コラム  国際交流  2018.03.20

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第107号(2018年3月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 先月下旬、雑誌MIT Technology Reviewの3・4月号が届き、今は同誌の特集("10 Breakthrough Technologies")に関し内外の友人達と意見交換を行っている。同誌が列挙した10分野の技術がただちに商業化されるか否かは別として全てが最先端技術であり、世界中の俊英達が日々研究と情報交換を行っている事態に注視する必要がある。ここでは、米独両国の友人から興味深い質問を受けたので簡単に紹介したい。

 ドイツの友人は英国Nature誌の1年前の記事("Nature Index 2017 Japan," March 23)に基づき、日本の研究が抱える問題に関し筆者に尋ねた。また現在の日本人研究者の創造力に関し、ハンス=ヨアヒム・クアイサー博士の著書(Kristallene Krisen, Mikroelektronik Wege der Forschung, Kampf zum Märkte, München: Piper, 1984)の中の文章を引用しつつ質問した--半導体の研究者として、ベル研をはじめマックス・プランク固体物理学研究所(MPI-FKF)やラウエ・ランジュバン研究所(ILL)で活躍した博士は、MPI-FKF所長時代に日本からの訪問者が興味深い質問をしたことを記している。即ち「如何にして創造的研究を組織化し、創造力を養成するのか(Wie kann man schöpferische Forschung organisieren, wie prägt man Kreativität?)」、と。

 米国の友人は情報通信技術(ICT)分野での希薄化した日本の存在を指摘し、その原因として「国際的コミュニケーション能力が弱いが故に、ハード面でいくら強くてもソフト面で弱い日本」を挙げて、筆者の考えを問いただした。

 クアイサー博士の著書の中には、電子技術分野における基礎研究の先駆者の1人として菊池誠氏が詳細に描かれている--同書に英訳(The Conquest of the Microchip, Harvard University Press, 1988)はあるが残念なことに邦訳は無い。筆者は1990年代半ば、MITのスザンヌ・バーガー教授の紹介を通じ、米国のケンブリッジで初めてお目にかかったが、同氏の著書『日本の技術は世界一か?』(1985)を再読してみると、今尚参考になる箇所がある。

 同氏は日本の技術がキャッチ・アップ過程を終え、最先端水準に到達したからこそ、日本での研究が「これまでと同様であってはならなくなってきた」と述べ、1980年代半ばには、すでに「英国の友達などから、『実は、日本の新分野開拓能力は、案外高くはないのだ』などという厳しいコメントも出てくる。そういう時代になった」と語った。

 そして優秀な日本人が内包する問題を、同氏の電子技術総合研究所時代の経験を例に語った--或る大学教授が「優等生」の折り紙を付けた人を、研究所は採用後に或る研究を彼にさせたところ、1ヵ月ほど研究を行って成果が出ないと、「毎日やらされて失敗ばかりしているが、いずれこれは必ずできるということを見込んで私にやらせているんですか、できないかもしれないことをやらせているんですか」と菊池氏に聞きにきたという。菊池氏はこれこそが所謂「優等生の言葉」と語り、この優等生の言動の背景には、日本の大学の修士・博士の段階で「やればできそうな」課題を教授が与える傾向があると語った。このため、日本の「賢い人というのは、目先がきいて、大体わかったからもうこれはやらないでいいや」と言うような人が支配的になっている。従って日本の「『先が見える』という人は、本当は先が見えていない。ただ見えたような気がするだけ」の人なのだ。翻って海外の研究者には「"知的活力"を秘めた人材」が多く、難問に直面した時こそ、執着心と向上心を燃やし、その結果として本当に「先が見える」のだと語った。

 ケンブリッジでは、菊池氏がMIT時代に指導を受けた教授のお宅に筆者の車でお連れするという役割を頂戴し、車中でMITでの生活や菊池氏の大親友でノーベル物理学賞受賞者のウィリアム・ショックレー氏にまつわるエピソード等を直接お聞きする幸運に恵まれた。上述のご著書を再読し、MITでの国際会議で、同氏が日本の大学に関して厳しいお言葉を述べておられたことを思い出している。その時、隣の席にいたドイツ出身の友人は、「高等教育が"機械的な暗記(rote memorization)"が中心なんて日本は大変だね。でもドイツにも同様の問題があるんだ。そうした単純な教育方法を"ニュルンベルクの漏斗(ジョウロ)(Nürnberger Trichter)"と言う」と教えてくれた。

 近年、諸分野において日本の大学は他のアジアの諸大学から追い着き追い越されているが、"日本の漏斗(Japanischer Trichter)"と揶揄されぬよう、日本の大学関係者が果敢にチャレンジされることを期待している。



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「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第107号(2018年3月)