コラム 財政・社会保障制度 2018.12.21
根本匠厚生労働相は、2018年12月14日の閣議後の記者会見で、「妊婦加算」制度の運用凍結を正式に表明した。「妊婦加算」とは耳慣れない制度だが、妊娠中の女性が医療機関を外来受診した際に初診料などに料金が上乗せされる仕組みである。妊娠している女性に配慮し、丁寧な診療を行う必要があるとして設定され、2018年4月の診療報酬改定から導入された。しかし、わずか9か月で見直しとなった。まさに朝令暮改だ。この発表を受けて、妊婦加算による上乗せ分の医療機関への支払いと、妊婦からの徴収は2018年内で全面的に停止される。
もともと、制度導入の当初から妊婦に自己負担を求めること自体「妊婦税ではないか」といった批判があった。実際、初診で自己負担が3割の場合、230円程度の負担増となる。政治的な動きが起こったのは、12月13日午前の自民党の厚生労働関係合同会議である。「妊婦加算」の仕組みは、社会全体で子育てを支援する考え方に逆行し、とうてい国民から理解が得られないとして、できるだけ早期の見直しを厚労省に求めたのである。これを受け、13日午後には公明党も厚生労働部会の会合を開き、制度への懸念があるとして、医療機関の窓口で支払う医療費の上乗せを凍結するよう求めた。そして、結局、翌14日の根本厚労相の凍結表明に至ったのである。
これら一連の政治的対応は異例の速さで進行した。実際、小泉進次郎厚生労働部会長にとっても予想以上だったようで、14日のNHKニュースによれば、東京都内の講演で「国民の中から『おかしい』という声があがったことで政治が動き、予想を超える早さで結果が出たのではないか」と述べたとのことである。
さて今回の問題の背景は何だったのであろうか。そもそも、妊婦と気がつかないままに、胎児に悪影響があるレントゲン検査や投薬が行われるといった質の低い医療はあってはならないはずだ。厚労省には、当然、質の高い医療を実現する施策が求められる。そこで厚労省は、医師にその方向への経済的インセンティブを与えようとしたのだ。すなわち、妊婦を診察することで加算があれば、医師は患者が妊婦かどうかを慎重に見極め、妊娠への影響がない検査や投薬に配慮するようになるのではないかと想定したようである。
すなわち、「加算」に期待される役目は、望ましい方向に政策を誘導する「てこ」の働きだ。それは微調整に過ぎないが、一定の効果は期待される。確かに、病院経営者は加算による収入増を歓迎するし、それで医療の質が向上するのであれば患者にとっても望ましい。
しかし、この「加算」による政策誘導は利点ばかりではない。患者の窓口負担は増加するし、当面の医療費も増加するリスクは避けられない。また、妊婦税と受け取られれば、少子化傾向をさらに悪化させるにことになりかねない。まさに、今回の「妊婦加算」停止の政治的決定は、そのような負の側面を懸念する国民の声を、政治家の側がスピード感をもってうまく捉えた結果だったと言えよう。
もともと、この加算による政策誘導は、医師という職業性にとって必ずしも歓迎されるものではない。妊娠している女性に配慮して適確な診療を行うのは、本来、医師にとって当然の理である。プロ意識に徹した医師であれば、加算による政策誘導は必要ないはずである。したがって、加算があれば医師が本来やるべき事を行うのではないかと行政側から見なされること自体、プロ意識の高い医師にとっては不名誉なことである。
このように加算は、医療におけるさまざまなジレンマを表出させる「てこ」としても働く。それは「妊婦加算」に限らない。例えば、2018年4月の診療報酬改定で新設された「小児抗菌薬適正使用支援加算」にも同様な問題が見られる。この加算の名前は長くてわかりにくい。また、素直に読めば、抗菌薬を正しく使うことを支援するという加算だが、実際は、使わないことを正しく判断することを支援するという、まことに分かりにくい加算だ。
これまで、小児科の外来診療は、「小児科外来診療料」や「小児かかりつけ診療料」と呼ばれる包括払い方式で行われてきた。診療の内容、治療や検査にかかわらず一日あたりの診療料が定額となるしくみだ。「小児抗菌薬適正使用支援加算」では、医師が急性気道感染症(または急性下痢症)の小児患者に、抗菌薬は「不要」と判断すれば、定額の診療料に加えて80点(800円相当)の上乗せが許されるのである。ただし、そのためには文書による情報提供を行うことが必要とされる。小児科外来診療料では3歳未満の乳幼児が、また、小児かかりつけ診療料では未就学児が対象となる。
同加算を導入した厚労省としては、抗菌薬の使用量を2020年度までに対2013年度で3分の2に減すという「薬剤耐性(AMR)対策アクションプラン」を達成したい背景があるといわれる。まさに、加算による政策誘導である。確かに、AMR対策は国連が国際的課題として取り組んでおり、地球温暖化対策同様、各国が目標を達成する必要がある。
しかし問題は、やはり「加算のジレンマ」がそこにあることだ。かぜ症状で来院する乳幼児の9割程度はウイルス感染症であり、本来、抗菌薬はほとんど不要である。したがって、乳幼児の外来患者の多くで、同加算は算定できることになり、病院側の収入増につながる。そのため、加算を得ることを前提に、安易にウイルス感染と判断してしまうケースが増えないか懸念される。そうなれば、それだけ細菌感染の見逃しが増える心配がでてくるのだ。
その場合、明らかに細菌感染を起こしている乳幼児には不利益が生じる。一方、ウイルス感染の乳幼児の保護者にとっても、必要な薬をもらうから対価を払うのではなく、不要な薬をもらわないために追加の支払いを行うという、日常の感覚ではあまり納得のいかない話となる。医師のプロ意識からすれば、抗菌薬の使用を適確に判断すればよいだけなので、本来、加算は不要のはずである。しいていうなら、抗菌薬の必要な患者を慎重に見極め、適確な検査を行うことによって、細菌感染を見逃さなかったという努力に対して加算がつくというのが筋である。医療費の節減に逆行して、不要の判断にわざわざ加算する必要が本当に妥当なのか疑問が残るところだ。
以上から分かるように、加算による政策誘導には錯綜するジレンマが存在し、その効果にはおのずと限界がある。ジレンマを生じる関係者の利害関係が必ずしも明確ではなく、加算の論拠や妥当性についての客観的・定量的な評価もあいまいだからだ。したがって、「妊婦加算」のように国民から分かりやすい論点が浮き上がれば、一気に政治側の声によって見直しが起こるが、一方、「小児抗菌薬適正使用支援加算」ように、わかりにくいものは取り残されてしまう。そのような場当たり的な修正を繰り返しても、とうてい抜本的改革は達成できないのである。そこに、加算を基礎としたわが国の診療報酬制度改革の本質的問題があるといえよう。
もちろん、厚労省も、加算の論拠や妥当性の評価が今後必要となることを認識している。実際、2016年度から試行的に、新しい薬価制度がスタートした。公定薬価の「加算」に医療経済学的なものさしを当て、費用対効果に基づいて薬価を調整する。新HTA(医療技術評価)と呼ばれ、「加算」の意義を明確にする試みである。まだ第1歩を踏み出したに過ぎないが、診療報酬改定の論拠と妥当性が不明確な問題の壁に、初めて費用対効果の観点から風穴を開けた点で、歴史的な意義は大きい。さらに2019年度からは本格的導入も予定される。
今日、医療費の高騰により、国民皆保険の持続可能性が危ぶまれている。その基軸となる診療報酬制度の改革は待ったなしの状況だ。医療は国民のいのちと健康にかかわるだけに、制度改革を、「加算」を基礎とした経済的インセンティブだけで行うには限界がある。「妊婦加算」に見られたような場当たり的な見直しでは、決して本質的な問題解決にはつながらない。目標は、患者中心の最善の医療の実現に向けての、新しい診療報酬体系の再構築である。そのためには、医療経済学的な観点から、診療報酬の論拠と妥当性を明確にしていくことが望まれる。