題を解決する、という偉業が達成できた。
そして実は、CO2 についても、アフォーダブルな技術が存在する範囲においては、すでに大幅削減を実現してきた。例えば、LED照明が発明され、白熱照明や蛍光灯を置き換えている。また液晶によるフラットディスプレイが発明され、これによってブラウン管ディスプレイが置き換えられている。米国ではシェールガスが開発され、ガス火力発電が石炭火力発電を置き換えて、CO2 を削減した。日本では、人工知能によってエアコンが制御されるようになり、省エネになった。CO2 は確かにその排出主体は多岐にわたるけれども、所詮はCO2 という1種類の物質に過ぎない。これに対して、公害問題という場合には実に多くの物質が関わっていて、これまた多くの主体が関わる。CO2 削減には巨額のコストがかかるが、公害問題についても、その総計で言えばやはり巨額なコストがかかる。全体として見た時に、温暖化問題と公害問題は大して変わらない。
2030年、2050年といった将来を考えてみよう。
政治が特に優れたものになるとは思えず、相変わらず自分の取り分を巡る争いが続くだろう。国際的には、相変わらず基本的人権などの普遍的価値を擁護しない国々が多く存在する。技術は進歩し、特に人工知能は発達するけれども、おそらく道具の域を出ることはなく、人間はそれを使いつつ、まだ働き続けているだろう。
人々が聖人君子になるとは到底思えないけれども、技術進歩には期待が持てる。アフォーダブルな技術が次々と生まれることによって、CO2 の削減が1部門ずつ、1機器ずつ、着実に容易になる。それは、既存の技術を凌駕して自発的に普及する場合もある。あるいはそこまでいかなくても、既存の技術とあまり遜色がなくなるならば、少しばかりの政策的な後押しをしてやれば良い。
日本の役割は、アフォーダブルな技術を続々と生み出すことだ。