コラム  国際交流  2018.09.03

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第113号(2018年9月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 8月に東京を訪れた2人の米国人が筆者に質問をした--①そのうちのひとりは、彼が今年年初に出版した著書の日本での出版の可能性を、②もうひとりは、日本で近日出版予定の彼の本の邦訳者の評判を質問したのだ。

 千変万化の世界情勢を伝える洋書は重要で、翻訳者も、「翻訳者はまめな媒酌人と見なされる(Übersetzer sind als geschäftige Kuppler anzusehen)」とゲーテ先生が語っておられる通り大切だ--ただし訳者がまめであれば原書の魅力を増幅してくれるが、そうでないと原書の魅力は顕現しない。最近、AI援用の翻訳機が普及し始め、観光や簡単なビジネスの会話に使えるようになった。だが命題「AIは優秀な翻訳者に対し代替が可能」には疑問符が付く。例えばアカロフ、シラー両先生の本(Phishing for Phools, 2015)のタイトルをAIはどう訳すだろうか。実際の訳本は、邦訳版が(『不道徳な見えざる手』, 2017)、漢訳版が(«钓愚», 2016)と「さすがはプロの翻訳」と納得すると同時に「同レベルの翻訳がAIに可能か?」と考えている。また日本文学の専門家ドナルド・キーン先生が称賛される近松の『冥途の飛脚』の中の言葉、例えば「一度は思案、二度は不思案、三度飛脚。戻れば合はせて六道の、冥途の飛脚」をAIはどう翻訳するか、興味津々たるものがある。


 1945年から数えて74回目の"敗戦の日"を迎えた。天皇陛下の御言葉「過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬこと」を銘記し、自分なりの歴史の教訓を考えている。

 情報や諜報活動に関心を持つ筆者は、終戦時、連合艦隊の参謀だった千早正隆氏の言葉を思い出している--「海軍全般として、情報を研究、教育する学校組織はなかったし、海軍兵学校および海軍大学校でも情報に関する教育は、ほとんどなされなかった。情報は日本海軍でもっとも軽視された部門であった」。これに関連し、黒川清東京大学名誉教授から三谷太一郎先生の「ミッドウェー海戦直後の山本五十六書簡」 (『UP』昨年10月号)を教えて頂いた--山本長官は、帝国海軍の機密漏洩に関し手紙の中で同盟国(独伊)を疑っている。確かに同盟関係は希薄であったが、史実が語っているのは「日本の暗号」が解読されて1942年6月初旬のミッドウェー海戦以前に機密漏洩が生じていた事だ。即ち5月10日、独海軍の仮装巡洋艦(Thor)がインド洋上で英国商船(Nankin)を拿捕したが、鹵獲(ろかく)物資に連合国の統合作戦諜報センター(Combined Operation Intelligence Center (COIC))から英国東洋艦隊のコロンボ基地に宛てた暗号解読情報書類が含まれていた。独海軍の艦長が同盟関係と暗号解読の意義を理解し、もし("IF")、遅滞なく書類を帝国海軍に渡していれば、6月の海戦前に暗号解読の事実を帝国海軍が察知したかもしれないし、連合艦隊も敵機来襲に対し警戒心を高めたかもしれない。また暗号解読を通じ米海軍の機動部隊が連合艦隊を待ち伏せしていた事を、Chicago Tribune紙が6月7日付記事("Navy Had Word of Jap Pan")として報道したため、暗号解読成功の事実が敵に漏れる事を恐れたキング合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長は激怒したが、日本側は在外居住者を含めて誰も気付かなかった(Washington Times-Herald紙等、他紙も報道していたのに!!)。

日独関係を学べば学ぶほど、上述したように戦前・戦中の同盟関係の希薄さを感じる日が続いている。

 最も衝撃的な事は、松岡洋右外相の訪欧時における日独間の"すれ違い"だ。訪欧を終えて帰国した1941年4月22日、外相は皇居に参内して「文武両分野にわたり、現代独逸の指導者殆ど全部と漏れなく接触」し、「きわめて率直なる懇談を遂げ」た旨を天皇陛下に奏上した。しかし史実は、外相の訪欧は"形式的・すれ違い"の連続であった事を証明している。即ち①訪欧以前の1940年7月、ヒトラーは対ソ戦を語り、その事をハルダー陸軍参謀総長が「かくして欧州とバルカンの支配者はドイツだ(Der Herr Europas und des Balkans ist dann Deutschland)」と日記に記している。②11月、独ソ関係が悪化して、独ソ戦は不可避となり、③12月18日には「総統指令第21号」(正式な対ソ作戦(Barbarossa)指令)が、翌1941年3月5日には「第24号」(対日協力(Zusammenarbeit mit Japan))が発令された。しかも総統は、「第24号」の最後に「対ソ作戦を日本に伝える事を禁ずる(Über das Barbarossa-Unternehmen darf den Japanern gegenüber keinerlei Andeutung gemacht werden)」と記した。一方の日本は1941年2月3日の大本営政府連絡会議での「対独、伊、蘇交渉案要綱」を基に、日独伊ソ4ヵ国同盟を夢見つつ、外相が訪欧したのだ。これに関して、三宅正樹明治大学名誉教授は、「日本の情報収集能力のはなはだしい弱体ぶり」を指摘され、「このような独ソ戦への動きをまったく知らずに、この時にはもはや失われた幻影と化していた四国連合構想...を金科玉条」としていたと述べておられる。1941年前半、山下奉文陸軍中将率いる使節団が訪独してハルダー参謀総長と面談し、電撃戦(Blitzkrieg)で有名なグデーリアン将軍から講義を受けたにもかかわらず、対ソ作戦に関し、ひと言も彼等から教えてもらえなかった理由の1つが「総統指令第24号」の最後の命令文だと知り、深い嘆息をもらしている。


 かくして先人の試行錯誤から学び、歴史の教訓を胸に秘めて明るい未来を形成したいと考える毎日である。



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