メディア掲載 国際交流 2018.12.13
東海道新幹線に乗り最近気付く事の一つがアナウンスに英語が加わった事だ。以前は録音テープで英語が流れていたが、今は"生"の声で英語が聞こえてくる。東京五輪を控えたJRの"おもてなし"の姿勢と車掌さんの努力に感心している。と同時に駅構内の電光掲示板に行き先がローマ字で表示されると読みづらく「ここは日本なのに!」と、急いでいる時にはいら立ちを感じてしまう。このように我々は"好むと好まざるとにかかわらず"、グローバル時代のグローバルな情報交換を実感している。
誤解を招く事を恐れずに単純化して述べると、"日本語ファン"である筆者は早期の英語教育を疑問視している。すなわち「日本語を正しく話せない中途半端な日本人」が中途半端な英語を話しても役立たない。換言すれば、日本の外へ一歩出た途端、観光旅行の場合は別として、中途半端な外国語では中途半端な情報交換しかできないのだ。
ロボット工学分野の代表的日本人の一人、金出武雄先生は、「身ぶり手ぶり、互いにブロークン英語で完全に通じた。言葉などなくても、人間同士、気持ちさえあれば、理解し合える」という考えに厳しい。それは「言葉がなくても通じるレベルの事が通じた」だけとのお考えだからだ。
かくして我々は現代の"共通語(リンガ・フランカ)"である英語やその他の外国語を徹底的に学習するか、あるいは極めて優れた通訳(それとも人工知能)を頼りに、自らの考えを完全に伝える、という二つの選択肢の間で揺れ動いている。
こうした中、筆者は外国語学習のため傷(恥)だらけになりつつ、ほふく前進の毎日だ。なぜならグローバル化が深化する中、次のような厄介な事例が急増しているからだ。海外の重要な情報(ネット情報や印刷物)が翻訳に時間を要した結果、翻訳完了時には陳腐化した情報、誤訳だらけの情報、さらには翻訳されない情報----。こうした悩ましい事例が急増している。
いじわるな英国の友人たちはわざとシェイクスピアやディケンズの一節を引用し、筆者の英語力を試そうとする。その一方で、中国の友人たちに四書五経や唐詩選を引用しつつ語りかけると、真剣になって耳を傾けてくれる。こうした悲喜こもごもの試行錯誤こそ、グローバル時代の国境を越えた情報交換に伴うものと筆者は自らを慰めている。
10月初旬、ハーバード大学の若手研究者の一人、エドワード・カニンガム氏が初来日し、国際関係について意見交換する機会に恵まれた。彼は筆者の稚拙な中国語を我慢して聞いてくれると同時に、中国人との間に入って筆者の話を優れた中国語に訳してくれるジェントルマンだ。今回も欧米に忍び寄る反ユダヤ思想や歴史問題を含め、難しい国際関係を語り合った。例えばハーバードの学長を長年務めたコナント教授--原爆投下を決定した専門家委員会のリーダー--は反ユダヤ思想の持ち主で、そのせいかユダヤ系のサミュエルソン教授ですら若い時には苦労した事をはじめ、公の場では声を出して話しにくい事柄を教えてくれた。
グローバル時代、我々は独自のグローバルな情報交換スタイルを持たなくてはならない。この現実を痛感する毎日である。