メディア掲載  エネルギー・環境  2018.06.05

【人類世の地球環境】自然界における乱世の英雄たち

株式会社 オーム社 技術総合誌・OHM 2018年5月号に掲載

 生物はたくましい。何かが殺されれば、チャンスとばかりに別の生き物が繁殖する。農薬で大型ミジンコが減れば、小型ミジンコが増える。少々自分がやられても、自分の敵がもっとやられる方が、都合が良いのだ。

 生物の敵は、人間の環境破壊である場合もある。だが、それはどちらかと言えば例外で、ほとんどの場合は、他の生物こそが敵である。食うか食われるか、生きるか死ぬか、自然とはそういう厳しい世界だ。

 鬱蒼(うっそう)としたブナの森は、自然の代表としてよく語られる。しかし、本当に発達した巨大なブナの森では、多くの木々が抑圧下の日々を送っている。ブナにほとんど太陽の光を奪われてしまうので、森の中は真っ暗になる。ブナは光だけでなく、水までも奪ってしまう。どうやるかというと、雨は広く伸ばした枝と葉を伝って集められ、幹伝いに、巨木の根元に蕩々(とうとう)と流れるようになっている。大雨の時に森に行くと、そのようにしてブナが水をがぶ飲みし大宴会しているのが観察できるという。こういったブナの大木が茂っていると、コナラなどの他の樹木は全然大きくなれない。ブナの若木でさえ、100年掛かって高さ1mぐらいにヒョロヒョロ育つのがやっとという有様になる。抑圧者であるブナの巨木が1本倒れると、それ!とばかりに、その隙間で木々の成長競争が起きる。コナラはしばらくの間、復活できる。だがやがて、それより高く生長した新しいブナの巨木に光を奪われ、枯れてゆく。

 人間が「環境を破壊」すると、それで喜ぶ生き物も必ずいて、新しい生態系を作る。森林を潰して水田にすると、大虐殺と大発生、悲喜こもごもだ。水田になって喜ぶのは、鯉、鮒、赤トンボ、アゲハチョウ、アメンボ、コオロギなど、日本人にとって馴染みの生き物が多い。けれどもこれはもちろん、森の中のよく名前も知らない雑多の木、花、昆虫たち、気味の悪いキノコやカビが、皆殺しになるという犠牲のうえに立っている。

 鬱蒼とした森林が理想の生態系であるというわけではない。生態系は手つかずにしておくと鬱蒼とした森林である「極相」に辿り着く、という考えは現実には観察されない。どんな森林も絶えず攪乱されており、少し場所や時間が違えば、様々な種が場当たり的に集まり、少しずつ違う、それぞれが豊かな生態系を作り上げる。

 森林が破壊され、攪乱された状態になって、はじめて活躍できる生き物も多い。フランス料理で美味しいアミガサダケは、森林が山火事になった跡地に一斉に生える。これを知る人々は、山火事のニュースを聞くと車を走らせて採りに行く。草地にはウサギや馬が住み着く。草だけでなく、絶えず若木の芽も食べてしまうから、草にとってはライバルの樹木をやっつけてくれるという共生関係になる。工場の跡地には、瓦礫、水たまり、隠れ場所があちこちにあって、多様な生物が棲む。イギリスでは、工場の跡地から多くの絶滅危惧種が見つかった。鬱蒼とした森林を秩序だった帝国だとすると、こういった荒地を愛する生き物たちは、さしずめ乱世の英雄たちといったところか。

 生態系がなくなるということはない。今ある生態系が破壊されることは、別の生態系にとってはチャンスになる。どのような自然条件においても、必ず何らかの新しい生態系ができる。コンクリートで覆われた直線的な都市河川でも、ブロックの割れ目にはタンポポが生え、薄い土砂にはセイタカアワダチソウが生え、ミミズは枯れ草を栄養にして土壌を作り出す。鳩はミミズを上から突っつき、モグラは地中で追いかける。ちなみに、鳩は昔の戦争で通信に使った伝書鳩が用済みになったのが野生化したものだ。川の中では鯉が繁殖して、鴨や鵜が稚魚を狙う。川底からはユスリカが大発生して、コウモリがそれを食べる。ヒバリは草むらで虫を探している。

 生態系は、水と栄養さえあれば、必ず豊かにでき上がる。この力強さの秘訣は、様々な種が生存競争を絶えず行い、環境に適合しないものは淘汰されるという厳しいメカニズムにある。これは経済活動(業績の悪い企業は倒産するから経済全体は打たれ強くなる)、生命活動(機能不全になった細胞は死滅するから生命は維持される)にも共通した構造で、ナシーム・ニコラス・タレブが「反脆弱性」と呼んだものだ。脆弱な要素が滅びることで、システムは強くなっている。

 どんな生態系も、良い・悪いということはない。けれど、人間の都合で、何が好きか、どう利用したいか、ということはある。治世も乱世も良し。必要なことは、上手な管理である。