コラム  外交・安全保障  2018.06.13

「インド太平洋戦略」と沈黙する日米豪印「クアッド協力」

シャングリラ・ダイアローグと「インド太平洋戦略」

 6月上旬にシンガポールで開催されたアジア太平洋安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)では、2つの大きなハイライトがあった。ひとつは開催前夜の夕食会でのインドのモディ首相の基調講演であり、もうひとつは本会議での米国のマティス国防長官の演説である。

 この2つの演説の共通のテーマと目されたのは「インド太平洋戦略」だ。モディ首相は5月下旬にインドネシアとマレーシアを訪問し、東・東南アジアとの政治・経済的連携を重視する「アクト・イースト」政策を展開した。アジア安保会議の場は、インドにとっての「インド太平洋戦略」を可視化し、日米豪印4カ国とASEANを位置づける格好の場であると考えられていた。

 シャングリラ・ダイアローグに2度目の参加となるマティス国防長官にとっても、米国防総省と米軍による「インド太平洋戦略」を具体化し、参加各国に呼び掛けていく機会と位置付けられていた(米国防省幹部へのヒアリング)。既にトランプ米大統領は昨年11月のアジア歴訪において「自由で開かれたアジア太平洋戦略」を推進することを発表し、この方針は同政権下で策定された『国家安全保障戦略』(2017年12月)に引き継がれた。マティス長官は直前に立ち寄ったハワイでの米太平洋軍司令官交代式典で、米太平洋軍を「インド太平洋軍」に改名していた。

 昨年トランプ政権が「インド太平洋戦略」を打ち出して以降、それまで日本、オーストラリア、インドなどが個別に唱えてきた同地域概念が、化学反応が起こるように急速に収斂していく兆しが生じていた。その勢いを牽引したのは、日米豪印の4カ国(クアッド)での協力を深めることに、日米両国のみならずインドとオーストラリアまでもが躊躇しなくなったことにある。


日米豪印「クアッド協力」の再生

 かつてインドとオーストラリアは、中国との経済的相互依存を背景に日米豪印の明示的連携を避けてきた経緯がある。しかし昨年11月の日印首脳会談、今年1月の日豪首脳会談の中で、インドとオーストラリアの両首脳は日米印・日米豪の3カ国の協力に加えて、日米豪印クアッドの戦略的協力の促進で合意をしている。そして昨年11月にはフィリピン・マニラで実に10年ぶりとなる日米豪印外交当局による局長級戦略対話が開催された。また本年1月にはインドで日本の河野克俊統合幕僚長、米太平洋軍のハリス司令官、インドのランバ参謀長委員会委員長、バレット豪州海軍本部長が一同に集う国防当局間のクアッド対話が実現した。さらに2月にはビショップ豪外相が日米豪印の4カ国で「一帯一路」の代替となる質の高い共同インフラ計画を推進する意向があることが報じられた。

 こうした外交・国防・経済にまたがるクアッド協力の進展と、印豪両国における対中認識が厳しくなった時期は符合している。インドでは中国の急速な海洋進出や南アジア諸国への莫大なインフラ投資に対する警戒感が高まり、昨年5月に北京で開催された「一帯一路」会議にインドは代表団を送らなかった。また昨年6月以降には中・印・ブータンの3カ国の国境に位置する「ドクラム高地」で中印両軍が対峙し国境紛争が再燃したことや、今年2~3月にモルディブ近海で両海軍がにらみ合ったことも、インドの対中認識を硬化させた。

 オーストラリアでは昨年11月に14年ぶりに発表された『外交政策白書』で、中国の南シナ海での人工島造成に厳しい認識を示し、インド太平洋地域での自由主義諸国の連携を強く打ち出した。また中国がオーストラリアの政界・財界・学術界に献金などを通じた組織的介入を通じて影響力を行使する「シャープパワー」の懸念が高まった時期でもあった。

 このような背景から、シャングリラ・ダイアローグでは日米豪印がそれぞれの「インド太平洋戦略」を持ち寄り、互いの構想を具体化し収斂させていく場となるだろう、と多くが予想していた。折しも、しばしば米国と激しい議論の応酬がある中国は昨年に続き今年も高位級の代表を参加させなかった。かつては国防相(2011年に梁光烈国防部長が参加した)が参加した年もあったのだが、その後は統合参謀部副参謀長を送り、昨年からはさらに格下の軍事科学院副院長の何雷中将が代表という立場で参加するにとどまった。中国がシャングリラ・ダイアローグへの参加に意欲を失っていることは明白である。中国が実質的に欠席するなか、日米豪印が「インド太平洋戦略」を展開する環境は整っていたように思われた。


モディ首相の志向する「包摂性」とクアッドへの沈黙

 果たしてモディ首相のスピーチは品格に溢れ、堂々とした内容だった。インドにとっての「インド太平洋地域」はグローバルな機会と挑戦に直面する「自然な地域」であり、自由で開かれ包摂的な地域を形成することが重要だというメッセージは明確だった。

 ここからが重要なポイントである。モディ首相は演説の中で、インド太平洋地域が「戦略とか、限られた国々によるクラブとか、何かを支配する枠組みとか、いかなる国に対抗しようとするものではない」とした。むしろ間接的にインド太平洋と「クアッド」との関係性を否定したように解釈できる。

 そしてモディ首相はインド太平洋が、①自由で開かれ包摂的な地域であること、②ASEANの中心性が平和と安全な地域のアーキテクチャを形成すること、③対話と共通のルールに基づく秩序によって構成されること、④海・空などのコモンズにおける自由と国際法を重視すること、⑤保護主義を警戒し自由な国際貿易を推進すること、⑥大国間の競争の場としないこと、という6点を原則として提示した。

 モディ演説では、昨年たびたび示されていた中国に対する厳しい認識や、日米中印「クアッド」への言及は示されなかった。同演説の中で「米国」が言及されたのは僅か2回、オーストラリアに至っては1回に留まった。その一方で「インドにとって中国との関係ほど多層に及ぶものはない」という認識のもと、「インドと中国が協力することがアジアや世界のより良い将来につながる」と、中印関係の建設的発展への期待を述べたのである。

 インドの「インド太平洋戦略」(同演説では「戦略ではない」と言及しているのだが)がここ数カ月で転換したかどうかを判断するのは時期尚早だが、モディ首相が包摂性を重視し、クアッドのような排他性を注意深く退けていたことは銘記されるべきである。

 この原因について、会議に参加をしていて多くの有識者は、4月下旬に中国・武漢での習近平主席とモディ首相との会談が大きな転機となっていると分析していた。両首脳はこの会談で最大の懸案であった国境紛争の回避策を強化することで合意している。また中国はトランプ政権との貿易摩擦が深まる中でインド経済との連携を深め、インドも総選挙前に中国との経済協力を拡大することで双方の利害が一致したとみる。武漢会合での中印関係は「かなり本質的に転換した」(中印関係に詳しい専門家へのヒアリング)という評価も聞かれる。こうした背景によって、モディ首相の演説の内容をより深く読み解くことができるだろう。


マティス国防長官の「インド太平洋戦略」とクアッドの削除

 毎年のシャングリラ・ダイアローグのハイライトとなる米国防長官の演説は「インド太平洋の安全保障における米国のリーダシップと挑戦」と題され、マティス長官による本格的なインド太平洋戦略の提示が予期されていた。昨年の同会議で、トランプ政権発足後数カ月で最初の舞台に立ったマティス長官はどこかたどたどしく、演説内容や質疑応答は精彩を欠いていた。しかし今年は演説内容を充実させ、質疑応答の安定感や成熟性は昨年をはるかに凌いでいた。米国がアジア諸国に対して安定的で配慮の行き届いた関与の姿勢を示す、安心供与において大きな成功だったと評価してよい。

 マティス長官は「自由で開かれたインド太平洋戦略」が国家安全保障戦略と国家防衛戦略で示されたトランプ政権の全政府的アプローチであることを前提としながら、インド太平洋が米国の安全保障、経済、開発投資に関する優先的な地域であることを示した。その上で、マティス長官がインド太平洋戦略の原則として掲げたのは、①海洋安全保障(海洋通商路の安全と海軍・法執行機関の能力構築支援)、②相互運用性(同盟・パートナー国とのネットワーク形成及び米国製兵器の輸出)、③法の支配・市民社会・透明なガバナンス(経済発展のためのガバナンスと軍の役割)、④民間主導の経済発展(地域における質の高いインフラ投資)の4つの原則である。

 昨年の演説と大きく異なるのは、マティス長官演説でのASEANに対する理解の深まりである。インド太平洋戦略は「同盟・パートナーを優先し、ASEANの中心性を依然として重視し、中国と可能な領域で協力していく」ものであるとし、限定的ながらも包摂性を踏まえASEANの役割を強調した。そして地域における共通の原則を守るためにも、ASEAN地域フォーラム(ARF)や拡大ASEAN国防相会議(ADMMプラス)などの制度の重要性にも触れた。「地域諸国が米国と中国のいずれかを選択することは求めない」という言葉を選ぶあたり、地域の敏感性への理解が相当程度深まった証左である。

 マティス長官の演説は力強く説得性のあるものだったが、「インド太平洋戦略」の具体的な展開について提供された情報は少なかった。この戦略が国防省や米軍の政策の優先順位、軍事態勢、予算などをどのように変化させるのか、同盟・パートナー・地域制度などのアーキテクチャをどのように発展させるのか、中国との関係を「可能な領域で協力する」以上の戦略を示せるのか、こうした具体的で骨太の戦略を示したとはいえない。何より気になったのは、会場から「日米豪印のクアッド協力をどう位置づけるのか?」という質問に対して「もちろん100%サポートするが、限られた演説のなかでこの内容は削った」と発言したことである。まだ推測に過ぎないが、シンガポールでASEAN関係者が多く集う場でクアッド協力を強調することが場として相応しくない、という判断だったのかもしれない。もしくはクアッド協力を推進する具体的な安全保障協力は、まだ端緒についたばかりで大きな推進力と位置付けるのは、時期尚早との判断があったのかもしれない(元米国防省関係者へのヒアリング)。


「クアッド協力」の機運停滞?

 今回のシャングリラ・ダイアローグで感じとったのは、半年間ほど盛り上がりをみせたインド太平洋戦略と日米豪印「クアッド協力」に気運の停滞が見え始めていることである。今回は紙幅の関係で紹介できなかったオーストラリアのマリーズ・ペイン国防相の演説では「インド太平洋」はたびたび登場するが、オーストラリアとしての戦略観の提示というほど練られた内容ではなかった。そしてここでも日米豪印クアッド協力への言及は皆無だった。日本の小野寺大臣が登壇したセッションは朝鮮半島問題が議題の中心だったので、インド太平洋戦略への言及が限られていたのはやむを得なかった。ただし限られた演説稿のなかでも、防衛省・自衛隊がインド太平洋戦略にどう向き合うのか、成熟した議論が反映されているとは言えないようだ。

 中国の台頭による地政学・地経学的環境の変化は、インド太平洋地域全体に関わる課題であることは間違いない。ただ依然として「インド太平洋」の戦略観は多様であり収斂への道は険しそうである。ASEAN諸国には「インド太平洋戦略」を通じて大国間競争に巻き込まれたり、ASEANの中心性をバイパスされたりする懸念や居心地の悪さがついてまわる。また中印関係にみられるように、利害関係の一致を突いた対抗概念の切り崩しも、わずかな期間に生じてしまう。インド太平洋が広大な地域だからこそ、戦略や利害関係を一致させることへの困難さはつきものだ。その中核となるともいわれていた日米豪印の「クアッド協力」も、地域全体で議論する場において沈黙を強いられてしまっている。